第十九章 王太子の涙
殿下の剣先は、私の目の前で、微動だにしなかった。
黒く濁った瞳には、感情らしい感情の色が、まったく浮かんでいない。
けれど、私は剣を下ろすことのないまま、静かに語りかけ始めた。
「覚えていますか」
問いかけるように、そう切り出す。
「幼い頃、王宮の庭園で、あなたと一緒に駆け回ったことを」
殿下の瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。
私は、構わず言葉を続けた。
「あなたはいつも、私より速く走ろうとして、よく転んでいましたね。それでも、決して泣かずに、また立ち上がって走り出していました」
幼い日の記憶が、次々と蘇ってくる。
まだ何の憂いもなかった、あの穏やかな時間。
「私達は、いつか共に、この国を支えていくのだと。未来の王と、王妃になるのだと。何度も、そう誓い合いました」
私の声には、自然と涙が滲んでいた。
けれど、それでも言葉を止めるわけにはいかなかった。
「辛いことがあるたびに、お互いを励まし合いましたね。あなたが重責に押し潰されそうになったとき、私はいつも、隣にいると誓いました」
殿下の剣を握る手が、微かに震え始めた。
その変化を、私は見逃さなかった。
胸の奥で輝き続ける聖女の光が、その揺らぎに呼応するように、さらに強さを増していく。
金色の輝きが、殿下を覆う黒い瞳の濁りへと、静かに、しかし確実に、浸透していった。
魔眼の力と、聖女の光とが、殿下の内側で激しく衝突しているのが、傍から見ていても、はっきりとわかった。
殿下は、剣を握ったまま、苦しげに顔を歪めた。
「う……ぐ……」
呻き声を漏らしながら、頭を抱えるようにして、その場に膝をつく。
黒い瞳が、まるで氷が溶けていくかのように、少しずつ、その濁りを晴らしていった。
そして、その瞳から、堪えきれないように、涙が溢れ出した。
「私は……何を……」
かすれた声で、そう呟く。
その声には、これまでの虚ろさとは、まったく異なる、確かな苦悩の色が滲んでいた。
洗脳が、解けていく。
殿下は、震える手で自らの顔を覆いながら、これまで自分が行ってきたことのすべてを、一気に思い出していくようだった。
理由もなく私との婚約を破棄したこと。
忠実に仕えてきた重臣達を、次々と追放したこと。
軍の指揮権を、敵の手に渡そうとしたこと。
そして、忠言を呈しただけの老伯爵を、死に追いやってしまったこと。
その記憶のすべてが、堰を切ったように、殿下の心へと押し寄せていく。
さらに――その中に、どうしても目を背けられない、ひとつの光景が鮮明によみがえる。
あの夜。
ミレイユの赤い瞳に晒され、恐怖に支配されたアイリスが、公衆の面前で膝から崩れ落ち、制御を失い、熱いものを止められずに溢れさせてしまった瞬間。
ドレスが濡れ、床に水たまりが広がり、羞恥に顔を真っ赤にして身を縮こまらせていたアイリスを。
殿下は、隣で冷たく見下ろし、嘲るように言ったのだ。
「みっともないな、アイリス」
「婚約者として、恥ずかしくないのか」
「そんな醜態を晒す女を、王妃になどできるわけがない」
ミレイユと一緒に、アイリスを笑いものにした。
最も近くで守るべきだったはずの人間が、誰よりも残酷に、失禁したアイリスを罵倒した。
「……あっ……あ……」
殿下の喉から、苦しげな吐息が漏れる。
「私は……アイリスに……そんな……」
婚約破棄の宣言だけではない。
公衆の面前で尊厳を失い、泣きながら床を汚していた婚約者を、さらに言葉で踏みにじった。
「みっともない」「醜態」「王妃にふさわしくない」――自分が放ったその言葉のひとつひとつが、今になって鋭い刃となって自分の胸を抉る。
「酷いことを……した……。私は、婚約者に……取り返しのつかないことを……」
殿下は、耐えきれないというように、深く項垂れた。
両手で顔を覆い、肩を激しく震わせる。
「許されない……。アイリスを……あんな目に遭わせて、さらに罵って……私は……何ということを……」
絞り出すような声だった。
その言葉には、深い絶望が滲んでいた。
自らが犯してきた過ちの重さに、押し潰されそうになっているのが、はっきりと伝わってくる。
特に、失禁して羞恥に震えていた私を、冷ややかに見下し、激しく罵倒した記憶が、彼の心を強く苛んでいるようだった。
私は、静かに、けれど確かな声で、そんな殿下に告げた。
「罪は消えません」
その言葉に、殿下は肩を震わせた。
けれど、私は続けた。
「ですが、償うことはできます」
その言葉に、殿下は、ゆっくりと顔を上げた。
涙に濡れたその瞳には、これまで失われていた、確かな意志の光が、少しずつ戻り始めていた。
私を見るその目には、明確な後悔と、苦しさが浮かんでいる。
「……アイリス。私は、お前に……ひどいことを言った。漏らしてしまったお前を、笑って、罵って……。婚約者として、人として、最低のことを……」
声が、途切れる。
それでも彼は、視線を逸らさなかった。
「すまない。本当に……すまなかった」
私は、その言葉をまっすぐに受け止めた。
胸の奥が、熱くなる。
あの日の傷が、完全に消えることはないかもしれない。
けれど、今、こうして彼が自分の意志で苦しみ、後悔し、謝罪しているという事実は、確かにここにある。
「……今は、それよりも」
私は静かに首を振った。
「一緒に、終わらせましょう」
殿下は、震える手で、剣を握り直した。
けれど、その切っ先は、もう私に向けられてはいなかった。
最後に残った力を振り絞るように、殿下は立ち上がり、黒い霧の存在――かつて封印されたはずの魔眼教団の創始者へと、その刃を向けた。
「貴様が……私の心を、王国を……」
低く、けれど確かな怒りを込めた声だった。
かつての、公正さと誇りを重んじた殿下の姿が、そこには確かに戻ってきていた。
婚約者を辱め、失禁した彼女を罵倒するよう仕向けた仇を、今度は自らの意志で討つために。
黒い霧の存在は、その様子を見て、忌々しげに呻いた。
「愚かな……」
その声には、初めて、明確な苛立ちが滲んでいた。
これまで完全に支配していたはずの器が、聖女の光によって、自らの意志を取り戻してしまったのだから、当然のことだったのかもしれない。
私は、殿下と共に、その存在へと向き直った。
胸の中の光は、なおも輝きを増し続けている。
一人では成し得なかったかもしれない。
けれど、共に立ち上がった今、この絶望的な状況の中にも、確かな希望の光が見えていた。
殿下が、静かに、けれど力強く口を開いた。
「共に、終わらせよう」
その言葉に、私は深く頷いた。
かつて婚約者として、そして今は、共にこの王国を守るべき同志として。
私達は、並び立ち、最後の戦いへと向き直った。




