僕の知らない妹と、二人きりの帰り道
「お兄ちゃん、おはよう!」
階段を下りると、キッチンから弾んだ声が聞こえてきた。
朝の光が差し込む食卓には、焼きたてのトーストとスクランブルエッグ、それに彩りのいいサラダが並んでいる。フライパンを手にしていたのは、黒髪を後ろで一つにまとめ、淡いピンク色のエプロンをつけた結衣だった。
「おはよう、結衣。今日はずいぶん早いね」
「ふふん。今日は私が朝ご飯を作ったんだよ!」
得意げに胸を張る結衣の後ろから、母さんが顔を出した。
「昨日の夜から張り切ってたのよ。目覚ましもいつもより三十分早くかけて」
「お、お母さん! そこまで言わなくていいから!」
「だって、結衣が自分から朝ご飯を作るなんて久しぶりなんだもの」
母さんが楽しそうに笑うと、結衣は頬を膨らませた。
つい数日前まで、僕が起こしに行くだけでも不機嫌になっていた妹とは思えない変わりようだ。
「それで、どうして今日は朝ご飯を?」
「決まってるでしょ。今日はお兄ちゃんと一緒に帰れる日だから!」
「……朝ご飯と関係ある?」
「あるの! すっごく!」
どうやら、結衣の中ではちゃんと理由がつながっているらしい。
僕にはさっぱり分からなかったけれど、本人が嬉しそうなので、それ以上は追及しないことにした。
席につき、スクランブルエッグを一口食べる。ふんわりとした卵にほどよくバターが利いていて、少しだけ胡椒の香りがした。
「うん、美味しい」
「ほんと?」
「うん。前よりずっと上手になったね」
「……えへへ。よかった」
結衣はほっとしたように笑った。
その顔を見ていると、僕まで嬉しくなる。
「それにしても、結衣は変わったなあ」
向かいで新聞を広げていた父さんが、しみじみと呟いた。
「少し前までは、綾人が話しかけても『うざい』の一言だったのに」
「お父さん!」
「いや、父さんは嬉しいんだぞ。昔みたいに仲良くなれて」
「それは……そうだけど」
結衣は一度僕を見てから、恥ずかしそうに視線を落とした。
「……あの頃のことは、あんまり言わないで」
いつものように拗ねるのかと思ったけれど、その声には少しだけ後悔が滲んでいた。
「大丈夫だよ、結衣」
僕がそう言うと、結衣は顔を上げた。
「今こうして一緒に朝ご飯を食べられるんだから、それで十分嬉しいよ」
「……お兄ちゃん」
結衣はしばらく僕を見つめていたが、やがて照れくさそうに笑った。
「……そういうこと、朝から言うの反則だよ」
「反則?」
「なんでもない!」
そう言って自分の席に戻った結衣を、母さんが微笑ましそうに眺めていた。
朝食を終えて食器を片付けていると、結衣が僕の袖を引いた。
「ねえ、お兄ちゃん。今日の約束、覚えてる?」
「もちろん。一緒に帰るんだよね」
「うん!」
結衣の顔がぱっと明るくなる。
「それでね、帰りにちょっと寄りたいところがあるんだけど……いい?」
「いいよ。どこ?」
「それは秘密!」
人差し指を唇に当て、いたずらっぽく笑う。
「帰りのお楽しみだから」
「分かった。楽しみにしてるよ」
「……あ、それとね」
結衣は思い出したように付け加えた。
「放課後、少しだけ待っててもらってもいい? クラスの子と約束があるの」
「もちろん。終わったら迎えに行くよ」
「ほんと?」
「うん」
すると結衣は、僕の袖を掴んでいた手を離し、今度は両手で僕の手を包んだ。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
その笑顔があまりにも嬉しそうだったので、僕は思わず頭を撫でてしまった。
結衣は目を細め、気持ちよさそうに身を寄せてくる。
「……えへへ」
三年間の空白を埋めるように甘えてくる妹。
その姿が嬉しい反面、僕は最近、少しだけ不思議に思っていた。
結衣はどうして、あんなに僕を避けていたのだろう。
そして、どうして血がつながっていないと知った途端、こんなにも変わったのだろう。
聞いてみたい気持ちはある。
けれど、ようやく戻ってきたこの笑顔を曇らせたくなくて、僕はまだ、その理由を尋ねられずにいた。
