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僕の妹がこんなにヤンデレデレになるなんて〜Another story  作者: 虹の箸


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9/9

幼なじみと、初めてのデート?

週末の土曜日、僕は駅前の時計塔の下に立っていた。 待ち合わせの時刻までは、まだ十分ほどある。休日の駅前は買い物客や待ち合わせの人たちで賑わい、行き交う人々の話し声に、広場で演奏されているギターの音色が混じっていた。 ふと鞄に目を落とすと、黒猫のキーホルダーが小さく揺れている。 結衣からもらった、お揃いのキーホルダーだ。 昨日の金曜日も、僕たちは約束通り二人で下校した。結衣は学校であったことを楽しそうに話してくれたし、帰りにはスーパーでクッキーの材料を下見するという、少々気の早いことまでしていた。 日曜日に一緒に作ることになったクッキーが、よほど楽しみらしい。 今朝、家を出るときには、少しだけ寂しそうに唇を尖らせていたけれど。 『……今日は琴音さんとお出かけなんだよね』 『うん。前に約束してたから』 『……そっか。楽しんできてね』 そう言って笑ってくれた結衣に、僕は日曜日のお菓子作りを楽しみにしていると伝えた。 すると結衣は、途端に嬉しそうな顔になった。 『じゃあ、明日は私がお兄ちゃんを独り占めする日だからね!』 そんなことを言いながら、玄関まで見送ってくれたのだった。 以前の結衣なら、僕が琴音と出かけることに、もっと複雑な反応をしていたかもしれない。 もちろん、本当のところは分からない。 それでも、楽しんできてと言ってくれたのは嬉しかった。 だからこそ、今日は琴音との約束を思い切り楽しもうと思う。 何しろ、あいつとは小さい頃からの付き合いだ。 二人で出かけること自体は珍しくないけれど、こうして待ち合わせをするのは、考えてみればずいぶん久しぶりだった。


「……綾人、待たせた?」


聞き慣れた声に顔を上げる。 そして、僕は思わず言葉を失った。 「……琴音?」 「な、何よ。その反応」 そこに立っていた琴音は、いつもの制服姿とはまるで違っていた。 淡いベージュのカーディガンに、膝丈のふんわりとしたスカート。足元には落ち着いた色のパンプスを合わせ、栗色の髪には小さな飾りが留められている。 派手な服装ではない。 むしろ、全体的には清楚で落ち着いた印象なのだけれど、それが琴音によく似合っていた。 僕の知っている琴音は、どちらかといえば活動的で、よく笑い、よく怒る女の子だ。 その琴音が、今日はなんだか少し大人びて見える。 「……ちょっと、綾人?」 「あ、ごめん。待たせてないよ。僕も少し前に来たところ」 「そ、そう。ならいいけど」 琴音は安心したように息を吐いた。 ところが、僕がまだ見ていることに気づくと、急に落ち着かない様子になった。 「……なによ。そんなに変?」 「変じゃないよ」 「だったら、どうしてそんなに見てるのよ」 「いや……すごく似合ってるなって」 琴音の動きが止まった。 「……え?」 「その服。いつもの琴音と雰囲気が違うから、ちょっと驚いた」 「…………」 「可愛いと思うよ」 次の瞬間、琴音の顔がみるみる赤くなった。 「なっ……! あ、あんたねえ!」 「え? 何?」 「そういうことを、どうして普通の顔で言えるのよ!」 「いや、似合ってると思ったから……」 「……もう!」 琴音は僕の肩を軽く叩いた。 けれど、本気で怒っているわけではないらしい。横を向いた口元が、ほんの少し緩んでいた。 「……せっかく新しいお店に行くんだから、少しはおしゃれしようと思っただけよ」 「うん」 「べ、別に、あんたと出かけるから特別に気合い入れたわけじゃないんだからね!」 「……そうなの?」 「……っ!」 琴音は一瞬、何か言い返そうとしたようだったが、結局ぷいっと顔を背けた。 「……もういい。行くわよ」 そう言って歩き始めた琴音の横に、僕も並ぶ。 いつもと同じ二人のはずなのに、今日は少しだけ勝手が違う。 隣を歩く琴音のスカートが風に揺れるたび、つい視線が向いてしまう。 ……何だろうな、これ。 別に、琴音の私服を見るのが初めてというわけではないのに。 「ねえ、綾人」 「ん?」 「……さっきの」 「さっき?」 「服のこと」 琴音は前を向いたまま、小さな声で言った。 「……ありがと」 僕は少し驚いた。 いつもなら文句の一つも返してくるのに、今日は素直にお礼を言ってくれた。 「……どういたしまして」 そう答えると、琴音は照れくさそうに笑った。 その横顔を見ているうちに、僕まで妙に落ち着かなくなってしまった。


