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第九章 壊れていく王太子

日を追うごとに、カイゼル殿下の変貌は、誰の目にも明らかなものになっていった。

かつては、多少厳しくとも、公正さを何よりも重んじる方だった。

けれど今の殿下からは、その面影を見つけることが、日に日に難しくなっていた。

側近であるルーカスは、幼い頃から殿下に仕えてきた伯爵家の子息である。

誰よりも殿下の変化を近くで見てきた彼は、ある日、意を決して進言した。

 

「殿下。公爵家を敵に回すべきではありません」

 

執務室で、ルーカスは静かに、けれどはっきりとそう告げた。

軍の指揮権を巡る一件以来、殿下とオスカー公爵――私の父との間には、明らかな亀裂が生じ始めていた。

これ以上、王国の要である公爵家と対立を深めることは、国そのものの土台を揺るがしかねない。

ルーカスの言葉は、至極まっとうな忠言だった。

けれど、殿下の反応は、以前とはまるで違っていた。

 

「黙れ!」

 

激しい怒声とともに、殿下は机を蹴り飛ばした。

書類が宙を舞い、鈍い音を立てて床に散らばる。

ルーカスは、その豹変ぶりに、思わず言葉を失った。

 

「殿下……」

 

かろうじて、そう呼びかけるのが精一杯だった。

幼い頃から知る殿下は、決してこのように声を荒げる人ではなかった。

どれほど理不尽な扱いを受けようとも、常に冷静さを保ち、感情に流されることを何よりも恥じる方だった。

それが今、まるで別人のように、怒りに我を忘れている。

その事実だけが、ルーカスの胸に、重く突き刺さった。

その夜、ルーカスは眠れぬまま、王宮の回廊を歩いていた。

考え事をしながら、殿下の私室の前を通りかかったとき、ふと足を止めた。

扉の向こうから、微かに声が漏れ聞こえてきたからだ。

 

「はい……ミレイユ」

 

殿下の声だった。

続けて、こう聞こえた。

 

「あなたの言う通りに」

 

ルーカスは、思わず息を潜めた。

殿下の私室には、この時間、殿下お一人しかいないはずだった。

けれど、明らかに誰かと会話をしているような口調だった。

まるで、目の前に相手がいるかのように、殿下は言葉を返し続けている。

ルーカスは、扉に耳を寄せることも躊躇われるほどの、言い知れぬ薄気味悪さを感じた。

けれど、確かめないわけにはいかなかった。

翌朝、ルーカスは思い切って、昨夜のことを殿下に尋ねてみた。

 

「殿下、昨晩、どなたかとお話をされていましたか」

 

さりげなく切り出したつもりだった。

けれど、殿下の反応は、予想とはまったく違っていた。

 

「昨夜? 何のことだ」

 

殿下は、心底不思議そうな顔をしていた。

その表情に、嘘をついている様子は微塵も感じられない。

つまり、殿下自身、昨夜の記憶をまったく失っているということだった。

その事実に、ルーカスは確信した。

 

「殿下は病ではない」

 

誰にともなく、そう呟く。

これは、心の病でも、単なる気の迷いでもない。

何者かが、殿下の意識そのものに、直接干渉している。

その考えに至った瞬間、ルーカスの背筋には、冷たい汗が流れた。


同じ頃、公爵邸では、私も一つの決断を下そうとしていた。

自室の机の引き出しから、婚約の証として殿下からいただいた指輪を取り出す。

繊細な細工が施されたそれは、かつて、二人で築くはずだった未来の象徴だった。

月光を受けて、静かに輝いている。

その指輪を掌に乗せたまま、私はしばらく動けなかった。


脳裏に蘇るのは、舞踏会の夜のことだ。

ミレイユの赤い瞳。

世界が歪み、膝から崩れ落ちた瞬間。

最初はわずかにチビっただけの温かさ。

それだけでプライドが砕け、強いショックを受けた。

なのに事の重大さに気づくにつれてパニックになり、熱いものが勢いよく溢れ、ドレスがぐっしょりと染まり、床に水たまりが広がっていく――あの惨めな感触。

大勢の視線。

ミレイユの嘲るような微笑みと「おしっこを漏らしてしまうなんて」という言葉。

殿下の「みっともない」「汚い」という軽蔑。


その後も、悪夢でうなされておねしょをしてしまう夜が続き、ノエルもクラリーチェもエルザも、同じように公衆の面前で漏らさせられ、夜ごとシーツを汚す羞恥に苦しんでいる。

