第三章 侯爵令嬢ノエル
婚約破棄から数日が経っても、学院内の空気は変わらなかった。
むしろ、日を追うごとに、私への視線は冷ややかさを増しているように感じられる。
「舞踏会で失禁した公爵令嬢」という噂は、新聞の見出し以上に生々しく語り継がれ、私の後ろ姿を見るたび、誰かがひそひそと笑っている気がした。
そんな中、誰よりも私のために怒りを露わにしていたのが、親友のノエルだった。
侯爵家の令嬢である彼女は、幼い頃から私のそばにいてくれた、数少ない心を許せる友人だ。
「アイリス様を侮辱したまま、済ませるわけにはいきません」
昼休み、中庭の片隅で、ノエルは拳を握りしめながらそう言った。
その瞳には、はっきりとした怒りが宿っている。
私は止めようとした。
これ以上、誰かを巻き込みたくなかったからだ。
「ノエル、もういいの。私は大丈夫だから」
そう告げても、ノエルは首を横に振るばかりだった。
「大丈夫なはずがありません。あの噂は、明らかにおかしいのです」
その言葉に、私は何も返せなかった。
ノエルの気持ちが、痛いほど伝わってくる。
けれど、あの舞踏会の夜、自分の身に何が起きたのかを思い出すたび、胸の奥が冷たく締めつけられる。
もし、ノエルの身にも同じことが起きたら。
そう考えると、恐ろしくてたまらなかった。
放課後、私はノエルの後を追うように、中庭へと向かった。
けれど、私が辿り着いたときには、すでに事態は動き出していた。
噴水広場に、大勢の貴族の子弟達が集まっている。
その中心に、ミレイユの姿があった。
ノエルは、彼女の前に堂々と立ちはだかっている。
「謝罪してください」
ノエルの声は、周囲に響き渡るほど強く、はっきりとしていた。
「あなたは嘘をついています。アイリス様を貶め、殿下を騙している。その証拠も、理由も、すべて明らかにしてください」
集まった貴族達がざわめく。
けれど、誰もノエルを止めようとはしなかった。
むしろ、その言葉に頷く者も少なくない。
私はその輪の外から、息を詰めてその光景を見守っていた。
止めなければ。
ノエルを、あの瞳から遠ざけなければ。
足を踏み出そうとした瞬間、あの夜の記憶が脳裏を焼き尽くした。
赤い瞳。
世界が歪む感覚。
膝から崩れ落ち、熱いものが溢れ、ドレスがぐっしょりと染まり、床に水たまりが広がっていく――あの惨めな感覚。
「やめて……ノエル、だめ……!」
叫ぼうとした声は、喉の奥でかすれた。
足が、石のようにすくんで動かない。
恐怖が、下腹部を容赦なく締め上げる。
びくり、と。
温かいものが、わずかに下着の内側を伝った。
「……っ」
私は両手で自分のスカートを押さえ、必死に脚を閉じた。
これ以上は絶対に出してはいけない。
水たまりなんて、絶対に作ってはいけない。
昨夜の悪夢と、舞踏会の染みの記憶が重なり、羞恥と恐怖が同時に込み上げる。
下腹に力を込め、失敗から守る大事な筋肉を締め上げ、震える腿をすり合わせるようにして、わずかに零れた熱さを下着の中に封じ込める。
布がじわりと湿り、肌に張り付く不快感が広がる。
けれど、どうにか――どうにか、床までは落とさずに済んだ。
スカートの表側には染みが浮かないよう、必死に姿勢を保ちながら、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
ミレイユは、動じる様子など微塵も見せなかった。
ただ、いつものように穏やかに笑うだけだった。
「本当に?」
短く、そう問い返す。
そして、ゆっくりとノエルへ視線を向けた。
私は、その瞬間の恐ろしさを、誰よりもよく知っていた。
「やめて――」
叫ぼうとした声は、喉の奥で止まってしまう。
ノエルとミレイユの視線が、しっかりと絡み合う。
一秒。
二秒。
三秒。
その間、誰も声を発することができなかった。
ノエルの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
その様子は、あの夜の私と、まったく同じだった。
呼吸が浅くなり、肩が小刻みに震え始める。
剣術を得意とするノエルの手は、いつも凛としているのに、今は小さく震えるばかりで、まったく力が入っていないように見えた。
そして、次の瞬間。
彼女の膝が、その場に崩れ落ちた。
「あ……ぁ……」
言葉にならない声が漏れる。
腰が抜けてしまったのか、ノエルは立ち上がることすらできない。
涙が、次から次へと頬を伝っていく。
そのときだった。
ノエルのスカートの、膝をついた部分から、じわりと暗い染みが広がり始めた。
最初は小さな点だったものが、みるみるうちに円を描くように濃くなり、布地が重く湿っていく。
熱い液体が下着を瞬く間に浸し、高価な制服のスカートを内側からぐっしょりと染め、太ももを伝って床へと落ちていく。
ぽたぽた、という音が、静まり返った広場に残酷なほどはっきりと響いた。
地面に、小さな水たまりができ、それがゆっくりと広がっていく。
ノエルの脚の間から、まだ熱いものが脈打つように零れ続け、染みはスカートの前と横に大きく広がり、光を受けて不自然に濃く、重く見えた。
「ご、ごめんなさい……」
理由もなく、そう繰り返し謝る姿に、周囲の空気が凍りついた。
なぜ謝っているのか、ノエル自身にもわかっていないのだと思う。
それでも、口から溢れる言葉は止まらない。
涙と鼻水と、下半身から溢れる熱いものが、同時に彼女を惨めに汚していく。
「こっ……侯爵令嬢が……」
「今、漏らした……?」
