表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

第二章 理想の令嬢の失墜

婚約破棄の夜が明けても、私の身体はまだ重かった。

昨夜のことが、悪い夢だったならどれほど良かっただろう。

そう思いながら目を開けたけれど、天蓋から差し込む朝の光は、これが現実だと容赦なく告げていた。

公爵家の自室のベッドに横たわったまま、私はしばらく起き上がることができなかった。

体を動かすたび、昨夜の感触が蘇る。

熱く湿ったスカートが太ももに張り付き、床に広がっていく染み。

冷たくなっていく布の重み。

そして、大勢の視線の中で、自分の意思に反して溢れ出してしまった、あの熱いもの。

侍女が運んできた朝刊に、目を通す気力すら湧かない。

けれど、母――公爵夫人ヘレナが静かに部屋へ入ってきて、その紙面を私に見せた。

そこに書かれていた内容に、私は言葉を失った。

 

「アイリスは王太子を虐げていた」

「裏では横暴だった」

「嫉妬深かった」

 

見出しには、そう並んでいた。

どれも、昨日までは誰一人として口にしなかった話ばかりだ。

私は幼い頃から、公爵令嬢として、未来の王妃として、常に己を律してきた。

横暴に振る舞ったことなど、記憶を辿ってもただの一度もない。

それなのに、まるで昨日を境に、王都中の人々の記憶までもが書き換えられてしまったかのようだった。

 

「こんな話、私は一度も……」

 

呟いた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

母は、私の手をそっと握る。

その手は、いつもより少し冷たかった。

学院に登校すると、案の定、廊下は騒然としていた。

けれど、その騒ぎ方が、昨日までとは明らかに違う。

私を心配する声よりも、私を遠巻きに見る視線の方が多かった。

そして――噂は、新聞の見出しだけにとどまっていなかった。


「……昨夜、舞踏会で、本当にあんなことしたらしいわよ」

「膝をついた瞬間に、びしょびしょに……」

「恐怖で失禁したって。公爵令嬢が、みんなの前でおしっこ漏らしたのよ?」

「未来の王妃候補がお漏らしだなんて、最低ね」

「殿下があそこまで軽蔑したのも無理ないわ。床まで汚してたんだから」


ひそひそと交わされる声が、耳に刺さる。

わざと聞こえるように話している者もいれば、私の姿を認めると慌てて口を噤む者もいた。

視線は、私の顔ではなく、しばしば下半身――昨夜のドレスが覆っていたあたりへと滑る。

まるで、まだそこに大きな染みが残っているかのように。

「アイリス様派」と呼ばれてきた令嬢達だけが、私の周りに集まり、口々に噂を否定してくれる。

 

「そんな話は嘘です!」

「アイリス様がそんなことをするはずがありません!」

 

けれど、彼女達の声にも、わずかな躊躇が混じっていた。

昨夜、私のスカートに広がった暗い染みと、床の水たまりを、彼女達も確かに見てしまったのだから。

それでも彼女達の言葉だけが、今の私を支えてくれる糸のようだった。

けれど、その糸も、王太子の一言で簡単に断ち切られてしまう。

昼過ぎ、中庭で偶然すれ違ったカイゼル殿下は、集まった貴族達の前で、はっきりとこう言い切った。

 

「私が証人だ」

 

その一言に、誰も反論できなくなる。

未来の国王となる方が、そう断言しているのだ。

一介の令嬢である私の言葉など、もはや誰の耳にも届かない。

殿下の隣には、いつものようにミレイユが寄り添っていた。

彼女は何も言わず、ただ静かに微笑んでいるだけだった。

その微笑みが、私にはひどく恐ろしく見えた。

殿下は、私を見下ろすように視線を落とし、わざとらしく鼻を鳴らした。


「昨夜の醜態を見れば、誰でもわかるだろう。恐怖ひとつで自制もできず、公衆の面前でお漏らしをするような女が、王妃など務まるはずがない。床を汚す姿など、二度と見たくもないな」