*


駅前の商店街を少し歩くと、目的の店が見えてきた。 『パティスリー・リュバン』 白い壁に木製の扉。窓辺には小さな花が飾られ、店名の入った看板にはリボンをあしらった可愛らしい模様が描かれている。 店の前には数人の客が並んでいた。 「わあ……写真で見るより素敵」 琴音が目を輝かせる。 「琴音、楽しみにしてたんだね」 「当たり前でしょ。ここの焼き菓子、最近すごく評判なんだから」 そう言いながら、琴音は鞄から小さな手帳を取り出した。 「……何、それ?」 「チェックしたいことをメモしてきたの」 「チェックしたいこと?」 「味とか、商品の並べ方とか、箱のデザインとか。せっかく来るんだから、ちゃんと見ておきたくて」 「……本当に研究熱心だね」 「好きなんだもの。仕方ないでしょ」 琴音は少し照れたように笑った。 その笑顔を見て、僕は思わず頬を緩める。 何かに夢中になっているときの琴音は、昔から楽しそうだった。 けれど、こんなふうに自分の好きなものを語る姿を、最近はあまり見ていなかった気がする。


順番が来て店内へ入ると、甘く香ばしいバターの匂いが鼻をくすぐった。 ショーケースにはマドレーヌやフィナンシェ、色とりどりのマカロンが並び、奥の棚にはクッキーの詰め合わせや焼き菓子のギフトボックスが並んでいる。 どれも美味しそうだ。 けれど、隣の琴音は僕とは少し違うところに目を向けていた。 「……綾人、見て」 「何?」 「このクッキーの箱。中の仕切りが動かせるようになってるの」 「……本当だ」 「これなら、クッキーの大きさが違っても綺麗に並べられるでしょ。それに、リボンの色も箱に合わせて選べるみたい」 琴音はショーケースを覗き込みながら、感心したように息を吐いた。 「すごいなあ……。私もこういうの考えてみたい」 「琴音って、包装とかデザインも好きなんだね」 「うん。前にも少し話したけど、お菓子って食べる前から楽しめるものだと思うの」 そう言って、琴音は小さなギフトボックスを指さした。 「ほら、誰かにプレゼントをもらったときって、中を見る前からわくわくするでしょ? 何が入ってるんだろう、どんな味なんだろうって」 「確かに」 「そういう時間も含めて、贈り物なんだと思う。だから、箱やリボンにも意味があるんじゃないかなって」 琴音の声には、自然と熱がこもっていた。 「もちろん、一番大事なのは味だけどね。でも、渡す相手のことを考えて、色を選んだり、形を工夫したり……そういうのが好きなの」 「……なるほど」 僕は改めてショーケースを眺めた。 正直に言えば、さっきまで僕はお菓子の美味しそうな見た目にばかり気を取られていた。 けれど、琴音に言われてから見ると、同じ商品でも包装によってずいぶん印象が違う。 落ち着いた色の箱もあれば、華やかなリボンを使ったものもある。 どんな相手に贈るかによって、選ぶ楽しさがあるのだろう。 「……琴音って、すごいね」 何気なく口にすると、琴音がこちらを見た。 「……何が?」 「僕なんて、美味しそうだなってことしか考えてなかったから」 「それはそれで大事でしょ」 琴音がくすりと笑う。 「お菓子なんだから、美味しく食べてもらえるのが一番だもの」 「でも、琴音はその先まで考えてるんだね」 「……その先?」 「誰かに渡したとき、どんな顔をするかなって」 そう言うと、琴音は少し驚いたように目を瞬かせた。 「……まあ、そうかもね」 「琴音らしいな」 「……またそれ?」 「うん。だって、この前のクッキーもそうだったでしょ」 僕は笑った。 「昔の誕生日にもらったクッキーだって、ちゃんと覚えてるよ。少し焦げてたけど」 「そこは忘れなさいって言ったでしょ!」 琴音が思わず声を上げ、近くにいた店員さんがこちらを向いた。 僕たちは慌てて口を閉じる。 店員さんは微笑んだだけだったけれど、琴音は恥ずかしそうに僕の袖を引っ張った。 「……もう、綾人の馬鹿」 「ごめん、ごめん」 「……ほんと、昔からそうなんだから」 小さく文句を言いながらも、琴音の口元には笑みが浮かんでいた。


