第五章 知性は恐怖に勝てるのか
クラリーチェの調査は、日ごとに熱を帯びていった。
図書室の書架という書架を漁り、王都中の書店にまで足を運び、彼女は自らの知性だけを頼りに、この不可解な現象の正体を突き止めようとしていた。
そんなある日の放課後、彼女は私達の前で、はっきりと宣言した。
「魔法なら解析できます」
その声には、迷いのない強さがあった。
学院一の秀才と謳われる彼女らしい、揺るぎない自信だった。
私は不安を覚えずにはいられなかった。
「クラリーチェ、危険よ」
そう告げても、彼女の決意は変わらなかった。
「未知の力であればこそ、実際に触れて確かめる必要があるのです。理論だけでは、真実には辿り着けません。アイリス様とノエル様に起きたこと……特にあのように段階的に自制を奪われ、公衆の面前で漏らさせられてしまう現象は、既知の術式では説明がつきません。だからこそ、直接確かめるのです」
その言葉通り、クラリーチェは万全の準備を整えていた。
精神防御魔法の術式を自ら組み上げ、神殿から借り受けた護符を幾重にも身につけ、さらには研究室で作り上げた簡易的な結界まで用意していた。
それらすべてが、彼女の本気を物語っている。
友人達は、口々にそれを止めようとした。
「やめて!」
ノエルが、震える声で叫んだ。
あの瞳の恐怖を、誰よりも近くで味わった彼女だからこそ、その言葉には切実な響きがあった。
私も必死に言葉をつづけた。
「クラリーチェ、お願い。あの瞳を見たら……体が、自分のものじゃなくなるの。漏れてしまうのよ。どんなに締めようとしても、止まらなくなる」
けれど、クラリーチェは静かに笑った。
「私は理論を信じます。防御は万全です。知性は、恐怖に勝てます」
その一言だけを残し、彼女は迷わずミレイユのもとへと向かっていった。
私達は、止める術を持たないまま、その後を追うことしかできなかった。
中庭の噴水近くで、ミレイユはいつものように静かに佇んでいた。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、近づいてくるクラリーチェを見つめている。
クラリーチェは一歩も怯むことなく、その正面に立った。
「あなたには何か秘密があります。アイリス様とノエル様に起きた現象は、単なる威圧や恐怖では説明できません。特に、意識を保たせたまま下半身の制御を段階的に奪い、失禁にまで至らせる干渉……あれは術式です。解析させてください」
はっきりとした声で、そう告げる。
その瞳には、恐れよりも探究心が強く滲んでいた。
ミレイユは、静かに微笑んだまま答える。
「そう思いますか?」
短い問い返し。
その声音には、動揺の色など微塵もなかった。
そして、ゆっくりと視線が交わった。
その瞬間だった。
クラリーチェの身につけていた護符が、パキリと音を立てて砕けた。
彼女が丹念に組み上げていたはずの結界も、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去った。
あれほどの準備が、一瞬で無に帰してしまったことに、私は言葉を失った。
クラリーチェの理性が、崩壊していく。
彼女の瞳から、知性の輝きが急速に失われていくのがわかった。
代わりに浮かび上がったのは、本能だけが訴える純粋な恐怖だった。
「逃げろ」
彼女自身の内側から、そう叫ぶ声が聞こえているに違いなかった。
けれど、身体はまったく言うことを聞かない。
小刻みに震え始めた身体は、次第にその震えを大きくしていく。
涙が、堪えきれないように溢れ出す。
そして、彼女の膝が、力を失ったように崩れ落ちた。
「見ないで……お願い……」
学院一の才女と呼ばれた少女が、まるで幼い子どものように怯えている。
その光景に、周囲は完全に凍りついた。
次の瞬間――
クラリーチェのスカートの、膝をついた部分から、じわりと暗い染みが広がり始めた。
最初は、ほんのわずかな温かさだったはずだ。
下着の内側を伝う、熱い雫。
「ち、違う……私は今……」
という、プライドが砕ける瞬間の衝撃が、彼女の顔に浮かんだ。
必死に下腹に手を当て、締めようとする。
けれど力が入らない。
腰が抜けたまま、下半身の大事な筋肉が恐怖に負けて緩み続ける。
「だめ……出ないで……理論が……私の防御が……っ」
熱いものが、勢いを増して迸った。
下半身は瞬く間にぐっしょりと濡れ、制服のスカートへと染み出していく。
膝をついた布地から、じわり、じわりと濃い染みが円を描くように広がり、重く湿っていく。
熱い液体が太ももを伝い、床の石畳へと落ちる。
ぽたぽた、という音が残酷なほどはっきりと響き、小さな水たまりができて、ゆっくりと広がっていく。
スカートはびしょびしょに透け、肌にぴたりと張り付き、冷たくなり始めた布がまとわりつく不快感に、クラリーチェは声を殺して咽び泣いた。
それでも流れは止まらない。
意識ははっきりしたまま、自分がどれほど惨めに漏らしているのかを理解しながら、体がすべてを吐き出すように溢れ続けている。
「見ないで……お願い……こんな……知性で……勝てるはずだったのに……っ」
涙と鼻水と、下半身から溢れる熱いものが、同時に彼女を汚していく。
染みはスカートの前と横に大きく広がり、光を受けて不自然に濃く重く見え、床の水たまりはさらに範囲を広げていた。
