第二十章 婚約破棄の果てに
地下祭壇には、次々と仲間達が駆けつけてきていた。
父オスカーが、見張りの敵を退けて先頭を切り、その後ろには、ノエルとクラリーチェとエルザの姿もあった。
さらに、意識を取り戻したばかりのルーカスまでもが、ふらつく足取りながらも、剣を杖代わりにして駆けつけてくれた。
王城から知らせを受けた騎士団も、続々と地下祭壇へと集結してくる。
「殿下……!」
ルーカスが、涙ぐみながら、そう呼びかけた。
かつての、公正さを取り戻した殿下の姿を目にし、その声には、深い安堵が滲んでいた。
殿下は、静かに頷いて応える。
「今までのことは、必ず償う。だが今は、これを終わらせなければならない」
その言葉に、集まった皆が、力強く頷いた。
黒い霧の存在は、集まった私達を前に、忌々しげに姿を大きく歪ませた。
けれど、もはやその力は、地上の恐怖を吸収し続けることができなくなっていた。
殿下の目覚めによって、一つの大きな支配の楔が、崩れ去ったからだ。
「王太子、公爵、そして聖女の器」
存在は、低く唸るように呟いた。
「揃ったところで、この私を止められるとでも」
その言葉と共に、黒い霧が禍々しい触手のような形を取り、一斉に襲いかかってきた。
けれど、父が真っ先に前へと躍り出て、その一撃を剣で受け止める。
「王国は、渡さぬ」
低く、けれど揺るぎない声だった。
王国最強と謳われる剣技が、黒い霧を切り裂いていく。
ルーカスと騎士団もまた、それぞれの武器を手に、存在の周囲を包囲するように展開した。
私は、その中央で、胸の光をさらに強く輝かせていく。
金色に輝く浄眼の力が、これまでにないほどの強さで、私の全身を満たしていった。
殿下もまた、剣を構えたまま、私の隣に立ち続けている。
「今です」
私が呼びかけると、殿下は迷わず頷いた。
共に、存在の中心目がけて、力を放つ。
浄眼の光が、黒い霧を包み込むように広がっていく。
存在は、苦悶の声を上げながら、その姿を激しくのたうたせた。
「ば、馬鹿な……この私が……」
数百年にわたって王国を狙い続けてきた、恐るべき呪い。
けれど、聖女の力と、それを信じ支え続けた人々の意志の前に、その存在は、少しずつ、その輪郭を失っていった。
やがて、黒い霧は、まばゆい金色の光の中へと、完全に溶けるように消えていった。
数百年続いた呪いは、ついに、この場で消滅したのだった。
地下祭壇に、静けさが戻る。
誰もが、その場に立ち尽くしたまま、しばらく言葉を発することができなかった。
床に伏していたミレイユが、力なく身体を起こそうとした。
赤い瞳の輝きは、すでに完全に失われていた。
魔眼の力は、創始者の消滅と共に、彼女の中から消え失せたのだ。
私は、彼女のもとへと駆け寄り、そっとその手を握った。
ミレイユは、涙を流しながら、かすれた声で呟いた。
「わたくし……普通の女の子に……なりたかっただけ……」
その言葉に、私の胸は締めつけられた。
幼い頃から、あの存在に人生そのものを歪められ続けてきた少女。
十二歳まで続いた強制的なおねしょとお漏らしで魂を削られ、コンプレックスを植え付けられ、上位の令嬢を同じ目に遭わせることでしか心の穴を埋められなくなっていた。
王妃になりたいという願いさえも、本当は彼女自身のものではなかったのかもしれない。
「あなたも被害者だったのですね」
私は、静かに、そう告げた。
ミレイユは、小さく微笑んだ。
それは、これまで見てきたどの微笑みとも違う、初めて見る、儚くも穏やかな表情だった。
「……瞳の力は、もう……ありません。わたくしは……ただの、無力な女です」
力を失い、床に残る自分の羞恥の痕跡を見つめながら、彼女は力なく項垂れた。
