表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/22

第十九章 王太子の涙

殿下の剣先は、私の目の前で、微動だにしなかった。

黒く濁った瞳には、感情らしい感情の色が、まったく浮かんでいない。

けれど、私は剣を下ろすことのないまま、静かに語りかけ始めた。

 

「覚えていますか」

 

問いかけるように、そう切り出す。

 

「幼い頃、王宮の庭園で、あなたと一緒に駆け回ったことを」

 

殿下の瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。

私は、構わず言葉を続けた。

 

「あなたはいつも、私より速く走ろうとして、よく転んでいましたね。それでも、決して泣かずに、また立ち上がって走り出していました」

 

幼い日の記憶が、次々と蘇ってくる。

まだ何の憂いもなかった、あの穏やかな時間。

 

「私達は、いつか共に、この国を支えていくのだと。未来の王と、王妃になるのだと。何度も、そう誓い合いました」

 

私の声には、自然と涙が滲んでいた。

けれど、それでも言葉を止めるわけにはいかなかった。

 

「辛いことがあるたびに、お互いを励まし合いましたね。あなたが重責に押し潰されそうになったとき、私はいつも、隣にいると誓いました」

 

殿下の剣を握る手が、微かに震え始めた。

その変化を、私は見逃さなかった。

胸の奥で輝き続ける聖女の光が、その揺らぎに呼応するように、さらに強さを増していく。

金色の輝きが、殿下を覆う黒い瞳の濁りへと、静かに、しかし確実に、浸透していった。

魔眼の力と、聖女の光とが、殿下の内側で激しく衝突しているのが、傍から見ていても、はっきりとわかった。

殿下は、剣を握ったまま、苦しげに顔を歪めた。

 

「う……ぐ……」

 

呻き声を漏らしながら、頭を抱えるようにして、その場に膝をつく。

黒い瞳が、まるで氷が溶けていくかのように、少しずつ、その濁りを晴らしていった。

そして、その瞳から、堪えきれないように、涙が溢れ出した。

 

「私は……何を……」

 

かすれた声で、そう呟く。

その声には、これまでの虚ろさとは、まったく異なる、確かな苦悩の色が滲んでいた。

洗脳が、解けていく。

殿下は、震える手で自らの顔を覆いながら、これまで自分が行ってきたことのすべてを、一気に思い出していくようだった。

理由もなく私との婚約を破棄したこと。

忠実に仕えてきた重臣達を、次々と追放したこと。

軍の指揮権を、敵の手に渡そうとしたこと。

そして、忠言を呈しただけの老伯爵を、死に追いやってしまったこと。

その記憶のすべてが、堰を切ったように、殿下の心へと押し寄せていく。

さらに――その中に、どうしても目を背けられない、ひとつの光景が鮮明によみがえる。

あの夜。

ミレイユの赤い瞳に晒され、恐怖に支配されたアイリスが、公衆の面前で膝から崩れ落ち、制御を失い、熱いものを止められずに溢れさせてしまった瞬間。

ドレスが濡れ、床に水たまりが広がり、羞恥に顔を真っ赤にして身を縮こまらせていたアイリスを。

殿下は、隣で冷たく見下ろし、嘲るように言ったのだ。


「みっともないな、アイリス」

「婚約者として、恥ずかしくないのか」

「そんな醜態を晒す女を、王妃になどできるわけがない」


ミレイユと一緒に、アイリスを笑いものにした。

最も近くで守るべきだったはずの人間が、誰よりも残酷に、失禁したアイリスを罵倒した。


「……あっ……あ……」


殿下の喉から、苦しげな吐息が漏れる。


「私は……アイリスに……そんな……」


婚約破棄の宣言だけではない。

公衆の面前で尊厳を失い、泣きながら床を汚していた婚約者を、さらに言葉で踏みにじった。


「みっともない」「醜態」「王妃にふさわしくない」――自分が放ったその言葉のひとつひとつが、今になって鋭い刃となって自分の胸を抉る。


「酷いことを……した……。私は、婚約者に……取り返しのつかないことを……」


殿下は、耐えきれないというように、深く項垂れた。

両手で顔を覆い、肩を激しく震わせる。


「許されない……。アイリスを……あんな目に遭わせて、さらに罵って……私は……何ということを……」

 

絞り出すような声だった。

その言葉には、深い絶望が滲んでいた。

自らが犯してきた過ちの重さに、押し潰されそうになっているのが、はっきりと伝わってくる。

特に、失禁して羞恥に震えていた私を、冷ややかに見下し、激しく罵倒した記憶が、彼の心を強く苛んでいるようだった。

私は、静かに、けれど確かな声で、そんな殿下に告げた。

 

「罪は消えません」

 

その言葉に、殿下は肩を震わせた。

けれど、私は続けた。

 

「ですが、償うことはできます」

 

その言葉に、殿下は、ゆっくりと顔を上げた。

涙に濡れたその瞳には、これまで失われていた、確かな意志の光が、少しずつ戻り始めていた。

私を見るその目には、明確な後悔と、苦しさが浮かんでいる。


「……アイリス。私は、お前に……ひどいことを言った。漏らしてしまったお前を、笑って、罵って……。婚約者として、人として、最低のことを……」


声が、途切れる。

それでも彼は、視線を逸らさなかった。


「すまない。本当に……すまなかった」


私は、その言葉をまっすぐに受け止めた。

胸の奥が、熱くなる。

あの日の傷が、完全に消えることはないかもしれない。

けれど、今、こうして彼が自分の意志で苦しみ、後悔し、謝罪しているという事実は、確かにここにある。


「……今は、それよりも」


私は静かに首を振った。


「一緒に、終わらせましょう」


殿下は、震える手で、剣を握り直した。

けれど、その切っ先は、もう私に向けられてはいなかった。

最後に残った力を振り絞るように、殿下は立ち上がり、黒い霧の存在――かつて封印されたはずの魔眼教団の創始者へと、その刃を向けた。 


「貴様が……私の心を、王国を……」

 

低く、けれど確かな怒りを込めた声だった。

かつての、公正さと誇りを重んじた殿下の姿が、そこには確かに戻ってきていた。

婚約者を辱め、失禁した彼女を罵倒するよう仕向けた仇を、今度は自らの意志で討つために。

黒い霧の存在は、その様子を見て、忌々しげに呻いた。

 

「愚かな……」

 

その声には、初めて、明確な苛立ちが滲んでいた。

これまで完全に支配していたはずの器が、聖女の光によって、自らの意志を取り戻してしまったのだから、当然のことだったのかもしれない。

私は、殿下と共に、その存在へと向き直った。

胸の中の光は、なおも輝きを増し続けている。

一人では成し得なかったかもしれない。

けれど、共に立ち上がった今、この絶望的な状況の中にも、確かな希望の光が見えていた。

殿下が、静かに、けれど力強く口を開いた。

 

「共に、終わらせよう」

 

その言葉に、私は深く頷いた。

かつて婚約者として、そして今は、共にこの王国を守るべき同志として。

私達は、並び立ち、最後の戦いへと向き直った。












評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