第十八章 真なる黒幕
黒い霧は、地下祭壇の空間を満たしながら、次第に人の形を取り始めた。
輪郭が定まっていくにつれ、そこに現れたのは、私がこれまで一度も目にしたことのない、老いた男の姿だった。
けれど、その存在感は、生身の人間のものとは、明らかに異なっていた。
「数百年ぶりだな」
低く、乾いた声だった。
その声だけで、地下祭壇の空気が、さらに重く沈んでいくのがわかった。
私は、直感的に理解した。
これこそが、数百年前、初代聖女によって封印されたはずの、魔眼教団の創始者そのものなのだと。
「肉体は滅びても、魂だけは滅びぬ」
その存在は、静かにそう告げた。
「私はずっと、器となる者を探し続けていた。そして、ようやく見つけたのだ」
その視線が、地に伏したままのミレイユへと向けられる。
床に広がる水たまりの中で、ドレスをびしょびしょに濡らしたまま肩を震わせている彼女に。
私は、はっとした。
ミレイユは、この存在に、幼い頃から利用され続けていただけだったのだ。
「……お前か」
創始者は、まるで愛でるように、ミレイユを見下ろした。
「封印された身では、直接干渉できる者は限られる。波長が合う魂など、百年に一人いればいい方だ。お前は……実に、都合がよかった」
ミレイユの顔が、さらに蒼白に変わる。
「わたくし、は……ずっと……」
その声は、これまでの余裕に満ちた彼女とは、まったくの別人だった。
創始者は、嗜虐的な笑みを浮かべて続ける。
「幼い頃から、お前の睡眠を、神経の制御を、少しずつ奪ってやった。夜な夜なシーツを汚させ、昼も突然に熱いものを漏らさせてな。親に叱られ、使用人に蔑まれ、兄弟に笑われ……『また漏らした』『いつまで子供なのだ』と罵られるたびに、お前の魂は削れていった」
地下祭壇に、残酷な真実が落ちる。
「十二歳まで続いたあの惨めなおねしょとお漏らしは、お前の弱さなどではない。私が、封印の隙間から糸を引き、身体の自律神経を奪い、恐怖と羞恥で魂を疲弊させていたのだ。魂が摩耗すればするほど、魔眼の器として適した『欠けた器』になる。お前が赤い瞳に目覚めたのは、偶然などではない。私が、計画的に作り上げた結果だ」
ミレイユが、目を見開いたまま硬直する。
「……嘘……です……よね……? あの、夜ごとに……朝、濡れたシーツを見て泣いていた日々も……全部……」
「ああ。お前のコンプレックスも、上位の令嬢を失禁させて優越感に浸りたかった欲望も、すべては私が植え付け、育てたものだ。お前がアイリスらを公衆の面前で漏らさせ、毎晩おねしょを強要して尊厳を奪ったのも、結局は私の設計通り。器を完成させ、恐怖を増幅させるための過程にすぎん」
ミレイユは、自分の下半身から今も滴る水音を聞きながら、声を失った。
自分が苦しんできた幼少期の羞恥も、それを解消するために他者を同じ目に遭わせてきた行為も、すべて背後で糸を引かれていた。
「わたくし、は……ただの……道具……」
床の水たまりに手をついたまま、彼女は崩れるように顔を伏せた。
「王妃になりたい」「コンプレックスを解消したい」という願いさえも、幼い頃から少しずつ、この存在によって歪められ、植え付けられたものだったのかもしれない。
彼女自身の意志など、いったいどこまでが本物だったのだろう。
その事実に、私の胸に、これまでとは違う、複雑な感情が押し寄せてきた。
憎らしかった。
私たちを何度も公衆の前で失禁させ、夜ごと悪夢でおねしょを強要し、尊厳を踏みにじってきた仇として。
けれど同時に――幼い彼女が、封印された何者かにコントロールされ、意志に反して毎晩ベッドを濡らされ、魂を削られ続けていたという事実は、あまりにも残酷だった。
祭壇の隅で、その一部始終を見ていたダミアンが、愕然とした様子で立ち尽くしていた。