*
「なあ綾人。お前の妹ちゃん、すげえ人気らしいな」
昼休み。
購買の焼きそばパンを頬張りながら、健太がそんなことを言い出した。
「人気?」
「知らないのか? 一年の男子の間じゃ、もう結構有名だぞ」
「へえ……」
「へえ、じゃねえよ! お前の妹だろ!」
健太が大げさに肩を落とす。
その隣で、翔が苦笑した。
「成績もいいらしいな。入学直後の確認テストで、ほとんど満点だったって聞いたぞ」
「ああ、結衣は昔から勉強が得意だから」
中学時代も成績は上位だったし、家で難しそうな参考書を開いている姿を見かけたこともある。
もっとも、三年間ほとんど会話をしていなかったせいで、学校でどんなふうに過ごしていたのかまでは知らなかった。
「しかも、可愛いだけじゃなくて面倒見もいいらしいぜ」
「そうなの?」
「お前、本当に兄貴かよ……」
健太が呆れた顔をする。
「まあ、家と学校じゃ違う顔を見せることもあるだろ」
翔が助け舟を出してくれた。
確かに、その通りかもしれない。
僕にとっての結衣は、昔は甘えん坊で、ここ三年間は冷たくて、そして今はまた甘えん坊に戻った妹だ。
けれど、それが結衣のすべてというわけではないのだろう。
「そういえば、綾人」
翔が話題を変えた。
「今日は琴音ちゃんと帰らないのか?」
「今日は結衣と約束してるんだ」
「なるほどな」
「昨日は幼なじみ、今日は妹ちゃんか……」
健太が遠い目をした。
「俺の青春には、どうしてそういうイベントが発生しないんだろうな」
「お前の場合、イベントが起きても全部騒ぎに変えるからだろ」
「翔! 親友に対して冷たくないか!?」
二人のやり取りに笑っていると、教室の入り口から聞き慣れた声がした。
「綾人、ちょっといい?」
琴音だった。
栗色の髪を肩で揺らしながら、こちらへ歩いてくる。
「どうしたの?」
「昨日のクッキーなんだけど、感想をもう少し詳しく聞きたくて」
「昨日、美味しかったって言ったよね?」
「それは聞いたわよ。でも、甘さとか食感とか、次に作るときの参考にしたいの」
「なるほど」
僕は昨日の味を思い出した。
「甘さはちょうどよかったよ。あと、少し塩気があったのが好きだったかな」
「……そっか」
琴音は鞄から小さな手帳を取り出し、何かを書き込んだ。
「そんなに真剣に研究してるんだ」
「当たり前でしょ。せっかく作るなら、美味しいものにしたいじゃない」
「琴音らしいね」
「……どういう意味よ」
「昔から、好きなことにはすごく一生懸命だったなって」
小学生の頃、琴音は図工の時間に作った作品が気に入らず、放課後まで残って作り直していたことがある。
あの頃から、納得できないことをそのままにしておけない性格だった。
「……よく覚えてるわね、そんなこと」
「覚えてるよ。琴音、悔しくて泣きそうになってたから」
「そこは忘れなさい!」
そう言いながらも、琴音は少し嬉しそうだった。
「……実はさ、最近、お菓子作りだけじゃなくて、ラッピングとかも勉強してるの」
「ラッピング?」
「うん。お菓子って、味だけじゃなくて見た目も大事でしょ。渡した相手が、開ける前からちょっと嬉しくなるようなものを作りたくて」
琴音は手帳を開いて見せてくれた。
そこにはリボンの結び方や箱の形、小さな花の模様が描かれている。
どれも丁寧で、見ているだけで楽しくなるような絵だった。
「すごいな、琴音。こういうデザインも自分で考えてるの?」
「まあね。まだ練習中だけど」
「十分上手だと思うよ」
「……ありがと」
珍しく素直なお礼が返ってきた。
琴音は照れ隠しをするように手帳を閉じると、今度は小さなメモを僕の机に置いた。
「それでね。駅前に新しい焼き菓子のお店ができたらしいの」
「へえ」
「友達が行ってきたんだけど、すごく美味しかったって。包装も可愛いらしいから、ちょっと見てみたくて」
メモには店の名前と簡単な地図が書かれていた。
「琴音なら、きっと参考になるんじゃない?」
「そう思うんだけど……」
琴音はそこで言葉を切り、僕の顔をちらりと見た。
