第十五章 裏切りの剣
満月の儀式という不吉な言葉アイリスたちから聞かされてから、ルーカスの行動は、これまで以上に慎重かつ迅速なものへと変わっていった。
これ以上、事態を静観しているわけにはいかない。
彼は、ついに一つの決断を下した。
「王太子を止めるため、国王陛下へすべてを報告いたします」
私達にそう告げた時、ルーカスの瞳には、並々ならぬ覚悟が宿っていた。
幼い頃から殿下に仕えてきた側近として、この決断がどれほど重いものか、私には痛いほどよくわかった。
主君を裏切るような行為だと、他の誰かからは受け取られるかもしれない。
けれど、真に殿下をお救いするためには、もはやこれ以外に道はなかった。
ルーカスは、王宮内で国王陛下への謁見の機会を、密かに取り付けようとしていた。
けれど、その計画が実行に移される直前のことだった。
王宮の回廊を急ぐルーカスの前に、思いもよらぬ人物が姿を現した。
「どこへ行く」
静かな声だった。
振り返ると、そこには殿下が立っていた。
その表情には、感情らしい感情が、ほとんど浮かんでいなかった。
そして、その後ろには、いつものように、ミレイユの姿があった。
ルーカスは、咄嗟に剣の柄へと手をかけた。
「殿下をお守りするためです」
その言葉に、嘘はなかった。
けれど、ミレイユは、それを聞いて、静かに微笑んだ。
「本当に?」
短く、そう問い返す。
そして、彼女の視線が、まっすぐにルーカスへと向けられた。
――瞬間だった。
視線が交わったとたん、ルーカスは、これまで経験したことのない、圧倒的な何かに全身を掴まれた。
以前、アイリスやノエル、クラリーチェ、エルザが浴びたあの赤い瞳の力とは、次元が違っていた。
当時のアイリスたちは、恐怖に支配され、膝から崩れ、羞恥の中で制御を失い、熱いものを止められずに溢れさせてしまった。
あれだけでも地獄のようだったというのに。
今、ルーカスを襲った圧は、その数倍――いや、数十倍はあっただろう。
脳を直接掻き回されるような激しい頭痛。
頭蓋の内側から張り裂けんばかりの轟音。
視界が赤く染まり、足元が闇に吞み込まれていく感覚。
脳裏に次々と蘇る記憶が、ただ塗り潰されるだけでは済まなかった。
幼い頃、殿下と無邪気に笑い合った日々。
剣の修行を共にした午後。
「お前は俺の剣だ」と殿下に告げられた、あの誇らしい瞬間。
それらすべての温かな記憶が、生々しく歪められ、汚され、引きちぎられるように破壊されていく。
「ぐ……っ、あああっ……!」
ルーカスは、思わず呻き声を上げた。
膝が激しく震え、その場に崩れ落ちそうになる。
胃の内容物を吐き出しそうになり、視界が明滅し、意識が飛びかけた。
普通の人間なら、いや、以前のアイリスたちのような令嬢であれば、一瞬で完全に砕かれていただろう。
失禁し、床にへたり込み、泣きながら謝罪し、魂を差し出すしかなかったはずだ。
いやそれだけでは済まないかもしれない。
それ以上の屈辱を与えていてもおかしくはない。
実際、この力は明らかに――以前より大幅に増幅されていた。
ミレイユの瞳が、より深く、より濃く、血のように赤く輝いている。
「ほら。早く跪きなさい」
ミレイユの声が、脳の皺に直接響き、命令する。
それでも、ルーカスは歯を食いしばった。
「負ける……ものか……っ!」
絞り出すような声で、そう呟く。
オスカーが見せてくれた、あのわずかな抵抗の姿を、ルーカスもまた、知らず知らずのうちに、心の支えとしていたのだろう。
握りしめた剣を、床へと突き立てる。
切っ先が石畳に食い込み、破片が散った。
その剣だけが、彼の身体を支える、唯一の支柱だった。
全身から冷や汗が噴き出し、鼻から一筋の血が流れ落ちる。
耳からも、わずかに血が滲んだ。
膝は折れかけ、呼吸は乱れ、顔は蒼白に歪んでいる。
けれど――彼は、完全には屈しなかった。
アイリスたちがしてしまったような、惨めな失態は犯さなかった。
羞恥にまみれて制御を失うことも、その場に這いつくばって許しを乞うこともなく、ただ意志の力だけで、その場に踏みとどまったのだ。
「……く、そ……」
最後まで睨み返すように顔を上げたまま、ルーカスはその場に膝をついた。
意識を失い、前のめりに倒れ込む。
剣だけが、彼の手から離れず、床に突き立ったままだった。
その一部始終を、実は、遠くの回廊から見つめている人物がいた。
国王ローランド六世その人だった。
陛下は、たまたま人払いをした状態で、この回廊を通りかかっていたのだという。
物陰に身を潜めながら、陛下は、その光景のすべてを、自らの目でしかと確かめていた。
