第七章 王宮に忍び寄る闇
エルザが倒れてから、学院内の空気は、明らかに変わっていた。
誰もが表向きは平静を装いながらも、廊下ですれ違う友人の視線にすら、怯えを滲ませるようになっていた。
けれど、その静かな恐怖は、学院の外――王宮の奥深くにも、確実に広がり始めていた。
王都中で、奇妙な噂がひそひそと囁かれ始めていた。
「公爵令嬢のアイリス様が、舞踏会で公衆の前で失禁した」
「親友の侯爵令嬢ノエル様も、中庭でミレイユ様に睨まれて崩れ落ち、びしょびしょに漏らした」
「秀才のクラリーチェ様まで同じ目に遭って、床に水たまりを作った」
「今度は心優しいエルザ様が、聖印まで砕かれて、これまでの誰よりも激しく、止まらずにお漏らししたらしい」
「四人連続よ。令嬢たちが次々と、恐怖でおしっこを漏らしている……」
「呪われているんじゃないかしら。赤い瞳を見た瞬間、体の自由を奪われて、みんなの前で惨めに……」
酒場でも、サロンでも、貴族の私邸でも、そんな生々しい噂が止まらなかった。
「理想の令嬢」だった私が公衆の面前で漏らしたこと、そして友人たちまでが次々と同じように失禁させられているという事実が、誇張を交えながら王都中を駆け巡っている。
証拠はない。
けれど、目撃者は多すぎた。
染みの広がったスカート、床の水たまり、震えながら「ごめんなさい」と謝る姿――それらの断片が、悪意のある口から口へと伝わっていく。
私自身、登校するたびに、視線が下半身に滑るのを感じずにはいられなかった。
父から聞いた話によれば、国王ローランド六世は、日に日に息子の異変への危機感を強めていたという。
執務中でも、殿下は上の空であることが多くなった。
これまで王国を陰から支えてきた古参の重臣達を、これといった理由もなく次々と罷免し、代わりに、これまで名も知られていなかった新興貴族達を、要職へと次々に取り立てていく。
その采配は、これまでのカイゼル殿下からは、到底考えられないものだった。
「殿下は誰かに操られているのでは」
宰相が、思い詰めた表情で、そう国王へ進言したという話を、私は父から聞かされた。
国王は、その言葉を即座に否定しようとしたそうだ。
けれど、続く言葉は、喉の奥で止まってしまった。
なぜなら、国王自身もまた、同じ疑念を、心のどこかで抱き続けていたからだ。
そんな折、私のもとへ、再び王妃マルグリット様からの使いが届いた。
前回と同じように、目立たぬ装いで王宮へと向かう。
案内された部屋には、王妃様がお一人で待っていらっしゃった。
「あなたを信じています」
私の手を取り、王妃様は静かにそう仰った。
その言葉は、いつも変わらず温かい。
けれど、私はどうしても、その言葉に素直に頷くことができなかった。
「ですが……私は何も証明できません。王都中で、わたくしや友人たちが次々と……公衆の面前で失禁しているという噂ばかりが広がっています。真実を話しても、誰も信じてはくれないでしょう」
俯きながら、そう答える。
私を信じてくださる方がいる。
それは、この上ないほど心強いことだ。
けれど、噂は日に日に王都中へ広がり、私を非難する声も、決して小さくなってはいなかった。
証拠のない言葉だけでは、この状況を覆すことはできない。
その現実が、私の胸を重く締めつけていた。
王妃様は、そんな私を、そっと抱きしめてくださった。
温かい腕の中で、私は懸命に涙をこらえようとした。
けれど、身体の震えだけは、どうしても止めることができなかった。
あの夜以来、夢の中で繰り返し現れる赤い瞳の記憶が、今もなお、私の心を蝕み続けている証拠だった。
その夜、公爵邸に戻ってからも、私は結局、赤い瞳の悪夢に苛まれることになった。
暗闇の中で光る、二つの赤い光。
ミレイユの瞳。
大広間。
膝から崩れ落ちる感触。
最初はわずかにチビっただけだったのに、徐々に制御を失い、熱いものが勢いよく溢れ、ドレスがぐっしょりと染まり、床に水たまりが広がっていく――あの惨めな記憶が、何度も再生される。
ノエルが漏らす姿、クラリーチェが知性を失ってびしょびしょになる姿、エルザが激しく震えながら止まらずに失禁し続ける姿までが、重なって襲ってくる。
「見ないで……やめて……出ないで……っ」
夢の中で叫んでも、声は出ない。
赤い瞳がすぐ目の前まで迫り、低い声が響く。
「見るな」
「――っ!」
飛び起きた瞬間、全身がびっしょりと汗にまみれていた。
寝間着が肌に張り付き、髪も背中もぐっしょりと濡れている。
心臓が早鐘のように打つ。
そして――下半身の、熱く湿った感触に気づいた。
「あ……ああ……っ」
また、だった。
股の間がびしょびしょに濡れ、寝間着の裾が重く張り付き、シーツにじわりと大きな染みが広がっている。
温かかった液体が太ももを伝い、マットレスにまで染み込み、空気に触れて冷たくなっていく。
かすかな、しかしはっきりとした自分の尿の匂い。
おねしょを、またしてしまったのだ。
羞恥が、全身を焼き尽くした。
公衆の面前で漏らしたのに続き、一人のベッドでも。
