第十六章 満月の儀
満月の夜が、ついに訪れようとしていた。
王都では、建国祭の最後を飾る「月の祝祭」が、例年通り盛大に開かれることになっていた。
王城の大広間には、王族、貴族、騎士団、神官、そして各国からの使節までもが、一堂に会していた。
表向きは、これまでと変わらぬ華やかな祝祭の夜だった。
けれど、その裏側で、静かに、しかし着実に、破滅への時計の針が進んでいることを、この場にいる誰もが、まだ知らなかった。
ベルクレスト男爵邸の地下祭壇では、すでに儀式が始まろうとしていた。
ダミアンは、祭壇の中央で、自らの手に短刀を握りしめていた。
その刃を、躊躇いなく自らの掌へと走らせる。
滴り落ちる血が、石造りの祭壇に描かれた魔法陣を、静かに満たしていく。
「数百年の悲願、今こそ果たされます」
ダミアンは、血にまみれた手を掲げながら、恍惚とした表情でそう祈った。
その声には、これまでの彼が見せてきた、成功した商人としての体面など、もはや微塵も残っていなかった。
ただひたすらに、狂信的な悲願の成就だけを、その瞳に映していた。
祭壇の中央に、ミレイユが静かに立った。
彼女の赤い瞳は、地下の暗闇にもかかわらず、まるで満月の光を直接受けているかのように、妖しく輝き始めていた。
その輝きは、これまで私達が見てきたどの瞬間よりも、はるかに強く、そして禍々しいものだった。
その瞬間、王城の大広間で、異変が起きた。
談笑していたはずの貴族達が、突然、頭を押さえて苦しみ始めたのだ。
「う、うぅ……」
「頭が……割れるように……」
苦悶の声が、あちこちから上がる。
中には、正気を失ったように錯乱し、隣にいたはずの友人を、まるで敵であるかのように睨みつけ、掴みかかる者まで現れ始めた。
華やかだったはずの大広間は、瞬く間に、恐怖と混乱の坩堝と化していく。
これこそが、ダミアン達が企てていた儀式の正体だった。
「魔眼の増幅」。
直接その瞳を見ずとも、王都全体に恐怖そのものを拡散させる、恐るべき禁呪だった。
たった一人の意志によって、これほどまでに広範囲の人々の心を、一斉に蝕むことができるとは、これまでの私達の想像を、はるかに超えるものだった。
そして――その波は、例外なく私にも襲いかかった。
「……あっ……!」
突然、視界が真っ赤に染まる。
頭蓋の内側を、灼熱の爪が掻きむしるような激痛。
息が詰まり、膝から力が抜け、立っていられなくなるほどの圧倒的な恐怖が、全身を貫いた。
以前、ミレイユの瞳に直接晒されたときとは比較にならない。
儀式によって増幅された力は、明らかに桁違いだった。
下腹の奥が、びくりと大きく痙攣する。
「や……だめ……っ」
熱いものが、意志に反して体内から押し上げてくる。
私は思わず両足をきつく締め、裾を押さえた。
けれど、一瞬の緩みで、わずか――本当にわずかだけ、熱い雫が漏れ出した。
下着の一部が、じわりと温かく湿る。
ちびってしまった。
羞恥と自己嫌悪が、恐怖と同時に込み上げてくる。
また、やってしまった。
こんなところで、また制御を失いかけた。
けれど。
私は歯を食いしばり、下腹に力を込めた。
……もう、漏らさない。
絶対に、これ以上は漏らさない。
あの日の大広間のように、床に水たまりを作って失禁するような惨めな姿は、もう二度と晒さない。
父も、ルーカスも、あれほどの力に耐えてみせた。
なら、私も――決壊だけは、絶対に許さない。
震えながらも、私は漏れ出した熱をそこで食い止めた。
それ以上は、一滴たりとも外に出させない。
荒い息を整えながら、苦しむ周囲の貴族たちを見渡す。
頭を抱え、膝をつき、錯乱し、叫び声を上げる人々。
確かに、皆が激しく苦しんでいる。
なのに。
……誰も、漏らしていない。
床に染みが広がる様子も、羞恥に顔を真っ赤にして裾を押さえる姿も、見当たらない。
あれほど強い恐怖の波を受けているというのに、彼らは、ただ苦痛に顔を歪めているだけだった。
胸の奥が、冷たく沈む。
もしかして……私たちは、人一倍、心が弱かったのかもしれない。
同じ魔眼の恐怖を浴びても、普通の人はここまで羞恥で身体の自由を奪われない。
私たちだけが、特別に脆く、特別に崩れやすく、ああまで簡単に公衆の面前でお漏らしをして、尊厳を失ってしまったのか。
その自覚が、鋭く胸に突き刺さった。
弱かった。
私たちは、あまりにも弱かった。
だからこそ、ミレイユにあそこまでつけ込まれた。
……だからこそ、もう二度と、同じようには崩れない。
その混乱の最中、修道院から戻ってきたばかりの老司祭が、大広間で声を張り上げた。
「聖女を祭壇へ!」
その叫びは、混乱する会場の中でも、はっきりと私の耳に届いた。