それでも――彼女は、生きていた。
死ぬことなく、ここに残った。
その光景を見ていたダミアンが、ゆっくりと近づいてくる。
短刀を握る手は震えていたが、彼はそれを娘に向けるでも、自分に突き立てるでもなく、静かに床へ落とした。
金属音が、祭壇に小さく響く。
「……すまない。本当に、すまなかった」
ダミアンは、娘の前に膝をついた。
「お前を利用し、あの存在に捧げ、恐ろしいことをさせてしまった。親として、人として、許されることではない」
彼は顔を上げ、私達の方を、そして殿下を見た。
「私は逃げません。死んで楽になるつもりもありません。この命で、どれほどかかろうと罪を償います。娘を……これ以上、誤った道に進ませないためにも」
その声には、これまでの狂信は微塵もなく、ただ重い決意だけがあった。
殿下は、静かに頷いた。
「……しかと、受け止めよう。罪は償わせる。だが、決死悪いようにはしない。私も……そして貴方もただ悪い夢を見ていたのだから」」
ミレイユは、父の袖を小さく握り、涙をこぼした。
力を失った彼女と、償うことを選んだ父。
それが、この場に残された、ひとつの結末だった。
私は立ち上がり、改めて仲間達の顔を見た。
ノエル。
クラリーチェ。
エルザ。
そして、私。
四人とも、これまでの日々で、公衆の面前で失禁させられ、夜ごと悪夢にうなされておねしょをし、尊厳を何度も踏みにじられてきた。
その後遺症は、今も身体の奥に残っている。
わずかな恐怖や緊張で、下腹が疼き、熱いものがこみ上げそうになる感覚。
朝、シーツの湿りに気づいて顔を真っ赤にする惨めさ。
けれど――。
胸の奥で、まだ穏やかに輝き続ける聖女の光が、私たち四人を優しく包み込むのがわかった。
「……大丈夫です」
私がそう呟くと、三人も静かに目を見開いた。
「この光は、呪いを払うだけのものじゃない。きっと、私たちの後遺症も……癒やしてくれます」
クラリーチェが、目尻を少し赤くして頷く。
「聖女の浄化の力……魂に刻まれた恐怖と、身体に残る制御の乱れを、根本から整えてくれる可能性があります」
ノエルが、自分の胸に手を当てた。
「なら……もう、夜に怯えて眠れなくなることも、昼間に突然漏らしそうになる恐怖も……少しずつ、消えていくんですね」
エルザが、力強く、しかし潤んだ瞳で言った。
「私たちは、また立派な令嬢に戻れます。羞恥に支配される子供のままで終わらず、ちゃんと大人になれる」
私は三人に微笑み返した。
「ええ。お漏らしも、おねしょも、もう私たちの未来を決めつけない。聖女の力が、必ず後遺症を癒やしてくれる。そして私たちは、尊厳を取り戻した一人の女性として、ちゃんと歩いていける」
その言葉に、四人の間に、静かで温かな確信が広がった。
地下祭壇に、地上から差し込む朝の光が、少しずつ、しかし確かに闇を押し戻していく。
父が、私の肩に手を置いた。
殿下は、剣を収め、深く息を吐いた。
ルーカスが、安堵に足を崩しそうになりながらも、笑みを浮かべている。
長い、あまりにも長い戦いが、ようやく終わりを迎えようとしていた。
婚約を破棄され、公衆の面前で辱められ、何度も制御を失い、夜ごと惨めにシーツを汚し、それでも立ち上がることを選んできた日々。
その果てに、私たちはここにいる。
ミレイユは力を失って生き残り、ダミアンは死ではなく償う道を選んだ。
そして私たち四人は、聖女の光に守られながら、後遺症を癒やし、立派な令嬢として、一人の大人として、これからの人生を歩んでいける。
私は、濡れた床に残る過去の痕跡と、新たに差し込む光の両方を見つめながら、静かに、しかし確かに思った。
これで、終わりじゃない。
ここからが、本当の始まりだ、と。




