第十七章 聖女覚醒
ベルクレスト男爵邸に辿り着いた私達を待っていたのは、屋敷を守るように配置された、幾人もの見張りの姿だった。
けれど、父とノエルが、迷うことなくその道を切り開いていく。
剣を交える音が、静かな夜に鋭く響いた。
「アイリス様、先へ!」
ノエルが叫ぶ。
父もまた、地下へと続く入り口を確保するべく、次々と敵を退けていった。
その二人の戦う姿に、私は一瞬だけ足を止めそうになった。
けれど、父が振り返らずに叫んだ。
「行け!」
その一言に、私は覚悟を決めた。
クラリーチェとエルザと共に、私は地下へと続く階段を駆け下りていく。
地下祭壇に足を踏み入れた瞬間、噎せ返るような重い空気が、私の肌にまとわりついた。
黒い蝋燭の灯りだけが、壁一面に描かれた魔法陣を、不気味に照らし出している。
その中央に、ミレイユが立っていた。
クラリーチェとエルザが、私の背中をそっと押した。
「ここから先は、アイリス様お一人で」
「お願いします。アイリス様」
その言葉に、私は驚いて振り返った。
けれど、クラリーチェとエルザの瞳には、確かな信頼が宿っていた。
「これは、聖女と魔眼の対決です。わたくし達では、力になれません」
その通りだった。
これまで、幾度も共に戦ってきた友人達でさえ、この最後の局面には、立ち会うことができない。
私は、深く息を吸い込み、ミレイユと初めて、真正面から向き合った。
ミレイユは、いつものように、静かに笑った。
「また私の目を見るの?」
その声音には、これまでと変わらぬ穏やかさが滲んでいる。
けれど、私にはもう、その笑顔の奥に潜む恐ろしさを、はっきりと見抜くことができていた。
恐怖は、消えなかった。
むしろ、その瞳を正面から見つめた瞬間、これまでと同じように、全身が凍りつくような感覚に襲われた。
膝が、震える。
下腹の奥が、危険な熱を帯びて疼く。
――また、漏らしそうになる。
けれど、今回は、崩れ落ちなかった。
胸元――かつて聖印を身につけていたわけでもないその場所が、内側から淡い光を放ち始めていた。
幼い頃から、私の中に眠り続けていたもの。
それが、ようやく、静かに目を覚まそうとしていた。
『聖女の浄眼』。
金色に輝くその力が、ミレイユの赤い魔眼と、真っ向からぶつかり合う。
地下祭壇全体が、その衝突の余波で、大きく震え始めた。
壁に刻まれた魔法陣が、パチパチと音を立てて弾ける。
ミレイユは、これまで一度も見せたことのない、苦しそうな表情を浮かべた。
「そんな……」
その声には、初めて、明確な動揺が滲んでいた。
完璧だったはずの微笑みが、大きく崩れる。
私はその瞬間を見逃さず、声を振り絞った。
「あなたを止めます!」
その叫びと共に、私の中で光が、さらに強く輝きを増していく。
これまで感じてきた恐怖のすべてを、その光へと変えるように。
ノエルが味わった屈辱を。
クラリーチェが崩された誇りを。
エルザに刻まれた消えない傷を。
父が耐え抜いた、あの一瞬の抵抗を。
ルーカスが剣を突き立てて踏みとどまった勇気を。
そして――私たちが何度も公衆の面前で失禁させられ、夜ごとシーツを汚して泣いた、あの羞恥の日々を。
それらすべての想いが、私の胸の中で、一つの強い意志へと結晶していく。
金色の光が、ミレイユを包み込む赤い瞳の輝きを、少しずつ押し返していく。
ミレイユは、両手で自らの顔を覆いながら、その場に崩れるように膝をついた。
「やめ……て……」
これまで一度も聞いたことのない、弱々しい声だった。
その姿は、もはやこれまでの余裕に満ちた彼女とは、まるで別人のようだった。
そして――次の瞬間だった。
「……あっ……や、だめ……っ!?」
ミレイユの瞳が大きく見開かれる。
聖女の浄眼が魔眼を押し返し、彼女自身の内側に溜め込んでいた「恐怖」と「支配」の力が、一気に逆流したのだ。
これまで彼女が他者に浴びせてきたもの以上の、激烈な羞恥と喪失感が、彼女自身の精神と身体を直撃する。
「ひっ……や、やめ……止まらな……いっ……!」
ミレイユの顔が、見る間に真っ赤に染まった。
膝をつき、両脚を必死に締め付けようとするが、もう遅い。
「あ……あぁあっ……! 出て……る……っ!」
派手な水音が、静かな地下祭壇に響き渡った。
勢いよく、容赦なく。
濃い色のドレスの裾から、大量の熱い尿が噴き出し、床の石畳を激しく叩く。
びしゃびしゃという生々しい音が連続し、黄色い水が彼女の膝下から放射状に広がっていく。