老司祭は、私のもとへと駆け寄ってくる。
「アイリス様、あなたが行かねばなりません」
その言葉に、私は一瞬、身がすくむのを感じた。
下着の湿りが、まだ生々しく残っている。
けれど、周囲で苦しむ人々の姿を見た瞬間、迷っている時間などないことを、はっきりと悟った。
父も、母も、ノエルも、クラリーチェも、そしてエルザも、皆がこの王都のどこかで、この恐怖に晒されている。
これ以上、誰かが傷つくのを、ただ見ているわけにはいかなかった。
私は、静かに、けれどはっきりと答えた。
「逃げません」
その一言に、これまで積み重ねてきた恐怖と、そして決意のすべてが込められていた。
あの舞踏会の夜、ただ膝を折ることしかできなかった自分とは、もう違う。
何度もあの赤い瞳に晒されながら、それでも前を向こうとしてきた日々が、確かに私を、ここまで導いてくれていた。
ちびってしまった恥ずかしささえも、今は燃料にする。
老司祭は、私の瞳をまっすぐに見つめ、深く頷いた。
「聖堂の加護が、あなたを導くでしょう」
その言葉を背に、私は大広間を後にした。
本来であれば、真っ先に王城の奥、聖堂へと向かうべきなのかもしれない。
けれど、私の脚は、自然と別の方向へと向かっていた。
この恐怖の根源――ベルクレスト家の地下祭壇へと。
「アイリス様!」
背後から、ノエルの声が聞こえた。
振り返ると、彼女だけでなく、駆けつけたばかりのクラリーチェとエルザ、そして父の姿もそこにあった。
父は、混乱する王城の中を掻き分けながら、私のもとへと辿り着いたのだった。
四人。
無事に、こうして揃った。
「一人では行かせません」
ノエルが、剣を握りしめながら、そう言った。
その瞳には、あの日膝を折った少女の面影はもう、どこにもなかった。
けれど――彼女の淡い色のスカートの内側、太もものあたりに、薄く、しかし確かに色の変わった染みが広がっているのが見えた。
エルザも同じだった。
駆けてきたせいか、それとも儀式の余波か。
彼女の裾にも、うっすらと暗く湿った跡が残っている。
二人とも、ちびてしまったのだ。
あるいは、それ以上に漏らしてしまったのかもしれない。
それでも、ノエルもエルザも、そのことを隠そうとも、恥じて立ち止まりもしなかった。
顔は赤い。
明らかに羞恥で耳まで染まっている。
なのに、二人は背筋を伸ばし、私をまっすぐに見据えていた。
「わたくしも、これまでの調査を、決して無駄にはしたくありません」
クラリーチェも、静かに、けれど強い口調でそう告げた。
彼女の表情にも、苦痛の色は残っていたが、裾に目立った染みはなかった。
エルザが、染みのあるスカートを気にすることもなく、拳を握りしめて続けた。
「……見ての通り、また少しやってしまいました。でも、もう羞恥には屈しません。これ以上、絶対に漏らさない。戦います」
ノエルも、自分の裾の染みに一瞬だけ視線を落としてから、はっきりと頷いた。
「はい。恥ずかしいです。死ぬほど恥ずかしい。でも……このまま終わりたくありません。アイリスと一緒に、行きます」
その言葉に、私の胸が熱くなった。
自分だけじゃない。
彼女たちも、儀式の増幅された力を受けて、また身体の自由を奪われかけ、染みを作ってしまった。
それでも、羞恥に沈んで立ち止まることを拒んでいる。
父は、何も言わず、ただ深く頷いた。
その表情には、娘を案じる親としての想いと、王国を守る騎士としての覚悟とが、同時に宿っていた。
私達は、王城の喧騒を背に、夜の王都を駆け抜けた。
月明かりだけが、私達の行く手を、静かに照らしている。
向かう先は、王城ではなく、敵が待つベルクレスト家の地下祭壇だった。
そこに、すべての元凶が存在している。
そして、そこでこそ、この長い恐怖に、終止符を打たなければならない。
風を切りながら、私は自分の胸の内に、静かに問いかけた。
本当に、聖女の力とやらが、私の中に眠っているのだろうか。
確かな自信など、どこにもなかった。
下着の湿りが、走るたびに冷たく意識される。
ノエルとエルザの裾の染みも、視界の端に入る。
人一倍弱かったのかもしれない私たち。
だからこそ、何度も辱められ、何度も漏らしてしまった私たち。
けれど、迷っている時間は、もう残されていない。
「必ず、止めてみせます」
小さく、けれど確かな声で、私はそう呟いた。
その言葉は、誰に聞かせるためのものでもなく、ただ、自分自身の決意を確かめるためのものだった。
隣を走るノエルとエルザも、クラリーチェも、同じように強く頷いてくれた。
染みを抱え、羞恥を噛みしめながらも、誰一人として遅れを取らない。
満月の光が、私達の背中を、静かに、しかし力強く照らし続けていた。