禁書庫で見つけた断片によれば、あの力は意図的に「漏らさせ、おねしょをさせ、羞恥の底へと沈める」ことで、誇りを砕き、尊厳を奪うものだった。


私の指先が、わずかに震えた。

下腹部が、記憶だけでびくりと反応しそうになる。

羞恥が、今もなお体の奥で熱く疼いている。


「あんな姿を晒した私が……」

「また漏らしてしまうかもしれない私が……」


その思いが、胸を締めつける。

誰よりも完璧であるべきだった公爵令嬢が、公衆の面前でおしっこを漏らし、夜ごとにおねしょまでしてしまう。

その事実だけで、私は永遠に人前に立てなくなるはずだった。

ミレイユは、それを狙っていたのだ。

羞恥で私を壊し、動けなくさせるために。


涙が、静かに頬を伝う。

けれど、それは以前のような、ただ悲しみに暮れるだけの涙ではなかった。

これまでの日々への、一つの区切りをつけるための涙であり――

そして、その羞恥に負けないための、決意の涙でもあった。

その指輪を、私はそっと小さな箱へしまい込んだ。

涙が、静かに頬を伝う。

けれど、それは以前のような、ただ悲しみに暮れるだけの涙ではなかった。

これまでの日々への、一つの区切りをつけるための涙だった。

 

「もう、戻れないのね」

 

小さく、そう呟く。

かつて誓い合った未来は、もはやどこにも存在しない。

けれど、その事実を受け入れたからこそ、私は前を向く力を、ようやく取り戻し始めていた。

羞恥に負けない。

ミレイユがあの赤い瞳で私を睨み、熱いものを溢れさせ、床を汚させ、プライドを粉々に砕いたとしても。

夜ごと悪夢でうなされ、シーツをぐっしょりと汚してしまう自分が、どれほど惨めでも。

その羞恥を、逆に燃料にする。


「負けない」


声に出して、もう一度自分に言い聞かせる。

指先の震えを、意識的に抑え込む。

下腹部に残る残滓のような恐怖を、深呼吸で押し殺す。

あの夜、熱いものが止まらずに溢れ、ドレスが重く湿っていく感触を思い出しながらも、私は背筋を伸ばした。


殿下を苦しめているものの正体を、必ず突き止める。

そして、この王国を蝕む闇を、必ず暴いてみせる。

私を公衆の面前で漏らさせ、友人たちまで次々と失禁させ、夜ごとにおねしょの羞恥で追い詰めている元凶を、絶対に許さない。

それが、かつての婚約者としてではなく、この国に生きる一人の令嬢として、私にできる、最後の責務のように思えた。

いや――今は、それ以上だ。

あの羞恥を味わったからこそ、私は逃げられない。

逃げたら、ミレイユの思惑通り、尊厳を奪われたまま終わりになる。

指輪の入った箱を、そっと引き出しの奥にしまい込む。

窓の外には、静かに夜が更けていく。

その夜空を見上げながら、私は改めて自分に誓った。

どれほど恐ろしい真実が待っていようとも、もう目を逸らさない。

たとえ再びあの赤い瞳に睨まれ、体が震え、熱いものが零れそうになっても。

たとえまた羞恥で顔を真っ赤に染め、下着を汚すことになっても。

私は、立ち止まるつもりはない。

ノエルも、クラリーチェも、エルザも、そしてルーカスでさえも、それぞれの形で、あの見えない敵と対峙しようとしている。

ならば、私もまた、公爵令嬢として、そして一人の人間として、前へ進まなければならない。

公衆の面前で漏らしたあの夜の羞恥も、夜ごとにおねしょをしてしまう惨めさも、すべて引き連れて。

そのすべてを抱えたまま、私は真実へ向かう。

その決意だけが、この夜、私の胸の中で、静かに、しかし確かな熱を持って燃え始めていた。

羞恥に負けない。

恐怖に負けない。

私は、もう壊れない。










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