しばらく店内を見て回ったあと、僕たちは焼き菓子をいくつか選ぶことにした。 琴音はフィナンシェとマドレーヌ、それにクッキーを数種類。 僕も同じように選んでいたのだけれど、一つだけ気になる商品があった。 「……琴音、これどう思う?」 「どれ?」 「この、塩バターのクッキー」 「ああ、それ。私も気になってた」 琴音は商品説明を覗き込む。 「発酵バターを使ってるんだって。へえ……」 「この前琴音が作ってくれたのも、少し塩気があって美味しかったから」 「……そう」 「食べ比べてみたいなって」 すると琴音は、なぜか嬉しそうに笑った。 「……じゃあ、私もそれにしようかな」 「同じもの?」 「うん。感想、聞きたいし」 「分かった。じゃあ、あとで食べてみよう」 そう言ってクッキーを選んでいると、琴音がふと別の棚に目を向けた。 そこには、小さな花柄の箱が並んでいる。 「……可愛い」 琴音がぽつりと呟いた。 淡い青色の箱に、白い花が描かれていた。 派手ではないけれど、上品で優しい印象のデザインだった。 「気に入った?」 「うん。こういうの、好き」 琴音は箱を手に取り、指先でそっと表面を撫でた。 「……いつか、私もこんなの作れたらいいな」 その声が、さっきまでより少しだけ静かになった。 「……琴音?」 「……あ、いや」 琴音は小さく笑った。 「将来のこと、まだ全然決めてないんだけどね」 「将来?」 「うん。お菓子を作る仕事もいいなって思うし、こういう包装とかデザインに関わるのも楽しそうだなって」 琴音は箱を棚に戻した。 「でも、好きってだけで仕事にできるほど甘くないだろうし、私にそんな才能があるかも分からないし」 いつも自信ありげな琴音にしては、珍しく弱気な言葉だった。 僕は少し考えてから、口を開いた。 「……僕は、琴音に向いてると思うよ」 「……え?」 「だって、今の琴音、すごく楽しそうだったから」 「…………」 「もちろん、好きってだけじゃ難しいこともあるんだろうけど。でも、琴音は昔から好きなことには本気で取り組んでたし、今日だってこんなに熱心に研究してる」 僕は琴音の手帳を見た。 丁寧に書き込まれたメモや、描きかけの箱のデザイン。 その一つ一つに、琴音が積み重ねてきた時間が表れている。 「才能があるかどうかは、僕には分からない。でも、琴音が本当にやりたいなら、応援したいなって思う」 琴音は何も言わなかった。 ただ、僕の顔をじっと見つめていた。 「……琴音?」 「……ううん」 琴音はゆっくり首を振った。 それから、少しだけ目を伏せる。 「……ありがと、綾人」 その声は、とても柔らかかった。 「私ね、まだ誰にもそんな話、ちゃんとしたことなかったの」 「そうなの?」 「うん。笑われたら嫌だなって思ってたから」 「笑わないよ」 僕がそう言うと、琴音は顔を上げた。 「知ってる」 そう答えた琴音は、照れくさそうに微笑んだ。 「……あんたは、そういう奴だもんね」 いつものような照れ隠しも、強がりもなかった。 ただ、まっすぐに向けられた笑顔。 僕はなぜか、その顔から目を逸らせなくなった。 昔から一緒にいたはずなのに。 こんな顔をする琴音を、僕は知らなかった。


「……ねえ、綾人」 「ん?」 「一つ、お願いしてもいい?」 「もちろん」 琴音は少し迷ったあと、さっきの花柄の箱をもう一度手に取った。 「これ、買ってもいいかな」 「いいんじゃない? 気に入ったんでしょ?」 「うん。でも……」 琴音は箱を胸の前に持ったまま、小さく笑った。 「……今日は、お菓子を買いに来たのに、箱の方が気になっちゃって」 「琴音らしいね」 「もう。それ、今日何回目?」 僕たちは顔を見合わせて笑った。