「……一人で行くのも、なんだかなって」
「じゃあ、一緒に行く?」
「…………え?」
「僕も気になるし。琴音と行ったら、いろいろ教えてもらえそうだから」
琴音が目を丸くした。
それから、ゆっくりと頬を赤くする。
「そ、そうね。まあ、あんた一人じゃ何を選んでいいか分からないでしょうし!」
「そこまで頼りなくないと思うけど」
「細かいことはいいの!」
そのとき、健太が勢いよく手を挙げた。
「はい! 俺も行きたい!」
「健太は呼んでない!」
「即答!?」
翔が吹き出し、僕もつられて笑ってしまった。
琴音はますます顔を赤くしていたけれど、怒っているというより、恥ずかしそうだった。
「……じゃあ、予定が合う日に行こうか」
僕が言うと、琴音は小さく頷いた。
「……うん。約束ね」
その声がいつもより柔らかく聞こえて、僕は少しだけ嬉しくなった。
琴音とは小さい頃から一緒にいる。
けれど、最近になって、今まで知らなかった一面を見ることが増えた気がする。
昔からの幼なじみなのに、まだまだ知らないことがあるんだな。
「……なあ、翔」
琴音が教室を出ていった後、健太が妙に真剣な顔で呟いた。
「今のって、やっぱり……」
「言うな。本人が気づくまで待ってやれ」
「……お前ら、何の話?」
僕が尋ねると、二人は揃ってため息をついた。
何だか、納得がいかない。
*
放課後、僕は一年生の教室へ向かった。
結衣には少し待っていてほしいと言われていたので、廊下で時間を潰すつもりだった。
ところが、教室の近くまで来たところで、聞き慣れた声が耳に入った。
「ここは、先に式を整理した方が分かりやすいと思うよ」
開け放たれた扉の向こうで、結衣が黒板の前に立っていた。
周囲には五、六人の生徒が集まり、それぞれノートを開いている。
「えー、結衣ちゃん。なんでそこに気づくの?」
「私も最初は間違えたんだよ。でも、こっちから考えると……ほら」
結衣がチョークを走らせる。
黒板に書かれた式を追っていた女子生徒が、ぱっと顔を明るくした。
「あっ、分かった!」
「本当? じゃあ、次は自分で解いてみようか」
「うん!」
結衣は嬉しそうに頷くと、今度は隣の男子生徒のノートを覗き込んだ。
「ここまで合ってるよ。あと少しだから、頑張って」
その声は落ち着いていて、説明も丁寧だった。
家で僕に甘えてくる結衣とは、まるで別人のように見える。
……すごいな。
僕が知っている結衣は、勉強が得意な妹だ。
けれど、こうして人に教える姿を見るのは初めてだった。
「……あれ?」
そのとき、一人の女子生徒が僕に気づいた。
「あっ! もしかして、結衣ちゃんのお兄さん?」
「え?」
結衣が振り返る。
そして僕と目が合った瞬間、ぱっと表情を輝かせた。
「お兄ちゃん!」
駆け寄ってこようとして、結衣は途中で足を止めた。
教室中の視線がこちらに集まっていることに気づいたらしい。
「……こほん」
小さく咳払いをすると、何事もなかったように背筋を伸ばす。
「お兄ちゃん、もう少しだけ待っててね。あと一問で終わるから」
「うん。急がなくていいよ」
「……ありがと」
そう言って戻っていく結衣の背中を、周囲の生徒たちがにやにやしながら見送っていた。
「結衣ちゃん、今すっごい嬉しそうだったね」
「そ、そんなことないよ!」
「えー? 顔、真っ赤だよ?」
「美咲ちゃん!」
どうやら、からかわれているらしい。
それでも結衣は本気で嫌がっている様子ではなく、困ったように笑っていた。
僕はその光景に、少しだけ安心した。
結衣にも、こんなふうに冗談を言い合える友達がいるんだ。
「初めまして!」
先ほど結衣をからかっていた女子生徒が、僕の方へ歩いてきた。
肩までの髪を揺らした、明るい雰囲気の女の子だった。
「私、佐倉美咲です。結衣ちゃんと同じクラスなんです」
「あ、初めまして。結衣の兄の綾人です」
「結衣ちゃんには、いつもお世話になってるんですよ。勉強も教えてくれるし、すごく面倒見がよくて」
「そうなんだ」
「この前も、入学したばかりで教室が分からなくなった子を案内してあげてたんです」
