エピローグ 新しい未来
数か月後。
王太子カイゼル殿下に下された処分は、王位継承権の返上ではなかった。
国王陛下は、殿下の犯した過ちに対し、二年間の国民への無償奉仕を命じられた。
王都の復興支援、被災した人々や弱者への奉仕、地方視察と実情の把握――地位も特権もはく奪することにせず、ただ一人の人間として民に向き合う日々である。
二年の奉仕を真摯に果たしたあかつきには、継承権を含めた立場への復帰が認められる。
それは罰であると同時に、再生への道でもあった。
殿下はこれを受け入れ、静かに頭を下げた。
「必ず、償ってみせる」
私と殿下との婚約は、現時点では解消されたままである。
けれど、それはあの舞踏会の夜のような一方的で冷たい破棄ではなかった。
互いの傷と責任を見つめ合った上での、当面の選択だ。
将来、彼が奉仕を終え、私たち双方が改めて向き合う覚悟ができたとき――再び婚約を交わし、共に歩む可能性は、しっかりと残されている。
私自身、心に決めていた。
いつかその時が来るのなら、今度こそ、王妃として立つ覚悟を持つ、と。
聖女として、公爵令嬢として、そして一人の女性として。
あの恐怖と羞恥を乗り越えた先で、もう一度、この国を支える側に立つ。
その決意は、以前より遥かに深く、静かで、確かなものになっていた。
私は、新たに設立された「聖堂院」の初代院長に就任した。
各地に潜む災厄を監視し、二度と同じ悲劇を繰り返さないための組織である。
ノエル、クラリーチェ、エルザも、それぞれの立場から私を支えてくれている。
そして――ミレイユも。
ダミアン男爵への処罰は、彼自身も創始者による長年の洗脳の被害者であったことが考慮された。
罰金と奉仕活動。
男爵の爵位は守られた。
ミレイユについても、幼少期から魂を削られ、コントロールされてきた被害者としての側面が重く斟酌され、厳重注意で済んだ。
赤い瞳の力は完全に失われ、彼女はただの一人の少女として、ここに残された。
最初はぎこちなかった。
けれど、時が経つにつれ、私たち四人はミレイユと和解した。
今では五人でお茶を飲み、話をし、時には笑い合う。
かつての敵同士とは思えない、不思議で、しかし本物の交流がそこにある。
聖堂院では、私たち五人がそれぞれの立場から、あの事件の教訓を語る活動を続けている。
私は聖女と公爵令嬢として。
ノエルは騎士の家の者として。
クラリーチェは知と魔法の探求者として。
エルザは自らの傷を糧にした証人として。
そしてミレイユは――最も深く闇に囚われ、最も惨めに貴族のプライドを失った経験を持つ者として。
特にミレイユは、自身のように失禁やおねしょで悩む年頃の少女たちへのカウンセリングに、積極的に取り組んでいる。
「あなただけじゃない。恥ずかしいことでも、弱いことでもない。でも、一人で抱え込まなくていい」
かつての自分がそうしてほしかった言葉を、彼女は静かに、しかし真摯に伝え続けている。
その姿は、赤い瞳で他者を支配していた頃とは、別人のようだった。
――しかし、すべてがすぐに癒えたわけではなかった。
満月の儀式の影響は、王都全体に及んでいた。
後になって判明したことだが、あの夜、突然の恐怖に襲われて失禁してしまった貴族令嬢が、実に多数に上ったのだ。
しかもその後遺症として、些細な緊張や驚愕で失禁を繰り返してしまったり、夜におねしょをしてしまったりする者が後を絶たない。
悩む声が、聖堂院にも日々寄せられるようになった。
私の聖女の光は、あの決戦の場では爆発的な力を発揮した。
けれど平時においては、あれほどの勢いを再現できない。
戦いで呪いの根源を断ったあと、四人の後遺症は確実に和らいでいったものの、王都中の被害に遭った令嬢たち全員を即座に完治させることは、できなかった。
そんな中、クラリーチェが立ち上がった。
「物理的に、まず『漏れた事実』を外に出さないこと。それが精神的な負担を大きく減らします」
彼女が開発したのは、魔力を織り込んだ特殊な下着だった。
名称は――『ダイパー』。
たとえ失禁しても、熱いものが外に染み出さず、スカートを汚さない。
吸収と封印の術式が施され、着用者の羞恥を最小限に抑える。
最初は恥ずかしがる者も多かった。
けれど、実際に使ってみた令嬢たちの間で、口コミのように広がっていった。
「これがあるだけで、外出が怖くなくなる」
「夜、怯えて眠れない日が減った」
ダイパーによって、まずは『人前で醜態を晒すかもしれない』という恐怖が緩和された。
