第一章 王太子の婚約破棄
王立貴族学院の大広間は、シャンデリアの灯りで金色に輝いていた。
今夜は年に一度の王立貴族学院創立日を祝う記念舞踏会。
学院に通う貴族の子弟、その保護者、招かれた王侯貴族を合わせて約三千人が集う、一年で最も盛大な式典である。
私、アイリス・フォン・ローゼンフェルトは、婚約者である王太子カイゼル殿下の隣に立ち、この日を迎えていた。
未来の王妃として、幼い頃からずっと学んできた作法も、笑顔も、今夜のために磨き上げてきたつもりだった。
けれど、その夜がどれほど恐ろしい結末を迎えるか、私はまだ何も知らなかった。
会場の中央には、王太子と婚約者である私が立つのが慣例だった。
周囲には「アイリス様派」と呼ばれる令嬢達の姿もある。
私自身はそう呼ばれることに戸惑いを覚えていたけれど、困っている誰かを放っておけない性分が、いつの間にかそうした呼び名を生んでいたのだと思う。
音楽が鳴り、談笑の声が満ちる中、私はふと視線を感じた。
振り返ると、少し離れた場所に見慣れない令嬢が立っていた。
男爵令嬢ミレイユ・ベルクレスト。
最近になって社交界に姿を見せ始めた、まだ十七歳の少女である。
彼女はいつも穏やかに微笑んでいる。
その微笑みが、なぜか私の胸をざわつかせた。
そのとき、隣に立つカイゼル殿下が、突然立ち上がった。
談笑の声が波のように引いていく。
楽団の演奏さえ止まった。
「アイリス・フォン・ローゼンフェルト!」
殿下の声が、静まり返った会場に響き渡る。
三千人の視線が、一斉に私へと向けられた。
私はいつものように、優雅に礼をする。
未来の王妃として、こういうときこそ動揺を見せてはならない。
そう教えられてきたからだ。
けれど、次に殿下の口から放たれた言葉に、会場の空気が凍りついた。
「私は貴女との婚約を破棄する」
一瞬、誰も言葉の意味を理解できなかったのだと思う。
学院中がざわめき、侯爵家の令嬢も、伯爵家の子息も、互いに顔を見合わせている。
無理もない。
私には、非難されるべき理由が一つとして思い当たらなかった。
幼い頃から婚約者として殿下を支え、公務を手伝い、時に厳しい教育にも耐えてきた。
それなのに、なぜ。
答えの出ない問いだけが、頭の中をぐるぐると回る。
殿下は隣に控えていたミレイユを、ゆっくりと抱き寄せた。
「私が真に愛する女性だ」
その言葉に、会場はさらにざわつく。
しかし、拍手をする者は誰一人としていなかった。
むしろ、困惑と沈黙だけが広がっていく。
私は震える声を抑え、一歩だけ前に出た。
「……理由を、お聞かせください」
それだけを、静かに尋ねた。
声が震えているのが自分でもわかる。
それでも、この場で取り乱すわけにはいかない。
公爵家の娘として、最後まで気品を保たなければならない。
殿下は、まるで用意していた台詞のように、次々と言葉を並べ立てた。
「君は傲慢だった」
「冷酷だった」
「私を支配していた」
けれど、そのどれもに具体的な証拠はなかった。
いつ、どこで、私が殿下に対してそのような態度を取ったというのだろう。
記憶をどれだけ辿っても、思い当たる出来事は一つも見つからない。
私は静かに一歩、また前へ踏み出した。
「そのような事実はございません」
はっきりと、そう告げる。
声だけは震えないよう、精一杯抑えて。
そして、私はミレイユへと視線を向けた。
彼女が、何かを知っているような気がしたからだ。
ミレイユは、微笑んだ。
穏やかに、まるで慈しむように。
そして、ゆっくりと私と目を合わせた。
その瞬間だった。
視界が、ぐにゃりと歪む。
耳の奥で、耳鳴りが鳴り響く。
心臓が、まるで止まりそうになる。
世界が赤黒く染まっていく感覚。