美咲さんは嬉しそうに話してくれた。
「それに、私が確認テストの結果で落ち込んでたときも、『次、一緒に頑張ろう』って言ってくれて」
「美咲ちゃん、それは言わなくていいから!」
結衣が慌てて口を挟む。
「なんで? いい話じゃん!」
「そうだけど……恥ずかしいよ」
結衣は照れくさそうに笑った。
その表情を見て、僕はふと思った。
三年間、結衣が僕に冷たくしていた間も、こうして学校で友達を作り、誰かを励まし、自分の毎日を過ごしていたんだ。
僕が知らなかっただけで、結衣はちゃんと成長していた。
「……結衣」
「なあに、お兄ちゃん?」
「すごいね」
「……え?」
「みんなに頼られてるんだね。さっきの説明も分かりやすかったし」
結衣は目を丸くした。
それから、少しずつ頬を赤くする。
「……そんな、大したことじゃないよ」
「でも、僕にはあんなふうに教えられないと思う」
「……お兄ちゃん」
「結衣が頑張ってるところ、見られてよかった」
そう言うと、結衣は嬉しそうに目を細めた。
「……えへへ。ありがとう」
その笑顔を見て、美咲さんが楽しそうに笑う。
「結衣ちゃん、お兄さんに褒められると本当に嬉しそうだね」
「もう、美咲ちゃん!」
「だって、さっきまでと全然違うんだもん」
「……それは」
結衣はちらりと僕を見た。
そして、恥ずかしそうに俯く。
「……お兄ちゃんだから、仕方ないでしょ」
その小さな呟きに、美咲さんが目を輝かせた。
「きゃー! 結衣ちゃん、可愛い!」
「ちょっと! 大きな声出さないで!」
教室に笑い声が広がった。
僕もつられて笑いながら、結衣がこんなふうに友達と過ごしていることを嬉しく思った。
*
「お待たせ、お兄ちゃん!」
勉強会が終わり、鞄を持った結衣が駆け寄ってきた。
「もう大丈夫?」
「うん!」
教室を出るとき、美咲さんが大きく手を振った。
「結衣ちゃん、また明日ね!」
「うん、また明日!」
「お兄さんも、結衣ちゃんをよろしくお願いします!」
「美咲ちゃん! 私、子供じゃないんだから!」
「はいはい。じゃあ、明日も勉強教えてね!」
「もう……!」
そう言いながらも、結衣は楽しそうに笑っていた。
廊下へ出ると、結衣がそっと僕の袖を掴んだ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「さっきの私、変じゃなかった?」
「変?」
「ほら、みんなの前で……その、ちょっと格好つけちゃったかなって」
「そんなことないよ。すごく頼もしかった」
「……そっか」
結衣は嬉しそうに笑った。
「実はね、私、誰かに勉強を教えるのって結構好きなんだ」
「そうだったんだ」
「うん。自分が分かったことを、相手にも分かってもらえると嬉しくて」
結衣は少し照れくさそうに続けた。
「それに、昔はお兄ちゃんがいろいろ教えてくれたでしょ?」
「僕が?」
「そうだよ。ひらがなも、自転車の乗り方も」
言われてみれば、そんなこともあった。
まだ小さかった結衣が、補助輪を外した自転車に乗れなくて泣いていた日のことを思い出す。
何度転んでも諦めず、ようやく一人で走れたとき、結衣は振り返って満面の笑みを浮かべた。
『お兄ちゃん! できたよ!』
あの声は、今でも覚えている。
「……懐かしいね」
「うん」
結衣は柔らかく笑った。
「だから私も、誰かに『できた!』って思ってもらえるようなことがしたいなって」
その言葉に、僕は少し驚いた。
「いいね、それ」
「……ほんと?」
「うん。結衣らしくて、すごくいいと思う」
結衣は嬉しそうに笑ったが、やがて少しだけ視線を落とした。
「……でも、お兄ちゃんは知らなかったよね」
「え?」
「私が学校で何してるかなんて、今まで話したことなかったから」
その声には、かすかな寂しさがあった。
「……ごめんね」
結衣がぽつりと呟く。
「三年間、あんな態度取って」
僕は足を止めた。
結衣も、僕の袖を掴んだまま立ち止まる。
「……結衣」
「……うん」
「無理に話さなくてもいいけど、いつか教えてくれる?」