精神的な負担が軽くなったことで、後遺症そのものも、少しずつ快方へ向かい始めている。
完治までにはまだ時間がかかるかもしれない。
それでも、「守られている」という実感が、彼女たちの心を確実に支えていた。
そして、もう一つ、重い事実が明らかになった。
満月の儀式の影響で失禁した後遺症に苦しむ者、そしてかつて赤い瞳によって失禁・おねしょの失態を犯してしまった者――その全員が、二十代以下の貴族令嬢だったのだ。
同い年、あるいは年下であっても、貴族の令息には一人として症状が出ていない。
平民の少女少年にも、同様の報告はなかった。
その事実を知った夜、私はノエル、クラリーチェ、エルザ、そしてミレイユと共に、聖堂院の一室で沈黙した。
「……私たち、甘やかされていたのかもしれない」
誰からともなく、そんな言葉が漏れた。
守られるのが当然で、強い恐怖に晒される経験が少なく、心の耐性が育っていなかった。
だからこそ、魔眼の恐怖に対して、他の誰よりも脆く崩れ、制御を失い、尊厳を踏みにじられた。
令息たちや平民の子供たちが耐えられたものを、私たち貴族令嬢だけが、次々と漏らしてしまった。
その自覚は、恥ずかしく、苦く、しかし目を背けてはならないものだった。
「心が弱かった。私たちを含めて、多くの貴族令嬢が」
私は静かに言った。
「だからこそ、強くなろう」
私たちは、後遺症に悩む令嬢たちを聖堂院に集めた。
ダイパーを着用し、顔を赤らめながらも集まってくれた彼女たちに、私は呼びかけた。
「私たちは令嬢です。でも、それと同時に、民を守るべき貴族でもあります」
「守られるだけの存在で終わってはいけない。また同じような脅威が訪れたとき、今度こそ惨めに崩れず、立ち向かえる自分になるために」
「羞恥も、弱さも、認めるところから始めよう。そして、少しずつでいい。意志を鍛え、心を強くしよう」
ノエルが続けた。
「一人じゃない。支え合えば、必ず変われる」
クラリーチェが、理論と実践の両面から支えると告げ、エルザが自らの傷を隠さずに語った。
ミレイユも、かつての自分のコンプレックスと、今の償いの気持ちを、正直に話した。
集まった令嬢たちの目に、徐々に光が宿っていく。
私たちは、貴族であることの自覚を、今まで以上に強く持ち始めた。
華やかさや格式だけではない。
民を守り、国を支え、危機の時には自ら先頭に立つ――その意志こそが、貴族に求められるものだと。
もしまた、何かが起きようとも。
今後は、あんなふうに公衆の面前で制御を失い、羞恥に沈んで終わるような惨めな失敗はしない。
立ち向かう。
守り、戦い、立ち上がる。
私は、聖女として、そして貴族として、その両輪の自覚を胸に刻んだ。
将来、殿下との縁が再び結ばれ、王妃として立つ日が来るかもしれない。
その時にふさわしい自分であるために。
そして、もしも王妃にならなくとも、この国を支える一人の人間であるために。
修道院の老司祭は、ある日、私にこう語ってくれた。
「歴史は『婚約破棄の悲劇』として、この事件を記すでしょう」
穏やかな声だった。
「しかし本当に王国を救ったのは、一度恐怖に膝をつき、羞恥にまみれて倒れながらも、再び立ち上がることを選んだ者たちでした。そして今、その教訓を次の世代へ繋ごうとしているあなた方です」
その言葉を、私は静かに胸に刻んだ。
あの夜、ミレイユの赤い瞳を見た瞬間に感じた、死という言葉すら生ぬるいほどの恐怖。
熱いものが止まらず溢れ、床を汚し、笑いものにされた記憶。
夜ごとシーツを濡らして目を覚ました朝の自己嫌悪。
それらは、完全に消えることはないのかもしれない。
けれど、その恐怖と羞恥を乗り越えた先に、確かに新しい光を見出すことができた。
ダイパーに守られながらも、少しずつ自分の足で立ち始めている令嬢たち。
奉仕の日々の中で再生を目指す殿下。
償う道を歩むダミアンとミレイユ。
そして、五人で支え合いながら、聖堂院で未来を語る私たち。
聖堂院の窓から見える王都の景色は、穏やかな日常を取り戻しつつある。
その平穏の裏側に、いつまた新たな闇が忍び寄るとも限らない。
だからこそ、私はこれからも、聖女として、貴族として、静かに、けれど確かな意志を持って、見守り、立ち、戦い続けるのだろう。
もう、惨めに膝を折ったままで終わらない。
それが、婚約破棄の果てに、私たちが手に入れた、本当の終わりであり、始まりだった。
終幕