「……やはり」
小さく、そう呟く。
その声には、これまで抱いてきた疑念が、ついに確信へと変わった瞬間の、深い重みが込められていた。
陛下は、これまで、息子であるカイゼル殿下の異変を、心のどこかで、単なる成長の過程における気の迷いであってほしいと、願っていたのかもしれない。
けれど、目の前で繰り広げられたこの光景は、そのような淡い期待を、完全に打ち砕くものだった。
「これは、政争ではない」
陛下は、静かに、けれどはっきりと、そう自らに言い聞かせるように呟いた。
「王国そのものを狙う災厄だ」
その認識は、これまで陛下が抱いてきたどんな懸念よりも、深刻なものだった。
一人の令嬢の意地悪や、貴族間の権力争いなどという、生易しい話ではない。
王国の存亡そのものを揺るがす、根源的な脅威が、確実に、この国の中枢に食い込んでいる。
意識を失ったルーカスは、その後、駆けつけた衛兵達によって、すぐさま医務室へと運ばれた。
一命は取り留めたものの、しばらくの間、目を覚ますことはなかった。
「ルーカスが……」
その知らせを聞いた私は、いてもたってもいられず、王宮の医務室へと駆けつけた。
ノエルとクラリーチェ、エルザも、同じように顔を青ざめさせて駆けつけてくる。
ベッドに横たわる彼の顔は、青白く、額には脂汗が滲んでいる。
鼻腔に残る血の跡が、彼がどれほど凄まじい圧力に晒されたかを物語っていた。
医務官から、回廊で何が起きたのか――断片的に伝えられた内容を聞き、四人とも息を呑んだ。
「……あの力、以前の比じゃなかったそうです」
クラリーチェが、震える声で言った。
「視線を合わせただけで、記憶を破壊されかけ、鼻と耳から血を流した……。私たちが浴びたときとは、明らかに桁が違う」
ノエルが、自分の腕をきつく抱きしめる。
「私たちがあのとき、あんなに簡単に崩れで、漏らしてしまった力の、何倍もの圧を……」
エルザが、ベッドの上のルーカスを見つめたまま、絞り出すように続けた。
「なのに、ルーカス様は耐えきった。お父上様と同じように。私たちみたいに、失態を犯さなかった」
その言葉に、胸が強く締め付けられる。
恥ずかしい。
自分たちがどれほど無力で、どれほど簡単に尊厳を失ったのかを、改めて突きつけられるようだった。
けれど同時に、胸の奥に、熱いものが広がっていく。
私はルーカスの手をそっと握り、静かに言った。
「……すごい。本当に、すごい」
三人も、深く頷く。
「お父様に続いて、ルーカス様までもが、あの瞳に完全には屈しなかった」
「私たちが羞恥に負けて失禁してしまった力を、遥かに上回る圧力を受けてなお、踏みとどまった」
「意志だけで……剣を突き立てて、耐え抜いたんです」
私は、自分自身に言い聞かせるように、そして三人にも聞こえるように、はっきりと告げた。
「私たちにだって、耐えられる」
ノエルが顔を上げる。
クラリーチェが唇を噛み、エルザが拳を握りしめた。
「ええ。ルーカス様が耐えられたのなら」
「お父上様が耐えたのなら」
「私たちだって……次は、絶対に負けない。もう、あのような失態は繰り返さない」
私は四人の輪の中で、ルーカスの寝顔を見つめながら、静かに誓った。
彼の勇気ある行動を、決して無駄にはしない。
魔眼の力が以前より大幅に増しているという恐怖はある。
それでも、父も、ルーカスも、意志の力でそれをしのいでみせた。
なら、私たちにもできる。
羞恥に沈んで制御を失うような、惨めな敗北は、もう二度と繰り返さない。
王国そのものを狙う、目に見えない災厄に対して、私達もまた、それぞれの立場でできる限りの抵抗を続けなければならない。
国王陛下は、その日を境に、これまでとは明らかに異なる決意を固められたようだった。
王宮内では、陛下自らが、密かに信頼できる者達だけを集め、水面下での調査を進め始めているという噂が、静かに流れ始めていた。
これまで、確たる証拠がないという理由で動くことのできなかった王国の中枢が、ついに、重い腰を上げようとしている。
満月の儀式まで、残された時間は、決して多くはないだろう。
けれど、少しずつではあるが、確実に、私達の周りには、共に戦おうとする意志が集まり始めていた。
父の背中。
そして今、このルーカスの耐え抜いた姿。
その事実だけが、この暗い状況の中で、私の心を、確かに支え続けていた。
私は、ルーカスの手をもう一度握りしめて、静かに誓った。
彼の勇気ある行動を、決して無駄にはしない。
「ありがとう。あなたの勇気を、私たちも継ぎますから」