会計を済ませると、琴音は紙袋を両手で持ち、満足そうに店内を振り返った。 「……楽しかった」 「うん。僕も」 「……また来たいな」 「新しい商品も出るだろうしね」 「そうね」 琴音は小さく頷いた。 そして、少しだけ僕の顔を見た。 「……次も、一緒に来てくれる?」 「もちろん」 僕が答えると、琴音は嬉しそうに笑った。 「……そっか」 その笑顔を見ていると、胸の奥が少し温かくなる。 僕は今日、琴音と出かけてよかったと心から思った。


*


店を出たあと、僕たちは近くの広場へ向かった。 駅前の賑やかな通りから少し離れた場所にある、小さな休憩スペースだ。 ベンチがいくつか並び、植え込みには春の花が咲いている。 「……ねえ、ここで少し食べていかない?」 琴音が紙袋を持ち上げた。 「せっかくだし、感想を聞きたいから」 「いいね」 僕たちは空いているベンチに腰を下ろした。 琴音が取り出したのは、さっき買った塩バターのクッキーだった。 「はい、綾人」 「ありがとう」 包みを開くと、バターの甘い香りが広がる。 一口食べてみると、サクッとした軽い食感のあとに、濃厚な風味とほんの少しの塩気が残った。 「……美味しい」 「……本当だ」 琴音も目を細めた。 「これ、甘さのあとに塩気が来るんだね。なるほど……」 さっそく手帳を取り出そうとした琴音に、僕は思わず笑ってしまった。 「……琴音、今日は休みなんだから、少しくらいゆっくり食べたら?」 「……あ」 琴音は一瞬きょとんとしたあと、照れくさそうに笑った。 「……そうね。つい癖で」 手帳を鞄に戻し、もう一口クッキーを食べる。 春の風が吹き、琴音の髪がふわりと揺れた。 「……ねえ、綾人」 「ん?」 「今日、付き合ってくれてありがとね」 「え? 僕も楽しかったよ」 「……そっか」 琴音は嬉しそうに笑った。 そして、少しだけ遠くを見つめる。 「……昔も、こうしてよく二人で出かけたよね」 「ああ。公園とか、駄菓子屋とか」 「そうそう。あんた、いつも同じお菓子ばっかり買ってた」 「好きだったからね」 「知ってる。毎回、私にも一つくれたもん」 言われてみれば、そんなこともあった。 小学生の頃、僕たちはよく一緒に遊んでいた。 駄菓子屋で買ったお菓子を分け合ったり、公園で日が暮れるまで遊んだり。 あの頃は、琴音と一緒にいることが当たり前だった。 「……懐かしいね」 「うん」 琴音は小さく頷いた。 「……でも、ちょっと不思議」 「何が?」 「昔は、二人で出かけるのなんて普通だったのに」 琴音はクッキーの包みを指先で弄びながら、少しだけ言いにくそうに続けた。 「……今日は、なんだか特別な感じがするから」 僕は思わず琴音を見た。 「……特別?」 「……うん」 琴音は僕と目を合わせないまま、小さく頷いた。 「……服も、いつもよりちゃんと選んだし」 「そうだったんだ」 「……お店も、すごく楽しみにしてたし」 「うん」 「……それに」 琴音は言葉を止めた。 その頬が、少しずつ赤くなっていく。 「……琴音?」 「……っ!」 琴音は慌てて顔を上げた。 「な、なんでもない! 今のは忘れて!」 「え? でも……」 「いいの! 忘れなさい!」 そう言って、琴音はクッキーを一枚、僕の口元へ差し出してきた。 「ほら! これも食べて!」 「ちょ、ちょっと待って、琴音」 「いいから!」 僕は慌ててクッキーを受け取った。 琴音はぷいっと顔を背けたが、耳まで赤くなっている。 ……何だろう。 さっきの言葉が、妙に気になる。 『今日は、なんだか特別な感じがする』 琴音にとって、今日が特別な日。 それは、どういう意味なのだろう。