「……何を?」
「どうして、あの頃僕を避けてたのか」
結衣の指先が、ぴくりと震えた。
しばらく沈黙が続いた。
遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。
やがて結衣は、僕の袖を握り直した。
「……うん」
その声は、とても小さかった。
「いつか、ちゃんと話すね」
「分かった」
「……でも、そのとき」
結衣はゆっくりと顔を上げた。
「お兄ちゃん、私のこと嫌いにならないでね?」
その瞳に浮かんだ不安を見て、胸の奥が少し痛んだ。
「嫌いになんてならないよ」
「……ほんと?」
「うん。結衣が何を話してくれても、ちゃんと聞くから」
結衣は目を見開いた。
それから、安心したように息を吐く。
「……ありがとう」
そして、僕の腕にそっと抱きついてきた。
「……大好き、お兄ちゃん」
「うん」
僕は結衣の頭を撫でた。
昔から知っているはずの妹。
けれど、今日一日だけでも、僕の知らなかった結衣をいくつも見つけた。
もしかしたら、僕たちは三年間の空白を埋めるだけじゃなく、もう一度お互いを知っていく必要があるのかもしれない。
そんなことを考えていると、結衣が突然顔を上げた。
「あっ!」
「どうしたの?」
「寄り道!」
「ああ、朝言ってたやつ?」
「うん! こっち!」
結衣は僕の腕を引き、商店街の方へ歩き始めた。
*
連れてこられたのは、駅前の小さな雑貨店だった。
ガラス張りの店先には、可愛らしい文房具やぬいぐるみ、色とりどりのキーホルダーが並んでいる。
「ここ、友達に教えてもらったんだ」
「へえ。結衣、こういうお店好きだったよね」
「うん!」
結衣は嬉しそうに頷くと、迷わず店の奥へ向かった。
どうやら、目当てのものがあるらしい。
「お兄ちゃん、これ見て!」
差し出されたのは、二匹の猫のキーホルダーだった。
一匹は白、もう一匹は黒。どちらも小さな鈴を抱えていて、丸い目が愛らしい。
「可愛いね」
「でしょ?」
結衣は白い猫を手に取った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「これ、お揃いでつけない?」
「お揃い?」
「うん。私が白で、お兄ちゃんが黒」
結衣は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「……駄目かな?」
僕は黒い猫のキーホルダーを見つめた。
男子高校生の鞄につけるには、少し可愛らしすぎる気もする。
けれど、結衣がこんなに嬉しそうに選んでくれたのだ。
「いいよ。鞄につけようか」
「……ほんと!?」
結衣の表情がぱっと明るくなった。
「うん。せっかくだしね」
「……やった!」
結衣は二つのキーホルダーを胸に抱いた。
「じゃあ、今日は私が買うね!」
「え? 自分の分くらい払うよ」
「駄目。私からのプレゼントなの」
「でも……」
「……お兄ちゃん」
結衣は僕を見上げた。
「今まで、いっぱいもらってばっかりだったから。たまには私にも、何かさせて?」
その言葉に、僕は少し驚いた。
結衣は真剣な顔をしていた。
ただ甘えたいだけじゃなくて、自分から何かを贈りたい。
そんな気持ちが伝わってきた。
「……分かった。ありがとう、結衣」
「……うん!」
会計を済ませると、結衣はさっそく僕の鞄に黒い猫をつけてくれた。
自分の鞄には白い猫。
二つを並べ、満足そうに眺めている。
「……お揃いだね」
「そうだね」
「……ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「これ、大切にしてくれる?」
「もちろん」
僕が答えると、結衣は嬉しそうに笑った。
「……よかった」
その笑顔があまりにも幸せそうだったので、僕も自然と笑ってしまった。
店を出る頃には、夕日が街を茜色に染め始めていた。
*
「……ねえ、お兄ちゃん」
帰り道、結衣が僕の腕に寄り添いながら声をかけてきた。
「今日、楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