「娘を……利用していたのか……」
震える声で、そう呟く。
「あの子が夜な夜な漏らしていたのも、昼間に突然……あれも全部、お前が……!」
これまで、教団の幹部として、狂信的にこの存在へ仕えてきた彼にとっても、実の娘までもが、単なる道具として扱われ、幼少期からおねしょとお漏らしを強要されて魂を疲弊させられていたという事実は、受け入れがたいものだったのだろう。
けれど、黒い霧の存在は、そんなダミアンの動揺など、まるで意に介さなかった。
「人の欲望こそ、最も甘い器だ。欠落した魂ほど、魔眼を受け入れやすい。お前の娘は、最高の素材だったよ」
嘲るように、そう告げる。
その言葉には、人の心の弱さすらも利用し尽くしてきた、長い年月の傲慢さが滲んでいた。
そして、その存在は、両腕を広げるようにして、大きく身を反らせた。
その瞬間、地上――王都全体に満ちていたはずの恐怖の気配が、まるで吸い寄せられるように、地下祭壇へと集まり始めた。
建国祭の会場で錯乱していた貴族達の恐怖。
街の人々の間に広がっていた不安。
それらすべてを養分とするように吸収しながら、その存在は、みるみるうちに、より禍々しい、完全な姿へと変貌を遂げていく。
私は、その圧倒的な力の奔流を前に、思わず後ずさりそうになった。
けれど、胸の中で輝き続ける聖女の光だけが、かろうじて私の足を、その場に踏みとどまらせていた。
ミレイユが幼い頃から強制されてきたおねしょとお漏らし。
それを利用して魂を削り、魔眼を目覚めさせ、さらには私たちを同じ羞恥で貶めることで恐怖を増幅させてきた。
すべては、この男の――この存在の、数百年越しの計画だったのだ。
そのとき、地下祭壇へと続く階段から、新たな足音が響いてきた。
振り返ると、そこに立っていたのは、カイゼル殿下だった。
その瞳は、完全に黒く濁りきっている。
もはや、私の知る殿下の面影は、そこにはほとんど残されていなかった。
完全に操られている。
そのことが、ひと目でわかった。
殿下は、無言のまま腰の剣を抜いた。
そして、その切っ先を、まっすぐに私へと向ける。
「敵を討つ」
感情のこもらない声だった。
まるで、機械的に命令を実行しているだけのような、虚ろな響きだった。
私は、その剣先を前にしても、動くことができなかった。
恐怖からではない。
かつて共に未来を誓い合った人が、今、こうして自分の意志を完全に奪われたまま、剣を向けてきているという事実に、胸が押し潰されそうになったからだ。
「あなたを傷付けたくありません」
私は、剣を向けられたまま、静かにそう告げた。
その声は、我ながら驚くほど、落ち着いていた。
殿下は、何も答えなかった。
ただ、黒く濁った瞳のまま、私を見つめ続けている。
その奥に、ほんのわずかでも、以前の殿下の意志が残っているのではないか。
そんな一縷の望みを抱きながら、私は剣を向けられたその場に、じっと立ち続けた。
黒い霧の存在は、その光景を、愉快そうに見下ろしていた。
「良い見世物だ。器が羞恥にまみれて床を汚す姿も、王子が恋人に剣を向ける姿も、いずれも私の計画通りよ」
嘲るような声が、地下祭壇に響き渡る。
けれど、私はその声に惑わされることなく、ただ、目の前に立つ殿下だけを、まっすぐに見つめ続けていた。
ミレイユが幼少期から強要されてきた失禁の地獄も、私たちが味わってきた同じ羞恥も、すべてはこの真なる黒幕が糸を引いていた。
この絶望的な状況の中でも、まだ諦めるわけにはいかない。
殿下の中に眠っているはずの、本当の心に、届く言葉があるはずだ。
ミレイユの魂を削るために使われたおねしょとお漏らしの支配だって、今度こそ断ち切ってあげなくちゃならない。
そう信じながら、私は静かに、次の言葉を選び始めていた。