足に、力が入らない。
膝から、崩れ落ちる。
腰が、抜ける。
全身が、震える。
呼吸が、できない。
それでも涙だけは、止まらずに溢れてくる。
なぜ。
どうして、こんなことになっているのか。
自分の身体なのに、まるで自分のものではないみたいだった。
そのときだった。
膝をついた瞬間、下腹部の奥がびくりと痙攣した。
まるで恐怖そのものに、体の一番弱い部分を鷲掴みにされたように。
温かいものが、わずかに、しかし確かに、下着の内側を伝った。
ほんの少し。
ほんの、ほんのわずかな、熱い雫。
……あ。
私は、その感触を理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
ち、違う——
私は、今……
公爵家の令嬢が、王太子の元婚約者として、三千人の前で——
ほんの少しでも、そんな……
強いショックが、恐怖以上に胸を抉った。
プライドが、鋭く引き裂かれる。
未来の王妃として、完璧であるべき私が。
優雅に、凛として、最後まで気品を保つべき私が。
わずかな温かさが、下着を湿らせ、ドレスの裏地にまでわずかに染みている。
それだけで、私の誇りは粉々に砕かれた。
「……っ、あ……」
声にならない呻きが漏れる。
顔が真っ赤に熱くなり、同時に血の気が引いていく。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
こんな惨めな姿を、誰にも見られたくない。
自分自身にさえ、認めたくない。
けれど——
恐怖は、なおも私の体を支配し続けていた。
ミレイユの瞳が、まだ私を見下ろしている。
あの血のような赤が、脳裏に焼き付いて離れない。
「死」という言葉すら生ぬるいほどの、底なしの恐怖。
その恐怖が、徐々に、私の理性を食い破っていく。
最初はほんの少しだったはずの温かさが、じわりと広がる。
「まだ大丈夫」
「これ以上は出ない」
「絶対に出してはいけない」
と、必死に締めようとする。
けれど、腰に力が入らない。
下半身の大事な筋肉が、恐怖に負けて緩みかけている。
「だめ」「だめだめだめ」と心の中で叫んでも、体が言うことを聞かない。
事の重大さが、ゆっくりと、しかし確実に理解されていく。
私は今、この大広間の中央で、膝をつき、涙を流しながら、
自分の意志とは無関係に——
お漏らしを、しようとしている。
パニックが、一気に噴き出した。
「や、やめ……っ、出ないで……お願い……!」
誰にも聞こえないほどの、か細い呟き。
両手で自分の下腹を押さえ、必死に抑え込もうとする。
けれど、震える指先には何の力もない。
むしろ、その動きが、残っていたわずかな制御を壊してしまった。
次の瞬間——
熱いものが、勢いよく迸った。
「あっ……あっ、あああっ……!」
最初は細い筋だったものが、すぐに制御を失い、いつまでも続くと思えるほど止まらずに脈打つように溢れ出す。
下半身は瞬く間にぐっしょりと濡れ、熱い液体を受け止めきれず、ドレスのスカートへと染み出していく。
淡い色の高価な舞踏会用ドレスの、膝をついた部分から、じわり、じわりと暗い染みが広がっていくのが、自分の視線の端でもはっきりとわかった。
布地が重くなり、肌にぴたりと張り付く。
熱かったものが、空気に触れて徐々に冷たくなり、太ももを伝って床へと落ちていく。
ぽたぽた、と音がする。
床の大理石に、小さな水たまりができ始め、それがゆっくりと広がっていく。
下着は完全にその用途を失い、スカートの内側はびしょびしょに濡れ、重い布が股の間にまとわりつく不快感が、容赦なく私を責め立てる。
熱い流れは止まらない。