「……ほんと?」
「もちろん。結衣の学校での様子も見られたし、一緒に買い物もできたからね」
結衣は嬉しそうに笑った。
けれど、少し歩いたところで、ふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、今日、琴音さんと話してたよね?」
「ああ、昼休み?」
「うん。ちょっとだけ見えたから」
「琴音が新しいお菓子屋さんを教えてくれたんだ」
「……お菓子屋さん?」
「うん。今度、一緒に行こうって話になって」
その瞬間、結衣の腕に少しだけ力がこもった。
「……二人で?」
「うん。まだ日にちは決めてないけど」
「……そっか」
結衣は俯いた。
何かを考えているようだった。
「……結衣?」
僕が声をかけると、結衣は顔を上げた。
「……楽しんできてね」
「え?」
「琴音さんと、お菓子屋さん」
結衣は少しだけぎこちなく笑った。
「……お兄ちゃん、琴音さんと仲いいもんね」
その言葉に、僕は昨日のことを思い出した。
琴音は、結衣と仲直りできたことを心から喜んでくれた。
僕が家族のことで不安になったときも、真剣に話を聞いてくれた。
「うん。琴音には、昔から助けてもらってるから」
「……うん」
「結衣と仲直りできたことも、すごく喜んでくれたんだよ」
結衣は驚いたように僕を見た。
「……琴音さんが?」
「うん。結衣のこと、心配してくれてたみたい」
「……そっか」
結衣はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……私、琴音さんにちゃんとお礼言ってなかったな」
「お礼?」
「うん。お兄ちゃんの話、ずっと聞いてくれてたんでしょ?」
僕は少し驚いた。
結衣は昨日のことを気にしていたらしい。
「……そうだね」
「……じゃあ、今度会ったら言わなきゃ」
結衣はそう呟くと、少しだけ笑った。
その笑顔には、まだどこか複雑なものが残っていた。
けれど、僕は嬉しかった。
結衣が琴音のことを、ちゃんと考えてくれている。
それだけで、二人がこれから仲良くなれるような気がしたからだ。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私とも、今度どこか行ってくれる?」
「もちろん。今日だって一緒に来たじゃない」
「そうだけど……」
結衣は少しだけ頬を膨らませた。
「……もっと、いろんなところに行きたいの」
「じゃあ、次の休みに何かしようか」
「……ほんと?」
「うん。何がいい?」
結衣は少し考えた。
それから、ぱっと顔を明るくする。
「……一緒にお菓子作りたい!」
「お菓子?」
「うん! 琴音さんみたいに、私も美味しいクッキー作れるようになりたいなって」
「いいね。僕も手伝うよ」
「……やった!」
結衣は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、僕も安心した。
けれど、次の瞬間。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
結衣は僕の腕からそっと手を離した。
そして、少しだけ躊躇いながら、自分の手を差し出してくる。
「……手、つないでもいい?」
「え?」
「……こうして帰りたいな」
僕はその手を見つめた。
昔、結衣がまだ小さかった頃、迷子にならないようによく手をつないで歩いた。
けれど、今の結衣の手は、あの頃よりずっと大きくなっている。
細く長い指。綺麗に整えられた爪。
……そうか。
結衣も、もう高校生なんだな。
当たり前のことなのに、今さらそんなことを思った。
「……いいよ」
僕が手を差し出すと、結衣は嬉しそうに笑った。
細い指が、僕の手にそっと重なる。
そして、ぎゅっと握られた。
「……あったかい」
結衣が小さく呟く。
「そう?」
「うん。お兄ちゃんの手、昔から好き」
「……そっか」
何だか少し照れくさくなって、僕は前を向いた。
