第八章 禁書庫の記録
エルザの一件から数日が経っても、クラリーチェは調査の手を緩めようとはしなかった。
むしろ、あの日の恐怖を経験したことで、彼女の探究心は、以前にも増して強くなっているように見えた。
「あれほどの護符が、一瞬で砕けたのです。単なる精神魔法の範疇では、絶対にありません。それに……わたくし達が味わった症状は、ただ『怖くて動けなくなった』だけでは済みませんでした」
彼女は声を落とし、周囲に誰もいないことを確認してから続けた。
「公衆の面前で、段階的に自制を奪われ、漏らさせられる。最初はわずかにチビる。プライドが傷つき、必死に締めようとする。それなのに徐々に制御が利かなくなり、最終的に勢いよく、止められずに溢れ出す。しかも意識ははっきりしたまま、自分がどれほど惨めな姿を晒しているかを理解しながら、体が言うことを聞かない。エルザ様に至っては、激しく震えながら、なかなか止まらないほどに……。さらに夜になると、悪夢でうなされておねしょまでしてしまう。アイリス様も、ノエル様も、わたくしも、エルザ様も、皆同じです。特にエルザ様は、あの一件以降ほぼ毎日のようにシーツを汚してしまい、苦しんでいらっしゃる。これは偶然の失禁ではありません。相手の尊厳を、羞恥で徹底的に破壊するために設計された力です。その原因を、どうしても突き止めなければなりません」
私とノエルとエルザは、赤くしながら顔を見合わせた。
夜ごとにおねしょをしてしまう羞恥も、昼間に余波で下着を汚してしまう恐怖も、すべてが「ただの心の弱さ」ではないと、改めて突きつけられた気がした。
「わたくしは、王立図書館の最深部を調べようと思います」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
王立図書館の最深部――禁書庫と呼ばれるその場所は、王家の許しを得た者以外、立ち入ることすら許されない特別な区域だと聞いている。
「入れるの?」
私が尋ねると、クラリーチェは小さく頷いた。
「わたくしの家は、代々王家の学問を司る家系です。閲覧の許可だけは、辛うじて得ることができました。あそこでなら、魂に干渉する禁呪や、特異な魔眼に関する記録が残っているかもしれません。わたくし達が次々と……漏らさせられた原因を、必ず見つけます」
その言葉通り、翌日、クラリーチェは正式な許可を得て、禁書庫へと足を踏み入れることになった。
私も、彼女の身を案じ、共に向かうことにした。
ノエルとエルザも「一人で行かせるわけにはいかない」と同行を願い出たが、許可の関係で今回は私とクラリーチェの二人だけとなった。
王立図書館の地下深く、幾重にも張り巡らされた結界を抜けた先に、禁書庫はあった。
天井まで届く書架には、何千冊とも知れぬ古文書が、静かに眠っている。
埃と羊皮紙の匂いが、部屋全体に染みついていた。
クラリーチェは迷うことなく、精神魔法や禁忌の力に関する棚へと向かっていく。
「精神魔法、魅了、洗脳、幻術、恐怖投影、魂縛……それに『羞恥』や『尊厳破壊』に関する記述も探します。わたくし達が味わったのは、単なる恐怖ではない。漏らさせることでプライドを砕き、夜ごとにおねしょをさせてさらに羞恥で追い詰める……そういう意図的な力が働いているはずです」
彼女は、次々と古書を手に取っては、目を通していく。
けれど、そのどれもが、私達の症状とは一致しなかった。
魅了は対象の意識を残したまま感情だけを操るもの。
洗脳は、長い時間をかけて価値観を書き換えるもの。
幻術は、視覚や聴覚を欺くだけのもの。
一般的な恐怖投影でも、あそこまで精密に下半身の制御を段階的に奪い、公衆の面前で漏らさせ、さらに悪夢によるおねしょまで引き起こすものは見つからなかった。
私達が味わったあの一瞬の、抗いようのない身体的な恐怖とは、どれも決定的に異なっていた。
数日にわたる調査の末、クラリーチェは一冊の古びた本を見つけ出した。
表紙には、かろうじて読み取れる文字で、こう記されていた。
『魔眼録』
その名前を目にした瞬間、私の胸の奥で、何かが強く反応した。
クラリーチェも、同じ予感を抱いたのだろう。
震える手で、その本を丁寧に開いていく。
けれど、期待とは裏腹に、肝心の内容が記されているはずのページの多くは、無残に切り取られていた。
まるで、誰かが意図的に、その情報を隠したかのように。
わずかに残されたページの断片に、かすれた文字がいくつか読み取れた。
『その眼を見る者、魂は本能の恐怖を知る』
さらに、切り取られかけた端に残っていた文章の一部が、私の視線を釘付けにした。
『……恐怖は段階を踏み、まずわずかに漏らさせ、対象のプライドを傷つける。次いで制御を徐々に奪い、公衆の面前にて完全に失禁せしむ。意識は明晰なるまま、己の惨めさを味わわせ、尊厳を粉砕するを旨とす。夜に至りては悪夢を通じて再び襲い、おねしょを繰り返させ、羞恥を深めしむる……』