悪夢に怯えて、大人の公爵令嬢がおしっこを漏らしてしまう。
手が震え、濡れたシーツに触れてしまい、冷たく湿った感触が指先から脳へ流れ込む。
顔を覆い、嗚咽を漏らす。
「どうして……また……こんな……」
プライドが抉られ、死にたいほど惨めだった。
誰にも知られたくない。
この濡れた感触も、染みも、匂いも、すべて消してしまいたかった。
けれど、これは私一人の問題ではなかった。
ノエルからも、クラリーチェからも、そしてエルザの実家からも、似たような知らせが届いていた。
三人とも、赤い瞳の悪夢にうなされ、飛び起きたときにシーツを汚してしまうことが増えているという。
ノエルは「あの目を見るたびに、体が熱くなって……止まらなくて」と手紙に書いてきた。
クラリーチェは「理論など何の役にも立たない。知性で恐怖を抑えきれず、夜な夜な……こんな惨めなことを」と、悔しさと羞恥を滲ませた文面だった。
そして、最も深刻なのはエルザだった。
あの激しい失禁の一件以降、エルザはほぼ毎日のように、悪夢でおねしょをしてしまっているらしい。
両親からの密かな手紙によれば、夜になると激しく震え、赤い瞳を見て叫び、シーツをぐっしょりと汚してしまう日が続いているという。
替えても替えても、翌朝にはまた大きな染みができている。
「止まらないのです。昼間も、ふとした瞬間にあの感触を思い出して、下着を少し汚してしまうことがあります。わたくしはもう、普通に眠れません。恥ずかしい……死ぬほど恥ずかしいのに、体が言うことを聞かなくて……」
エルザの手紙は、涙の跡で滲んでいた。
心優しかった彼女が、最も深く傷つき、最も頻繁に、夜ごとにお漏らしの羞恥に苛まれ続けている。
私は手紙を握りしめ、胸が張り裂けそうになった。
四人ともが、同じように悪夢にうなされ、同じように夜のベッドで漏らしてしまう。
これはもう、ただの心の弱さではない。
あの不思議な力が、私たちの体の奥底にまで根を張り、夜ごと制御を奪い続けているのだ。
汗と尿でぐしょぐしょになった寝間着を着替え、シーツを替えてもらいながら、私は自分の弱さを呪った。
けれど、同時に、これが決して私一人の弱さの問題ではないことも、はっきりと理解し始めていた。
一方、その頃。
王宮の一室では、ミレイユがカイゼル殿下と、二人きりで茶会を開いていた。
柔らかな午後の光が差し込む部屋で、彼女は優雅に紅茶を口へ運びながら、静かに囁いた。
「殿下」
その声に、殿下はゆっくりと視線を向ける。
「誰もあなたを理解していません」
続けて、そう告げる。
その言葉には、まるで殿下だけを深く理解しているかのような、甘やかな響きが込められていた。
「臣下達は、あなたの決断を古い慣習で縛ろうとするだけ。国王陛下でさえ、あなたを一人の男として見てはくださらない。ですが、わたくしだけは違います。……それに、あの令嬢たちも、噂通りみっともなく漏らしてばかりいるようですよ。未来の王妃候補が、友人たちと一緒に、次々と公衆の前でおしっこを漏らすなんて。そんな女たちに、王国の未来など任せられませんね」
殿下は、静かに頷いた。
その仕草には、以前の潔癖なまでの真面目さは、もはや見る影もなかった。
瞳の奥は、以前よりも明らかに濁っている。
まるで、澄んだ湖の底に、じわりと墨が広がっていくかのように。
「そうか……。お前だけが、私を理解してくれるのだな。あんな、恐怖ひとつでお漏らしをするような女どもなど、どうでもいい」
殿下の声は、どこか虚ろだった。
その言葉を、ミレイユは満足そうに聞いていた。
彼女の唇には、いつもと変わらない、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
けれど、その瞳の奥には、確かな昏い光が宿っていた。
窓の外には、王都の景色が広がっている。
かつては、国王と王太子、そして未来の王妃となるはずの私が、共に築いていくはずだった王国。
けれど今、その中枢には、静かに、しかし確実に、闇が忍び寄っていた。
誰もそれに気づいていない。
いや、気づいていたとしても、誰もその正体を掴めずにいる。
その頃の私は、まだ知らなかった。
この静かな侵食が、やがて王国そのものを揺るがす大きな災厄へと繋がっていくことを。
そして、その真実に辿り着くまでに、さらに多くの犠牲が積み重ねられていくことになるとは、この時の私には、想像すらできなかった。
ただ、王妃様の温もりだけを胸に抱きながら、私は次の一歩を踏み出す決意を、静かに固めていた。
噂に負けるわけにはいかない。
王都中で「次々と失禁する令嬢たち」と嘲られても、夜ごとにおねしょの羞恥に苦しんでも。
ノエルも、クラリーチェも、特にエルザも、同じように夜な夜なシーツを汚しながら苦しんでいる。
だからこそ、真実を、必ず突き止める。
その決意だけが、あの恐ろしい夢の中でさえ、濡れたシーツの冷たさの中でさえ、私を支え続ける、唯一の光だった。
真実を、必ず突き止める。
その決意だけが、あの恐ろしい夢の中でさえ、私を支え続ける、唯一の光だった。