すると、結衣が僕の顔を覗き込んでくる。
「……お兄ちゃん、照れてる?」
「いや、別に」
「ふふっ。可愛い」
「それ、兄に言う台詞じゃないと思うけど」
「いいの。私にとっては可愛いんだから」
結衣は楽しそうに笑いながら、つないだ手を揺らした。
夕暮れの通学路に、二人の影が長く伸びていく。
三年間、まともに話すことすらできなかった妹と、こうして手をつないで帰っている。
少し前の僕なら、想像もできなかった光景だ。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今日ね、私、すっごく幸せだった」
結衣は前を向いたまま、静かに言った。
「お兄ちゃんが迎えに来てくれて、みんなの前で褒めてくれて、一緒に買い物して……」
「うん」
「……こんな日が、ずっと続けばいいな」
その声があまりにも優しかったので、僕は思わず結衣を見た。
結衣は夕日を見つめながら、微笑んでいた。
「……続くよ」
僕がそう答えると、結衣は驚いたように振り返った。
「え?」
「これからも一緒に帰れるし、買い物だってできる。結衣が行きたいところがあったら、また付き合うよ」
「……ほんと?」
「もちろん」
結衣は嬉しそうに目を細めた。
「……そっか」
そして、つないだ手を握り直した。
「……じゃあ、約束ね」
「うん」
「……ずっと、仲良しでいようね」
「当たり前だよ」
僕が笑うと、結衣も笑った。
けれど、しばらく歩いたところで、結衣がぽつりと呟いた。
「……お兄ちゃん」
「何?」
「……私、いつまでも子供じゃないんだよ?」
僕は思わず結衣を見た。
結衣は僕の手を握ったまま、まっすぐこちらを見つめていた。
大きな瞳に夕日が映り込んでいる。
「……それは分かってるよ。もう高校生だもんね」
「……うん」
結衣は小さく頷いた。
けれど、なぜか少しだけ困ったように笑った。
「……そういう意味じゃ、ないんだけどな」
「え?」
「……なんでもない」
結衣はそう言って、前を向いた。
その横顔は、さっきまでとは少し違って見えた。
家で甘えてくる妹とも、教室で友達に勉強を教えていた優等生とも違う。
僕の知らない、何かを胸に秘めているような表情だった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「……いつか、ちゃんと話すからね」
「……うん」
「そのときは、ちゃんと聞いてね」
僕は昨日、琴音にも似たようなことを言われたのを思い出した。
『そのうち、ちゃんと言うから』
『だから、そのときは……ちゃんと聞いてよね』
琴音も、結衣も。
二人とも、僕に何か伝えたいことがあるらしい。
それが何なのか、今はまだ分からない。
けれど、どちらも僕にとって大切な相手だ。
だから、そのときが来たら、ちゃんと向き合おうと思う。
「……もちろん」
僕が答えると、結衣は安心したように笑った。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
そして、つないだ手をぎゅっと握りしめる。
「……大好きだよ」
「僕も大好きだよ、結衣」
そう答えると、結衣は嬉しそうに微笑んだ。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ寂しさが混じったような気がした。
……気のせいだろうか。
僕がそう思っていると、結衣はふいに鞄を持ち上げた。
「……見て、お兄ちゃん」
白い猫のキーホルダーが、夕日に照らされて揺れていた。
「お揃いだね」
「うん」
僕も自分の鞄を持ち上げる。
黒い猫のキーホルダーが、小さく鈴を鳴らした。
結衣は二つを並べ、満足そうに笑った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「何?」
「この猫たち、ずっと一緒にいられるといいね」
「……そうだね」
僕が笑うと、結衣も笑った。
けれど、その手は、なかなか僕から離れなかった。