その恐怖の波は、そばにいた私とノエルにも、容赦なく押し寄せた。
ミレイユの赤い瞳から溢れ出す、根源的な何か。
クラリーチェを完全に支配した力が、余波のように周囲を侵す。
「っ……!」
私の下腹部が、びくりと痙攣した。
温かいものが、わずかに下着の内側を伝う。
ノエルも同時に体を強張らせ、両手で自分のスカートを押さえた。
顔が青ざめ、冷や汗が伝う。
「やだ……また……」
「だめ……絶対に、決壊させない……っ」
私は脚をきつく閉じ、下腹に全力で力を込めた。
必至で下半身の筋肉を締め上げ、震える腿をすり合わせ、すでに湿り始めた布の感触を必死に封じ込める。
熱い雫が下着をじわりと染め、布が肌に張り付く不快感が広がる。
「これ以上は出さない」
「水たまりなんて絶対に作らない」
と、心の中で叫び続けた。
ノエルも同じだった。
歯を食いしばり、両手で下腹を押さえ、小さく震えながらも、なんとか流れを堰き止めようとしている。
下着は確実に湿り、冷たくなりかけた染みが太ももに張り付く。
羞恥と恐怖で視界が白み、息が詰まる。
けれど――決壊だけは、させなかった。
わずかに汚れた下着の中に、熱さを閉じ込め、床には一滴も落とさないよう、全身の力を振り絞った。
周囲の貴族達は、クラリーチェのびしょびしょになった姿と床の水たまりに息を呑み、ざわめいている。
「三人目……」
「また、漏らした……」
「学園一の秀才のクラリーチェ様まで……」
誰も近づけない。
誰も声をかけられない。
私も、ノエルも、自分の下着の湿り気を隠すように脚を閉じたまま、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
三人。
これで、まったく同じ現象に見舞われた者が三人になった。
偶然という言葉では、もはや片付けられない数字だった。
しかも、クラリーチェの場合はあれほどの防御を一瞬で砕かれ、完全に漏らさせられた。
私とノエルは、余波だけで下着を汚しながら、かろうじて決壊を防いだに過ぎない。
あの力は、確実に、私たちの体の制御を内側から蝕んでいる。
ミレイユは、崩れ落ちたクラリーチェを見下ろすように、穏やかに微笑んだ。
差し伸べることもなく、ただ静かにその場を後にしていく。
その瞳が一瞬、血のように赤く光った気がした。
その日の夜、私の部屋には、ノエルとクラリーチェが集まっていた。
蝋燭の灯りだけが、静かに部屋を照らしている。
三人とも、あの恐怖の記憶を抱えたまま、言葉少なに座っていた。
クラリーチェは風呂で体を洗い、替えた寝間着に着替えても、まだ小さく震えていた。
自分のスカートに広がった染みと、床の水たまりの感触が、消えないのだろう。
私も、ノエルも、下着を替えた後でも、あのわずかな湿り気の記憶に顔を赤らめていた。
誰も、原因を突き止めることはできていない。
クラリーチェでさえ、あれほどの準備をもってしても、ミレイユの力の正体には近づけなかった。
「わたくしの理論など、何の役にも立ちませんでした。護符も結界も、一瞬で……。
そして、あんなふうに……漏らしてしまって。知性は、恐怖に勝てませんでした」
クラリーチェが、悔しそうに、羞恥に染まった声で呟いた。
いつもの自信に満ちた表情は、そこにはなかった。
私は、彼女の肩にそっと手を置いた。
「あなたのせいじゃないわ。私たちも……そばにいただけなのに、下着を……汚してしまった。決壊だけは何とか防いだけれど、あの力が余波で届くほど強いのよ。不思議な力が、確実に働いている」
ノエルも、力なく頷いた。
「同じ……あの目を見た瞬間、体が自分のものじゃなくなって。熱いものが……止まらなくなって」
しばらくの沈黙の後、三人の間で、一つだけ共通する言葉が浮かび上がった。
「あの瞳を見た瞬間、『人ではない何か』を見た気がした」
誰からともなく、その言葉が漏れた。
そして、他の二人も、静かに頷いた。
私自身も、まったく同じ感覚を抱いていた。
あれは、人間が纏う威圧感などではない。
もっと根源的な、命そのものが恐怖を覚えるような、そんな異質な何かだった。
そして、その何かは、私たちの誇りも、下半身の制御も、精密に、容赦なく奪っていく。
窓の外には、静かに夜が更けていく。
私達三人は、それぞれの恐怖と、濡れた記憶の羞恥を抱えたまま、身を寄せ合うようにして夜を過ごした。
この学院で起きている出来事は、もはや単なる令嬢達の諍いなどではない。
何か、もっと大きな、恐ろしい真実が、その奥底に隠されている。
そんな予感が、私の中で確信へと変わりつつあった。
婚約破棄という、私個人の悲劇から始まったはずのこの出来事は、今、静かに、しかし確実に、その姿を変えようとしていた。
王国そのものを蝕む、見えない脅威へと。
私達はまだ、その全貌を知る術を持たない。
けれど、この恐怖の正体を突き止めない限り、きっと誰も、安らかな日々を取り戻すことはできないのだろう。
また誰かが、あの瞳に睨まれ、公衆の面前で制御を奪われ、漏らさせられてしまう前に。
そう思いながら、私はろうそくの灯りが揺れるのを、ただ静かに見つめ続けていた。
自分の下着に残る、わずかな湿りの記憶が、冷たく、しかし確かに、その決意を後押ししていた。




