第十四章 魔眼の系譜
老伯爵の死は、私達に、より一層の危機感を突きつけることになった。
これまで、あの瞳の力は、恐怖によって人々の身体の自由を奪うだけのものだと思っていた。
公衆の面前で制御を失わせ、羞恥でお漏らしを強要し、尊厳を砕いて精神を蝕む――それが魔眼の主たる脅威だと、私達は認識していた。
実際、私自身も、ノエルも、クラリーチェも、エルザも、あの赤い瞳に晒されただけで、熱いものを止められず溢れさせ、床を汚し、笑い物にされてきた。
夜ごと悪夢にうなされ、シーツを濡らして目覚める後遺症に、今も苦しんでいる。
けれど今や、人の命そのものを直接奪う域にまで達している。
一刻の猶予もないという焦りが、私達全員の胸に、重くのしかかっていた。
「……信じられない」
私が掠れた声で呟くと、ノエルが青ざめた顔で首を横に振った。
「お漏らしで辱めるだけでも、あれほど残酷なのに……直接、心臓を止めるなんて」
エルザは唇を噛みしめ、拳をきつく握りしめていた。
「私たちが味わった恐怖の、さらに上があるなんて……。あの時の感覚が、死に直結するほど強まったら……」
想像しただけで、背筋に冷たいものが走る。
羞恥で失禁させられる以上の力。
命を奪う力。
一刻の猶予もないという焦りが、私達全員の胸に、重くのしかかっていた。
クラリーチェは、そんな中でも、決して調査の手を緩めなかった。
むしろ、老伯爵の死をきっかけに、その執念はさらに研ぎ澄まされていったように見えた。
「『魔眼録』には、まだ続きがあるはずです」
彼女は、再び王立図書館の禁書庫へと通い詰めた。
切り取られてしまった肝心のページの代わりとなる記述を求め、関連する古文書を、一冊一冊、丹念に読み解いていく。
そして、ついに、彼女はある一冊の古文書を見つけ出した。
それは、魔眼一族そのものの歴史について記された、極めて古い記録だった。
「見つけました」
ある夜、クラリーチェは興奮を抑えきれない様子で、私達を屋敷に呼び集めた。
私とノエル、そしてエルザ。
四人全員が揃った書斎で、彼女はその古文書に記された内容を、静かに読み上げていく。
数百年前、魔眼一族は、その恐るべき力をもって、王国そのものを乗っ取ろうとしたことがあったという。
けれど、その野望は、初代聖女によって、辛くも打ち砕かれた。
聖女の浄化の力によって、魔眼一族は完全に封印され、一族は歴史の表舞台から姿を消した。
それ以来、魔眼一族は滅び去ったものと、長きにわたり信じられてきたのだという。
「けれど」
クラリーチェは、そこで一度言葉を切った。
その表情には、隠しきれない緊張が浮かんでいた。
「最後のページだけ、明らかに違う筆跡で、何かが書き足されているのです」
彼女は、そのページを、私達の前に静かに広げた。
そこには、こう記されていた。
『器が現れた』
『赤き眼は再び王家へ届く』
『儀式は満月の日に』
その文字を目にした瞬間、私達は誰も、言葉を発することができなかった。
古文書に記された他の文章とは、明らかに異なる、新しい筆跡。
つまり、この不吉な予言めいた一文は、比較的最近になって書き加えられたものだということだ。
「これは、最近書かれた文字です」
クラリーチェの声は、微かに震えていた。
「誰かが、この禁書を書き換えているのです」
その事実の意味するところは、あまりにも重大だった。
王家しか立ち入ることのできないはずの禁書庫にまで、敵の手が及んでいる。
つまり、私達がこれまで信頼を寄せてきた王宮の内部にすら、すでに裏切りの芽が、静かに根を張っているということだった。
「誰が、王立図書館にまで入り込んでいるというの……」
私は、震える声で呟いた。
ノエルが不安そうに袖を握り、エルザが低い声で続ける。
「王宮の奥深くまで、すでに侵食されている……ということでしょう」
誰もその問いに、答えることはできなかった。
けれど、この事実だけは、はっきりとしていた。
敵は、私達が思っている以上に、深く、そして広く、王国の内部に浸透している。