やがて家が見えてきた頃、結衣がもう一度、僕の鞄を見つめた。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「……明日も、一緒に帰れる?」
「うん。明日は特に予定もないし」
「……ほんと?」
「もちろん」
結衣は嬉しそうに笑った。
そして、小さく呟く。
「……よかった」
その声には、ほっとしたような響きがあった。
僕はつないだ手を見つめた。
昔は、迷子にならないように僕が握っていた手。
今は、結衣の方から離そうとしない。
……まあ、いいか。
三年間、寂しい思いをした分、今はこうして甘えてくれることが嬉しい。
僕は結衣の手を握り返した。
すると、結衣は驚いたように僕を見上げた。
「……お兄ちゃん?」
「ん?」
「……えへへ。なんでもない」
そう言って、幸せそうに笑った。
その笑顔を見ていると、僕まで嬉しくなる。
けれど。
結衣の手を握りながら、僕はふと思った。
今日、教室で見た結衣の姿。
友達に囲まれ、頼られ、楽しそうに笑っていた妹。
そして今、僕の隣で、少しだけ不安そうに手を握っている妹。
どちらも結衣なのだ。
僕が知らなかっただけで、結衣はいつの間にか、こんなにも成長していた。
……僕は、結衣のことをどれくらい知っているのだろう。
そんなことを考えていると、結衣が僕の顔を覗き込んできた。
「……どうしたの、お兄ちゃん?」
「いや、何でもないよ」
「……ほんと?」
「うん。ただ、結衣も大きくなったなって思って」
結衣は一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ頬を赤くする。
「……だから言ったでしょ」
「え?」
「……私、もう子供じゃないんだよ」
その声は、さっきよりも少しだけ真剣だった。
僕は返事をしようとして、言葉を止めた。
何となく、いつものように笑って流してはいけない気がしたからだ。
「……うん」
僕は結衣を見た。
「そうだね。ちゃんと分かってるつもりだったけど、今日、改めてそう思ったよ」
結衣は驚いたように僕を見つめた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そっか」
その笑顔は、今まで見たどの表情とも少し違っていた。
嬉しそうで、照れくさそうで、それでいて、何かを大切に胸の奥へしまい込むような笑顔だった。
「……じゃあ、今日はそれでいいや」
「……それで?」
「うん」
結衣はつないだ手を軽く揺らした。
「……今は、ね」
その言葉の意味は、僕にはまだ分からなかった。
ただ、夕暮れの中で揺れる二つの猫のキーホルダーを見ながら、僕は少しだけ思った。
三年間、離れてしまった妹との距離が、ようやく元に戻り始めたのだと。
けれど、結衣が望んでいるのは、もしかしたら昔と同じ関係ではないのかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
「……お兄ちゃん!」
結衣が僕の手を引く。
「早く帰ろ! お母さん、待ってるよ!」
「ああ、そうだね」
僕は笑って歩き出した。
夕焼けの中、白と黒の猫が、二人の歩調に合わせて小さく揺れていた。
そして結衣は、僕に聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……琴音さんには、負けたくないな」
その声は、夕暮れの風に紛れて消えた。
僕が振り返ると、結衣はいつものように可愛らしく笑っていた。
「……なあに、お兄ちゃん?」
「いや、何か言った?」
「……ううん」
結衣は首を振った。
そして、僕の手をもう一度ぎゅっと握った。
「……大好きって、言っただけ」
その笑顔は、どこまでも幸せそうだった。
けれど、僕はまだ知らない。
結衣の「大好き」が、僕の思っているものとは少し違うことを。
そして、その気持ちが、いつか僕たちの日常を大きく変えていくことを。
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