『……漏らさせ、おねしょをさせ、羞恥の底へと沈めることこそが、魂を蝕む最短の道なり。誇り高き者ほど、その屈辱に耐えきれず……』
クラリーチェは、その断片を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
私も、息を殺してその文字を読み返した。
「これです……」
やがて、絞り出すような声で、彼女は呟いた。
「わたくし達が感じたあの感覚は、これで説明がつきます。あれは、精神への干渉ではなく、魂そのものへの干渉なのです。しかも、ただ恐れさせるだけではない。意図的に『漏らさせる』ことで、対象の尊厳を奪い、羞恥で苦しめ、プライドを砕く。舞踏会であなたが最初にわずかにチビり、ショックを受け、それから完全に漏らし始めたのも。ノエル様が崩れ落ちてびしょびしょになり、手を差し伸べられただけでさらに漏らしたのも。わたくしが知性を誇りにしながら、衆人環視の中で勢いよく失禁してしまったのも。エルザ様が激しく震え、なかなか止まらずに床を汚し続けたのも。そして夜ごと、悪夢でうなされておねしょをしてしまうのも……すべて、この記述と一致します。あの魔眼は、相手を最大限に辱め、尊厳を奪うために、失禁とおねしょを利用しているのです」
その言葉に、私は背筋が冷たくなるのを感じた。
魂そのものに直接働きかけ、しかも公衆の面前でのお漏らしや夜のおねしょという、最も惨めな形で羞恥を強いる力。
これまで聞いたこともない、悪質で精密な力だった。
そして何より、恐ろしいのは、この決定的な記述が、まさに何者かによって切り取られていたという事実だった。
「誰が、これを……」
私が呟くと、クラリーチェは険しい表情で本を閉じた。
「切り取られたのは、おそらくそう昔のことではありません。切断面が、まだ新しいのです。しかも、残された断片だけでも、わたくし達の症状――特に『段階的な失禁』と『悪夢によるおねしょ』による尊厳破壊――を、これほど正確に言い当てている。意図的に隠されたのでしょう。誰かが、この力の詳細を知られたくないのです」
つまり、この禁書庫に自由に出入りできる何者かが、意図的に情報を隠している。
王家しか立ち入ることのできないはずのこの場所に、すでに敵の手が及んでいるということだ。
その事実は、私達が思っていたよりもずっと、事態が深刻であることを物語っていた。
「王立図書館にまで、入り込んでいるというの……そして、わたくし達を次々と漏らさせ、羞恥で苦しめている力が、こんなふうに『尊厳を奪うためのもの』として記録されていたなんて……」
私の声は、自然と震えていた。
クラリーチェも、静かに頷くことしかできなかった。
夜ごとにおねしょをしてしまう自分の惨めさすら、あの力の計算のうちだったのだ。
エルザがほぼ毎日苦しんでいるのも、意図的に魂を蝕むための過程なのだと知って、胸が張り裂けそうになった。
その頃、王都の外れ――ベルクレスト男爵邸では、誰も知らない秘密が、深く静かに息づいていた。
邸宅の地下には、隠された祭壇が存在していた。
石造りの狭い空間に、黒い蝋燭が幾つも灯され、壁一面には見たこともない魔法陣が刻まれている。
その中央で、ダミアン男爵が跪いていた。
「継承は順調です」
彼は、暗闇の奥に向かって、恭しくそう告げた。
その声には、これまで表向きに見せてきた成功した商人としての柔和さは、微塵も感じられなかった。
代わりに滲んでいたのは、狂信的なまでの忠誠だった。
「あの娘は、すでに四人の魂を羞恥で汚しました。公衆の面前で漏らさせ、夜ごとにおねしょを繰り返させ、誇りを砕いています。魔眼の力は、確実に深まっております」
暗闇の奥からは、誰のものとも判別できない、低い笑い声だけが響いていた。
その声に、輪郭はない。
けれど、確かにそこに、何者かの意志が存在していることだけは、はっきりと感じ取れた。
ダミアンは、その声に深く頭を垂れる。
まるで、それこそが真の主であるかのように。
私達がその光景を知るはずもない。
けれど、禁書庫で見つけたわずかな手がかり――特に、漏らさせ、おねしょをさせて尊厳を奪うという記述――と、この王都の片隅で静かに進められている何かとが、確実に繋がっているという予感だけは、拭い去ることができなかった。
真実は、まだ深い闇の中にある。
だけど、その闇の輪郭だけは、少しずつ、しかし確実に、私達の前に姿を現し始めていた。
そして、私達が味わった惨めな失禁と、夜ごとのおねしょの羞恥もまた、その闇が意図的に仕掛けた、尊厳を砕くための罠だったのだと、今ははっきりと理解し始めていた。