「……ねえ、琴音」 僕が声をかけると、琴音は少しだけこちらを見た。 「……何よ」 「……僕も、今日はいつもと違う感じがするよ」 琴音が目を見開いた。 「……え?」 「琴音と一緒に出かけるのは、昔から普通だったけど」 僕は少し考えた。 どう言えばいいのか、自分でもうまく分からなかった。 けれど、今の気持ちは伝えておきたかった。 「……今日、琴音の知らなかった一面をいっぱい見た気がする」 「……知らなかった、一面?」 「うん。お菓子のことを真剣に考えてるところとか、将来のこととか」 琴音は黙って僕を見ていた。 「……すごく楽しそうだったし、格好いいなって思った」 「…………」 「それに……」 僕は少しだけ言葉に詰まった。 さっき、待ち合わせ場所で琴音を見たときのことを思い出したからだ。 普段とは違う服装。 照れくさそうに笑う顔。 店内で夢中になって話す姿。 どれも、今まで知っていたはずの琴音なのに、どこか新鮮だった。 「……今日の琴音、なんだかいつもより可愛いなって思ったし」 「…………っ!」 琴音の顔が、一瞬で真っ赤になった。 「な、な、な……!」 「……琴音?」 「……あんたって、本当に……!」 琴音は両手で顔を覆った。 「……ずるい」 その声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。 「……え?」 「……なんでもない!」 琴音は顔を上げると、僕を睨んだ。 けれど、その目は少し潤んでいて、とても怒っているようには見えなかった。 「……そんなこと言われたら、期待しちゃうじゃない」 「……期待?」 「……っ!」 琴音はしまったという顔をした。 そして、慌てて視線を逸らす。 「……もう、知らない!」 そう言って、紙袋を抱えたまま黙り込んでしまった。 僕は何を言えばいいのか分からず、隣に座っていた。 春の風が、二人の間をゆっくりと通り抜ける。 遠くでは子供たちが笑いながら走り回り、鳥の鳴き声が聞こえてきた。 しばらくして、琴音がぽつりと呟いた。 「……でも」 「ん?」 「……嬉しかった」 僕が振り向くと、琴音は少しだけ笑っていた。 「……今日、綾人と来られて」 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。 さっきまでの照れ隠しも、強がりもない。 ただ、素直に嬉しそうな顔。 僕はその表情を見て、何となく目を逸らせなくなった。 「……僕も」 気づけば、そう答えていた。 「……琴音と来られて、よかったよ」 琴音は驚いたように目を瞬かせた。 それから、ゆっくりと微笑んだ。 「……そっか」 その声が、妙に優しく聞こえた。


*


広場を出る頃には、午後の日差しが少し傾き始めていた。 駅へ戻る道を歩きながら、僕たちは他愛のない話をした。 学校のこと。健太と翔の馬鹿騒ぎ。昔の思い出。 いつもと変わらない会話のはずなのに、今日は不思議と楽しかった。 「……あ、そうだ」 琴音が突然足を止めた。 「どうしたの?」 「これ、忘れるところだった」 そう言って、鞄から小さな紙袋を取り出した。 「……はい」 「え?」 差し出されたのは、さっきの店で見かけた、淡い青色の箱だった。 白い花の模様が描かれた、琴音が気に入っていた箱だ。 「……これって」 「今日の記念。……なんて言うと、大げさかな」 琴音は照れくさそうに笑った。 「中は、さっき買ったクッキー。あんたが美味しいって言ってたやつも入ってるから」 「……いいの?」 「うん。私があげたいだけだから」 そう言って、琴音は箱を差し出してきた。 僕はそれを受け取った。 手のひらに収まるほどの小さな箱。 けれど、なぜだかとても大切なものをもらったような気がした。 「……ありがとう、琴音」 「……うん」 琴音は嬉しそうに微笑んだ。 「……大事に食べてね」 「もちろん」 「……箱も、よかったら取っておいて」 「箱?」 「うん。……私、ああいうの好きだから」 琴音は少しだけ恥ずかしそうに笑った。 「綾人にも、覚えててほしいなって」 僕は箱を見つめた。 淡い青色に、小さな白い花。 今日、琴音が夢中になって眺めていたもの。 それを、僕にくれた。 「……うん。ちゃんと取っておくよ」 僕がそう答えると、琴音は安心したように笑った。 「……ありがと」 その表情が、どうしようもなく可愛らしく見えた。 僕は慌てて視線を逸らした。 ……何だろう。 今日の僕は、少しおかしいのかもしれない。