周囲から、忍び笑いが漏れる。

ミレイユは殿下の腕に寄りかかり、穏やかな声で言った。


「まあ、カイゼル様。あまりおっしゃらないで。……でも、確かにあの染みの広がり方は、印象的でしたね。びしょびしょになって、動けなくなって……ふふっ」


彼女の言葉は優しい響きのまま、私の尊厳を丁寧に踏みにじった。

その瞳が一瞬、血のように赤く揺らめいた気がして、私は思わず後ずさった。


その日一日、私は何度も自分の記憶を辿ろうとした。

なぜ、あの舞踏会の夜、突然身体が動かなくなったのか。

なぜ、あんなにも恐怖を感じたのか。

ミレイユと目が合った、あの一瞬に、いったい何が起きたのか。

考えようとするたびに、こめかみの奥がずきりと痛む。

まるで、思い出すこと自体を、何かが拒んでいるようだった。

放課後、自室に戻った私は、鏡の前に立った。

昨日までとなんら変わらない、自分の姿がそこにある。

けれど、目の奥にだけ、うっすらとした隈が残っていた。

一晩中、まともに眠れていない証拠だ。

私は鏡に映る自分に問いかける。

 

「私は、何を見たの……?」

 

答えは、返ってこない。

当然のことだった。

その夜、私は久しぶりに深い眠りに落ちた。

けれど、その眠りは、決して安らかなものではなかった。

夢の中は、一面の暗闇だった。

足元も、天井も、どこにも光が見当たらない。

その暗闇の奥から、ゆっくりと二つの赤い光が浮かび上がってくる。

それは、瞳だった。

血のように赤く、けれど恐ろしいほどに美しい瞳。

ミレイユの瞳。


私はその瞳から目を逸らそうとする。

けれど、身体がまったく動かない。

声にならない悲鳴だけが、喉の奥で渦を巻く。


そして、悪夢は、昨夜の光景を、より鮮明に、より残酷に再現し始めた。


大広間。

大勢の視線。

カイゼル殿下の冷たい声。


「私は貴女との婚約を破棄する」


ミレイユの微笑み。

目が合った瞬間の、世界の歪み。


膝から崩れ落ちる。

腰が抜ける。

そして――あの感触。


最初は、ほんの少し。

下着の内側を伝う、わずかな温かさ。


「ち、違う……私は、今……」


プライドが砕ける。

必死に締めようとする。

けれど力が入らない。


「だめ……出ないで……お願い……!」


熱いものが、勢いよく迸る。

下半身が瞬く間にぐっしょりと濡れ、ドレスへと染み出す。

膝をついた部分から、じわり、じわりと暗い染みが広がっていく。

布地が重くなり、肌にぴたりと張り付く。

熱かったものが冷たくなり、太ももを伝って床へと落ちていく。

ぽたぽた、という音。

大理石の床に広がる水たまり。

生々しい匂い。

ミレイユの嘲るような微笑みと、「おしっこを漏らしてしまうなんて」という声。

カイゼルの「みっともない」「汚い」という軽蔑。


「やめて……見ないで……!」


私は夢の中で叫ぼうとした。

けれど、声すら出せなかった。


その時、どこからともなく、低い声が響いた。 


「見るな」

 

その声とともに、赤い瞳がすぐ目の前まで迫ってくる。

私は叫ぼうとした。

けれど、声すら出せなかった。

 

「――っ!」

 