「びしょびしょに……床まで……」
「アイリス様のときと同じ……」
周囲がざわめき、息を呑む音や、抑えた悲鳴のような声が飛び交う。
先ほどまでノエルに賛同していた者達でさえ、顔を青ざめさせ、後ずさりしている。
誰もが、あの舞踏会の夜の私の姿を思い浮かべているのがわかった。
私は、その光景に立ち尽くすことしかできなかった。
あの夜、私が味わった恐怖と、まったく同じものを、今、目の前でノエルが味わっている。
助けなければと思うのに、身体が石のように動かなかった。
自分の下着の中で、冷たくなりかけた湿り気が、私の惨めさをさらに深く抉る。
ミレイユは、そんなノエルへ、静かに手を差し伸べた。
「立てますか?」
その声音は、優しさに満ちていた。
まるで、傷ついた友人を気遣うかのような、慈悲深い響きだった。
けれど、私にはその笑顔が、これまで見たどんな表情よりも恐ろしく映った。
善意を装ったその手を、ノエルは震えながら見つめる。
赤い瞳が、ゆっくりと細められる。
その瞬間、ノエルの体がびくりと跳ねた。
「ひっ……いや……近づかないで……! ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
さらに激しく震え、彼女は床にへたり込んだまま後ずさろうとした。
その動きで、まだ残っていたものが再び勢いよく溢れ出す。
すでにぐっしょりと濡れたスカートから、新たな熱い筋が床へと落ち、水たまりがさらに広がっていく。
太ももを伝う感触に、ノエルは声を殺して咽び泣き、何度も「ごめんなさい」を繰り返しながら、自分の下腹を両手で押さえつける。
けれど力が入らず、熱いものが指の隙間から零れ、床を汚し続ける。
染みはスカート全体に広がり、布が肌にぴたりと張り付き、冷たく重くまとわりついているのが、遠くからでもはっきりとわかった。
「やめて……お願い……もう出ないで……っ」
ノエルの声は完全に泣き崩れ、周囲のざわめきはさらに大きくなる。
誰も近づこうとせず、ただ恐怖と好奇心が入り混じった視線が、彼女のびしょびしょになった姿と床の水たまりに釘付けになっていた。
ミレイユは、差し伸べた手をそのままにしたまま、穏やかに微笑んだ。
その瞳が一瞬、血のように赤く揺らめいた気がした。
「……大丈夫ですよ。無理なさらないで」
優しさに満ちたその言葉が、ノエルをさらに追い詰める。
彼女はミレイユの手を取ろうとするどころか、恐怖に駆られて体を丸め、また小さく熱いものを零してしまった。
私はようやく足を動かし、ノエルのもとへと駆け寄った。
自分の下着の湿り気を無視して、彼女の身体を抱き起こす。
その震えが、掌を通して伝わってくる。
びしょびしょに濡れたスカートの重みと、冷たくなった染みの感触が、私の腕にまで染み込んでくるようだった。
「ノエル、しっかりして!もう大丈夫、私がいるから」
呼びかけても、彼女の目は虚ろなままだった。
その様子に、私の中で何かが確信に変わっていく。
これは、決して偶然などではない。
ノエルと私、二人が同じ症状に見舞われるなど、あり得るはずがなかった。
その夜、ノエルは公爵家に泊まることになった。
私の部屋で、彼女はずっと震えていた。
風呂で体を洗い、替えたばかりの寝間着に着替えても、恐怖は消えなかったらしい。
毛布にくるまり、私の手を強く握りしめながら、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。
「あの目が、忘れられません……赤くて……美しくて……なのに、死ぬほど恐ろしくて……体が動かなくなって……熱いものが……止まらなくて……みんなの前で……あんなに……」
その声は、かつての快活なノエルとは、まるで別人のようだった。
私はただ、彼女の背中をさすり、握った手を離さずにいた。
「私も、同じだった。舞踏会の夜も、昨日の夢でも……怖くて、どうしようもなくて……漏れてしまった。ノエルは、悪くない。絶対に、悪くないの」
慰めの言葉すら、今の私には十分に見つからなかった。
それでも、彼女の震えが少しでも和らぐよう、私は彼女の手を両手で包み込み、額を寄せた。
ノエルは私の胸に顔を埋め、小さく咽び続ける。
その体が、私の温もりを求めてすり寄ってくる。
「アイリス様……離さないで……」
「離さない。ずっと、ここにいるから」
私は彼女を抱き寄せ、同じ毛布にくるまった。
手をしっかりと握り合い、額を寄せ合い、互いの鼓動を感じながら。
ノエルの手が、私の手を強く握り返してくる。
その力が、少しずつ穏やかになっていくのを感じながら、私は彼女の髪を優しく撫でた。
「もう大丈夫。今夜は、二人で眠ろう。私がついてるから、怖くないわ」
ノエルは小さく頷き、私の胸に顔を埋めたまま、ようやくまぶたを閉じた。
私も彼女の手を離さず、同じように目を閉じる。
互いの体温と、握った手の感触だけが、この冷たい夜の中で確かなものだった。
窓の外には、静かに月が浮かんでいる。
その光が、なぜか今夜はひどく冷たく感じられた。
ミレイユという少女の正体が、いったい何なのか。
その答えに近づくどころか、恐怖だけが確実に、私たち二人の周りへと広がり始めていた。
それでも、今夜だけは――
親友の手を握りしめ、同じベッドで寄り添いながら、私は彼女を守ると心に決めた。
たとえ、また恐怖が襲ってきても。
たとえ、また体が言うことを聞かなくなっても。
今度は、一人じゃないのだから。