体内に残っていたものが、恐怖と羞恥に負けて、すべてを吐き出すように溢れ続けている。
太ももを伝う感触、ドレスを染めていく感触、床に広がる感触——すべてが、鮮明すぎるほどに感じられた。
「やめて……やめてください……見ないで……」
声はもう、泣き声になっていた。
涙と鼻水と、下半身から溢れる熱いものが、同時に私を惨めに汚していく。
染みはスカートの前と横に大きく広がり、光を受けて湿った布が不自然に濃く、重く見える。
周囲の空気に、かすかな、しかしはっきりとした生々しい匂いが混じり始めていることにも、気づいてしまった。
「アイリス様っ!?」
近くにいた令嬢達が、慌てて駆け寄ってくる声が聞こえる。
けれど、誰も理由がわからない。いや、もう、わかり始めていたのかもしれない。
床の水たまりと、私のドレスに広がる大きな染みを見て、息を呑む気配がした。
私自身も、わからない。
ただ、あの瞳を見た瞬間から、身体の自由が利かなくなった。
それだけは、確かだった。
ミレイユだけが、変わらず静かに微笑んでいる。
むしろ、私を見下ろす瞳が、はっきりと嘲るように細められていた。
その表情には、動揺の色一つ見当たらない。
まるで、こうなることを最初から知っていたかのように。
いや、楽しんでいるかのように。
「まあ……」
ミレイユの声が、穏やかでありながら、はっきりと聞こえるほど会場が静まり返っていた。
「公爵令嬢が、大勢の前で……おしっこを漏らしてしまうなんて。未来の王妃候補が、膝をついてびしょびしょに……ふふっ。とても、立派な姿ですね」
彼女の言葉は、優しく、慈しむような響きを保ったまま、容赦なく私を切り刻んだ。
その瞳が、一瞬だけ、深い血のような赤を帯びた気がした。
隣で、カイゼル殿下が、露骨に顔を歪めた。
軽蔑と嫌悪が混じった目で、私を——いや、私の下半身の惨めな染みと、床に広がる水たまりを、見下ろしている。
「……は?」
殿下の声は、信じられないというよりも、心底馬鹿にしたような響きだった。
「これが、かつて私の婚約者だった女か。大勢の前で、恐怖に負けてお漏らしをするとはな。みっともないにも程がある。君のような女を王妃にしようとしていた自分が、今は恥ずかしくて仕方がないよ」
彼は鼻で笑い、ミレイユを抱き寄せたまま、さらに冷たく言い放った。
「床を汚すな。汚い。早くどかせ」
その言葉に、会場の空気がさらに凍りついた。
誰もが、息を殺して私を見ている。
令嬢達の中には、顔を背ける者もいれば、哀れむように、あるいは冷ややかに見つめる者もいた。
私は、ただ膝をついたまま、熱く湿ったスカートの重みと、広がっていく染みと、止まらない震えと涙の中で、動けなかった。
プライドは完全に打ち砕かれ、パニックは頂点に達し、それでも体はなおもわずかに熱いものを零し続けていた。
ミレイユを見下ろすその瞳が、一瞬だけ、深い血のような赤を帯びた気がした。
けれど、それを確かめる余裕は、もう私には残されていなかった。
殿下は、婚約破棄を宣言したまま、私に一瞥もくれることなく会場を後にした。
ミレイユを伴って。
残された私は、駆けつけた父の従者達に支えられ、公爵家の馬車へと運ばれていく。
ドレスの重く湿った感触が、歩くたびに太ももに張り付き、冷たくなっていく染みが、私の惨めさを何度も思い出させた。
窓の外を流れる夜景を、私はただぼんやりと眺めていた。
涙は、いつの間にか止まっていた。
その代わりに、心の奥底に、冷たい何かが根を張り始めていた。
あの瞳を見た瞬間、私は「死」という言葉すら生ぬるいほどの恐怖を知った。
そして、自分の誇りが、公衆の面前で、熱く湿った染みとともに、完全に崩れたことを——
痛いほど、知らされたのだった。