飛び起きた瞬間、全身がびっしょりと汗にまみれていた。

心臓が、耳の奥で早鐘のように打っている。

呼吸を整えようとしても、なかなか上手くいかない。

私は震える手で、自分の胸を押さえた。


――そのとき、下半身の違和感に気づいた。


熱い。

いや、すでに冷たくなりかけている。

股の間が、びしょびしょに濡れている。

寝間着の裾が重く張り付き、シーツにまで、じわりと広がる大きな染みができているのがわかった。

温かかった液体が、太ももを伝い、シーツをぐっしょりと染め、マットレスにまで染み込んでいく感触。

空気に触れて冷たくなった布が、肌にまとわりつき、不快な冷たさを容赦なく伝えてくる。

かすかな、けれどはっきりとした、自分の尿の匂い。


……おねしょ、を。


私は、今、夢の中で昨夜の惨状を見せつけられた恐怖で、

大人の公爵令嬢でありながら、ベッドの上でおしっこを漏らしてしまったのだ。


「あ……ああ……っ」


羞恥が、全身を焼き尽くした。

昨夜の公衆の面前での失禁に続き、今度は自室のベッドで。

一人で。

しかも、あの光景を夢に見て、恐怖のあまり。


手が震え、シーツの濡れた部分に触れてしまう。

冷たく湿った感触が、指先から脳へ直接流れ込み、私は顔を覆った。

涙が、汗でぐしゃぐしゃの頬を伝う。


「どうして……どうしてこんな……」


声は喉の奥で潰れ、嗚咽になった。

理想の令嬢だった私が。

完璧であるべき私が。

昨夜は大勢の前で、今夜は一人のベッドで。

どちらも、自分の意思など関係なく、ただ惨めに、熱いものを溢れさせてしまった。


プライドが、また新たに、深く抉られる。

死にたいほど恥ずかしく、惨めだった。

誰にも知られたくない。

この濡れたシーツも、染みも、匂いも、すべてを消してしまいたかった。


物音を聞きつけたのか、扉が静かに開き、母が駆け込んでくる。

寝間着姿のまま、私のベッドの傍らに座り、そっと抱きしめてくれた。

母の温もりが、少しずつ私の震えを鎮めていく――はずだった。

けれど、母の手が、シーツの濡れた感触に触れた瞬間、私の体が強張った。

母は何も言わなかった。

ただ、優しく私を抱きしめたまま、静かに背中を撫で続ける。

その優しさが、かえって私の羞恥を増幅させた。

母にまで、こんな惨めな姿を知られてしまった。

昨夜の染みも、今夜のおねしょも。

 

「何があったの?」

 

母の声は、いつになく優しく、けれど心配で満ちていた。

私はその胸の中で、ただ首を横に振ることしかできなかった。

濡れた寝間着が母の腕に触れないよう、必死に体を縮こまらせながら。


「わかりません……」

 

言葉にできる感情ではなかった。

あの赤い瞳の恐怖を、どう説明すればいいのかもわからない。

まして、その恐怖でまたもや漏らしてしまったことなど、口が裂けても言えない。

ただ、あれが単なる悪夢ではないという確信だけが、胸の奥に重く残っていた。

そして、自分の体が、恐怖の前では何一つ制御できないという、残酷な事実も。

母は何も聞かず、ただ静かに私の背中を撫で続けてくれる。

その夜、私は母の腕の中で、ようやく再び眠りに落ちることができた。

けれど、シーツの冷たく湿った感触と、自分の股間に張り付く不快な濡れを、意識の端で感じ続けたまま。

けれど、眠りが浅いまま朝を迎えることになるのは、その日以降も、しばらく続くことになる。

窓の外が白み始める頃、私はふと思った。

昨日までの「理想の令嬢」だった自分は、もうどこにもいないのかもしれない。

公衆の面前で失禁し、嘲笑され、今夜は一人でおねしょまでしてしまうような、ただの惨めな女に成り下がってしまった。

けれど、それでも私は、真実を知りたかった。

あの瞳の正体を。

そして、なぜこんなにも簡単に、私という人間の評判が覆されてしまったのかを。

その答えを見つけるまで、私はきっと、安らかに眠ることなどできないのだろう。

濡れたシーツの冷たさが、そのことを、静かに、しかし確かに、私に告げていた。











評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