第四章 静かなる違和感
学院中が、かつてないほどの騒然とした空気に包まれていた。
私に続き、ノエルまでもが同じ症状に見舞われたという知らせは、瞬く間に貴族達の間を駆け巡った。
二人連続。
しかも、まったく同じ症状。
膝から崩れ落ち、腰が抜け、涙を流しながら――そして、公衆の面前で、制御を失って失禁する。
「舞踏会のアイリス様も、中庭のノエル様も……同じようにびしょびしょになって……」
「恐怖だけで、あそこまで完全に漏らすものかしら」
「侯爵令嬢が床に水たまりを作るまでお漏らしするなんて、普通じゃあり得ないわ」
そんな囁きが、廊下の至る所で聞こえた。
私自身、あの夜の熱い染みの感触も、ノエルが膝をついて熱いものを零し続けた光景も、忘れることなどできなかった。
ただの羞恥や恐怖では、説明がつかない。
体の芯まで支配され、意志とは無関係に全身の筋肉まで緩められてしまうような、異様な力が働いていたとしか思えなかった。
そんな中、一人だけ冷静さを失わない令嬢がいた。
伯爵令嬢クラリーチェである。
学院一の秀才と名高い彼女は、幼い頃から魔法理論を専門に学んでおり、その知識は教師陣すら舌を巻くほどだった。
昼休み、図書室の片隅で、クラリーチェは眉をひそめながら私に言った。
「威圧だけで説明できません」
その声には、迷いのない確信が滲んでいた。
「人は、どれほど恐ろしい相手を前にしても、あそこまで完全に身体の自由を奪われることはないのです。膝が崩れ、腰が抜け、呼吸すらままならなくなる……それだけでも異常です。しかし、さらに問題なのは――」
クラリーチェは一瞬言葉を切り、周囲に誰もいないことを確認してから、静かに続けた。
「失禁です。アイリス様も、ノエル様も、ただ『怖くて漏らしてしまった』という次元ではありません。最初はわずかに漏れる。プライドが傷つき、必死に締めようとする。それなのに、徐々に制御が利かなくなり、最終的には勢いよく、止められずに溢れ出す。しかも、意識ははっきりしている。自分が何をしているのか、どれほど惨めな姿を晒しているのか、すべてわかりながら、体が言うことを聞かない。あれは、明らかに何らかの力が働いています。恐怖心を増幅させるだけでなく、下半身の制御――大事な神経や筋肉、内臓の機能そのものに、直接干渉しているとしか考えられない」
私は頷いた。
自分の身に起きたことを思い返しても、彼女の言葉には納得せざるを得ない。
あの舞踏会の夜、最初はほんの少しチビっただけだった。
それだけで強いショックを受け、プライドが砕けた。
なのに、事の重大さに気づくにつれてパニックになり、最終的に完全に漏らしてしまった。
ノエルも同じだった。
ミレイユに睨まれた瞬間に崩れ落ち、熱いものが溢れ、床に水たまりを作り、手を差し伸べられただけでさらに怯えて何度も漏らしてしまった。
どちらも、単なる「怖くて漏らした」では片付けられない。
何かが、私たちの体を内側から支配していた。
「……そうです。ただの恐怖なら、あんなふうに、段階を踏んで、確実に、すべてを奪われることはない。不思議な力……何かが、確実に働いています」
クラリーチェはその日から、独自に調査を始めた。
学院の図書室に籠もり、古い文献を片っ端から読み漁る。
精神魔法。
禁呪。
幻覚。
催眠。
思いつく限りの分野を調べても、私達の症状に完全に一致するものは見つからなかった。
「近いものはあります。けれど、決定的に違う点があるのです」
放課後、クラリーチェは疲れた様子でそう教えてくれた。
「催眠であれば、事前に対象へ働きかける時間が必要です。しかし、あなたもノエル様も、初めて目が合った瞬間に症状が出ています。威圧や恐怖投影系の術式でも、あそこまで精密に『段階的な失禁』を引き起こすものは記録にありません。普通の精神攻撃なら、失神や錯乱、単純な脱力はあっても……意識をはっきり保たせたまま、下半身の制御だけを徐々に、確実に奪い、公衆の面前で漏らさせるような悪質で精密な干渉は、聞いたことがない。これは、これまで知られているどの術式とも一致しません。まるで、相手のプライドと羞恥心まで計算に入れて、最大限に屈辱を与えるために設計された力のように思えます」