太ももを伝う透明な筋が何本も作られ、下着は一瞬で飽和し、ドレスの生地が色を変えて肌に張り付く。
それでも止まらない。
「いや……こんな……私の……が……止まらないっ……!」
ミレイユはパニックに陥り、裾を押さえ込もうと手を伸ばすが、指の間からも容赦なく溢れ出す。
床にできた水たまりは、あっという間に私たちが過去にあの場で作ってしまったものより、遥かに大きく、深く広がっていった。
羞恥に顔を歪め、涙を浮かべ、歯を食いしばりながらも、下半身は完全に決壊したままだ。
かつての私たち以上に、激しく、惨めに、無様に。
彼女は公衆の面前で――いや、敵である私の眼前で――誇りも何もかもを失いながら、大量にお漏らしを続けていた。
「うぅ……ぅくっ……あ……あっ……まだ……出てる……」
腰を落とし、床に手をついて喘ぐその姿は、これまで私たちを見下し、冷ややかに嘲笑っていた彼女とは到底思えなかった。
その極度の羞恥と敗北感の中で、ミレイユの意識は、強制的に過去へと引き戻されていく。
――十二歳まで。
ミレイユは、おねしょがどうしても治らなかった。
夜になれば必ずと言っていいほどシーツをぐっしょりと汚し、朝には母親に叱られ、使用人に蔑まれ、兄弟に笑い者にされた。
「またか。ベルクレストの恥」
「いくつになっても子供か」
昼間ですら、緊張や恐怖を感じると、すぐに漏らしてしまうことがあった。
貴族社会で生きる少女として、それは致命的な欠陥だった。
誰にも言えず、誰にも頼れず、ただ一人、濡れた服を隠しながら育ち、心の奥に深いコンプレックスを刻み込んでいった。
「自分だけが、こんなに惨めなんだ」
そう思い込んでいたある日。
赤い瞳が目覚めた。
最初に試したのは、自分より遥かに上位の公爵令嬢だった。
睨んだ瞬間、相手は膝から崩れ、公衆の前で盛大に失禁した。
床に水たまりを作り、泣きながら謝罪するその姿を見たとき――ミレイユは、初めて、自分の中の黒い塊が少しだけ軽くなるのを感じた。
「私より上の人間が、私と同じように漏らしている」
「私だけじゃない。私の方が、上なんだ」
それ以来、彼女は繰り返し、自分より身分の高い令嬢たちを狙った。
アイリスを。
ノエルを。
クラリーチェを。
エルザを。
赤い瞳で恐怖を与え、羞恥の中で失禁させ、夜ごと悪夢でおねしょをうながし、彼女たちの尊厳を徹底的に踏みにじることで、自分の十二歳までの惨めさを上書きしようとした。
「漏らすのは、私じゃない。あなたたちよ」
そうやってコンプレックスを解消し、優越感で心の穴を埋めてきた。
なのに今――。
自分が、かつて自分が強いてきた以上に、無様に、激しく、床を汚しながら漏らしている。
「やだ……こんなの……私の方が……惨めじゃない……っ」
ミレイユは床に手をついたまま、自分の下半身から今も滴り落ちる熱い液体を見つめて、声にならない悲鳴を上げた。
ドレスは完全に濡れそぼり、床の水たまりは彼女の膝まで浸すほどになり、羞恥を助長させる匂いが地下に充満する。
プライドが、音を立てて砕け散っていく。
「……これが、あなたが私たちにしてきたことよ」
私は、光を手放さずに静かに言った。
「恥ずかしかった。死ぬほど恥ずかしかった。でも……もう、私たちは立ち上がった」
ミレイユは顔を覆い、肩を震わせた。
その時だった。
ミレイユの瞳から、黒い霧のようなものが、ゆっくりと噴き出し始めた。
それは、彼女自身の意志とはまったく無関係に、まるで内側から溢れ出るように、地下祭壇の空間へと広がっていく。
その黒い霧の奥に、何か別の存在の気配が、確かに感じられた。
私は、思わず息を呑んだ。
これまで戦ってきた相手は、ミレイユという一人の少女ではなかったのかもしれない。
その奥に、もっと大きく、もっと恐ろしい何かが、静かに潜んでいる。
その予感が、私の背筋に、新たな緊張を走らせた。
金色の光は、なおも輝きを保ち続けていた。
けれど、目の前で立ち上がろうとしているその気配は、これまで感じてきたどの恐怖よりも、はるかに深く、そして根源的なものだった。
床に広がる水たまりの中で、ミレイユは完全に力を失い、ただ羞恥に身を震わせている。
私は、震える足に力を込め、その黒い霧の奥にある存在を、まっすぐに見据えた。
まだ、戦いは終わっていない。
むしろ、ここからが、本当の意味での始まりなのだと、私は静かに、しかし確かに悟っていた。