駅前の時計塔が見えてきた。 朝、ここで琴音を待っていたときには、今日がこんな一日になるなんて思ってもいなかった。 「……じゃあ、そろそろ帰ろうか」 僕が言うと、琴音は少しだけ名残惜しそうに頷いた。 「……そうね」 二人で歩き出す。 その途中、琴音が不意に僕の袖を引いた。 「……綾人」 「ん?」 「……今日のこと」 琴音は少しだけ迷ったあと、僕を見上げた。 「……また、こういうふうに出かけたいな」 僕は思わず笑った。 「うん。僕も」 「……ほんと?」 「もちろん。琴音と一緒だと楽しいし」 すると琴音は、嬉しそうに目を細めた。 「……そっか」 そして、少しだけ勇気を出すように息を吸った。 「……じゃあ、今度は私から誘ってもいい?」 「え?」 「お菓子屋さんじゃなくても、映画とか……そういうの」 琴音は僕の顔を見つめた。 いつものような照れ隠しではなく、まっすぐに。 「……二人で」 その言葉に、僕は少しだけ胸が高鳴るのを感じた。 二人で映画。 考えてみれば、昔は何度も一緒に出かけていた。 けれど、今の琴音にそう言われると、なぜだか違う意味に聞こえる。 「……うん」 僕は頷いた。 「楽しみにしてるよ」 琴音は目を丸くした。 それから、ぱっと笑顔になった。 「……約束だからね」 「うん。約束」 そう答えると、琴音は嬉しそうに笑った。 そして、僕の袖を掴んでいた手を、そっと離した。


別れ際。 「……ねえ、綾人」 「何?」 「……今日の服、本当に似合ってた?」 僕は少し驚いた。 「……まだ気にしてたの?」 「だ、だって! あんた、最初にすごく見てたから……」 「似合ってたよ」 僕は笑った。 「すごく可愛かった」 琴音は真っ赤になった。 「……っ!」 そして、しばらく俯いたあと、小さく呟いた。 「……じゃあ、また着てこようかな」 「え?」 「……な、なんでもない!」 琴音は慌てて顔を上げる。 「ほら、もう帰りなさい! 結衣ちゃんも待ってるんでしょ!」 「いや、今日は別に待ってないと思うけど……」 「そういうことじゃないの!」 僕は思わず笑ってしまった。 琴音も、つられたように笑う。 「……じゃあね、綾人」 「うん。また月曜日」 琴音は小さく手を振ると、駅の方へ歩いていった。 僕はその背中を見送りながら、手の中の箱を見つめた。 淡い青色の箱に、小さな白い花。 今日、琴音が僕にくれたもの。 それを鞄にしまおうとして、ふと黒猫のキーホルダーが目に入った。 結衣からもらった、お揃いの猫。 そして、琴音からもらった、花柄の箱。 どちらも、僕にとって大切な贈り物だ。 けれど、そこに込められた気持ちまで、同じなのだろうか。 そんなことを考えている自分に気づき、僕は少しだけ驚いた。


帰り道、スマートフォンが震えた。 画面には、結衣からのメッセージが表示されている。


『お兄ちゃん、今日は楽しめた?』 『明日のクッキー、何味にするか決めたよ!』 『帰ったら教えるね!』


最後には、白い猫のスタンプが添えられていた。 僕は思わず笑ってしまった。


『楽しかったよ。今から帰るね』 『明日のクッキーも楽しみにしてる』


そう返信すると、すぐに既読がついた。 続いて、元気いっぱいのスタンプが送られてくる。 ……本当に、結衣らしい。


僕はスマートフォンをしまい、再び歩き出した。 春の風が頬を撫でる。 鞄の中には、琴音からもらった箱。 鞄の外には、結衣からもらった黒猫のキーホルダー。 どちらも、今日の僕には少しだけ特別に思えた。 そして、ふと気づく。 さっきから僕は、琴音の笑顔を何度も思い出している。 お菓子を眺めているときの真剣な横顔。 将来のことを語るときの少し不安そうな表情。 そして、別れ際の照れくさそうな笑顔。 どれも、今まで何度も見てきたはずなのに。 今日は、どうしてこんなに印象に残るのだろう。


「……琴音、か」


小さく呟いて、僕は空を見上げた。 夕暮れにはまだ少し早い、明るい春の空。 その下で、僕は何となく笑っていた。 次に琴音と出かける日が、少し楽しみになっている。


それが何を意味するのかは、まだ分からない。


けれど今は、その気持ちを無理に言葉にしなくてもいいような気がした。


お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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