その言葉に、私の胸はますます重くなった。
既知の魔法ではないということは、それだけ未知の脅威だということだ。
しかも、ただ体を動かすだけでなく、私たちを「漏らさせる」ことまで含めて支配している。
あの赤い瞳には、そんな恐ろしくも精密な力が宿っているのだ。
一方、王宮でも異変が静かに広がりつつあった。
父から伝え聞いた話によれば、国王ローランド六世は、執務中の殿下の様子がどこかおかしいと感じ始めているらしい。
「カイゼルは昔と別人だ」
国王が側近にそう漏らした、という話が、貴族達の間でひそかに囁かれていた。
けれど、確たる証拠は何もない。
王太子が突然人格を変えたなどと、誰が信じるだろうか。
国王自身も、その疑念を口にすることを、慎重に避けているようだった。
そんな折、王妃マルグリット様から、私のもとへ密かな使いが届いた。
婚約破棄後、初めての知らせだった。
使者に導かれるまま、私は目立たぬよう装いを変え、王宮の奥へと足を運んだ。
案内された部屋で待っていたのは、王妃様お一人だった。
「よく来てくれました」
王妃様は、私の手を優しく取り、そう仰った。
その瞳には、これまでと変わらない慈しみが宿っている。
「婚約破棄当日の話を、聞かせてもらえますか。……そして、ノエルさんの件についても」
私は、あの夜のことを、できる限り正確に語った。
突然身体が動かなくなったこと。
恐怖で立っていられなくなったこと。
最初はわずかに漏れただけだったのに、徐々に制御を失い、最終的に完全に漏らしてしまったこと。
そして、ミレイユと目が合った瞬間から、すべてが始まったこと。
ノエルもまた、同じように睨まれただけで崩れ落ち、公衆の面前で失禁し、手を差し伸べられただけでさらに怯えて漏らしてしまったこと。
王妃様は、静かに耳を傾けてくださった。
話し終えた後、王妃様はしばらく黙り込み、それから小さく呟かれた。
「何かが、おかしいのです。ただの噂や、ただの恐怖では説明がつかない。あなたとノエルさんの体に起きたこと……特にあのように、段階を踏んで自制を奪われ、漏らさせられてしまうようなことが、偶然起きるはずがない。何かの力が、確実に働いている」
その声には、深い憂いが滲んでいた。
「けれど、私にも証拠がありません。あなたを信じたい気持ちだけが、ここにあるのです」
その言葉に、私は思わず涙がこぼれそうになった。
誰もが私を疑い、遠ざけていく中で、王妃様だけは、変わらず私を娘のように案じてくださっている。
それがどれほど心強いことか、言葉では言い表せなかった。
「あなたは決して間違っていません」
王妃様はそう言って、私の手をもう一度強く握ってくださった。
その温もりを胸に、私は王宮を後にした。
その夜、公爵家とは別の場所――ベルクレスト男爵邸では、静かな時間が流れていた。
ミレイユは、自室でただ一人、鏡台の前に座っていた。
蝋燭の灯りだけが、部屋を淡く照らしている。
鏡に映る自分の姿を、彼女はじっと見つめていた。
その瞳が、ゆっくりと赤く光り始める。
まるで、内側から何かが滲み出るように。
「もう二人」
小さく、そう呟いた声には、感情らしい感情が一切乗っていなかった。
まるで、数を数えるかのような、淡々とした響きだった。
その様子を知る者は、誰もいない。
けれど、この静かな一言こそが、これから起きる出来事の、確かな予兆だった。
学院では、まだ誰も真実に辿り着けずにいる。
ただ、確実に何かが狂い始めているという違和感だけが、静かに、しかし着実に広がっていた。
私自身もまた、あの赤い瞳の正体を突き止めなければならないという思いを、日に日に強くしていた。
それが、自分自身の名誉のためだけではなく、これから先、誰か別の誰かが同じ恐怖を味わい、同じように公衆の面前で制御を奪われ、漏らさせられてしまうような惨めな目に遭わないためにも、必要なことだと感じていたからだ。
あの不思議な力は、確かに存在する。
そして、それは私たちの誇りも、体の自由も、静かに、確実に、蝕んでいるのだから。