しばらくの沈黙の後、私は四人の顔を順に見渡した。
「確認しましょう。あの瞳の力は、私たちが経験したような――恐怖で身体の自由を奪い、羞恥の中でお漏らしを強要するだけのものではない」
クラリーチェが重く頷く。
「ええ。老伯爵様の件で証明されました。精神を破壊し、最終的には命を奪う。段階的に魂を弱らせ、完全に支配下に置くための力……あるいは、その上位互換が発現し始めている」
エルザが、苦しげに眉を寄せた。
「私たちが公衆の場で漏らしてしまったのも、夜ごとおねしょをしてしまうのも、すべて魂を削るための手段だった。それに加えて、今度は直接死を与えられるようになった」
ノエルが、掠れた声で続ける。
「だからこそ……次に睨まれたら、ただでは済まない。失禁で済めばまだいい方で、心臓を止められるかもしれない」
部屋の空気が、さらに重くなる。
それでも、私は深く息を吸い込み、四人の輪の中心で口を開いた。
「だから、対策を練りましょう。もう、あのような失態は犯さない」
三人が一斉に私を見る。
「恥ずかしさに負けて、また制御を失うわけにはいかない。父上は胆力だけで視線を逸らした。私たちにも、聖女の加護に守られている可能性がある。それに、四人いれば、互いを支えられる」
クラリーチェが眼鏡を軽く押し上げ、冷静な声で提案した。
「まず、視線を合わせない訓練を徹底する。鏡を使った耐性強化と、瞬間的に意識を逸らす技術。加えて、私が研究している簡易的な精神防護の術式を、護符として応用できないか試します」
ノエルが続きを引き取る。
「単独行動は避ける。必ず誰かと一緒に。もし一人が揺らいでも、すぐに声をかけて意識を引き戻す。夜の悪夢対策も、交代で付き添うようにしましょう」
エルザが、決意を込めて頷いた。
「身体を鍛え直します。恐怖で膝が笑うのを、少しでも減らすために。それに……漏らすまいという意志を、もっと強く持つ。次にあの瞳を前にしても、絶対に決壊させない」
私は三人の顔を見つめ、静かに、しかしはっきりと言った。
「ええ。もう二度と、あんなふうに公衆の面前でお漏らしをして、笑われるような真似はしない。羞恥に沈んで終わりたくない。私たちの尊厳は、自分たちで守る」
ノエルが目を潤ませながらも、強く頷く。
「はい……もう、あんな惨めな思いはたくさんです」
クラリーチェも、エルザも、同じように力強く応じた。
「絶対に、防ぎます」
「次こそは、耐え抜いてみせます」
四人で手を重ねる。
顔はまだ、過去の記憶で熱を帯びていた。
下半身の奥に残る、あの屈辱的な感覚の残滓が、時折疼く。
それでも、今はこの羞恥を、後退ではなく前進の燃料に変えると決めた。
もう、あのような失態は犯さない。
どれだけ恐ろしくても、視線を逸らし、意志を繋ぎ、互いを支え、守り抜く。
その覚悟が、静かに、しかし確かに四人の間で共有された。
その頃、王都の外れ、ベルクレスト男爵邸の地下祭壇では、ダミアンが、一人の人物と対面していた。
その人物は、フードを深く被り、決してその顔を誰にも見せようとはしなかった。
ダミアンは、その正体不明の人物に対し、深く頭を垂れている。
その人物は、ただ一言だけ、静かに命じた。
「儀式は満月の日に」
その声には、抑揚がほとんどなかった。
けれど、その言葉に込められた圧倒的な意志の力は、地下祭壇の空気そのものを、重く支配していた。
ダミアンは、深く頭を下げたまま、震える声で応じる。
「はっ……承知いたしました」
その様子には、これまでの成功した商人としての余裕は、微塵も感じられなかった。
むしろ、絶対的な存在を前にした、恐れにも似た服従だけが、そこにあった。
満月の儀式。
その言葉が、いったい何を意味するのか、この時の私達には、まだ知る由もなかった。
けれど、確実に、王国を揺るがす大きな出来事が、その日に向けて動き出そうとしている。
その予感だけは、誰の胸にも、はっきりと刻まれていた。
私は、クラリーチェが見つけ出した古文書の一文を、何度も見つめ直した。
『器が現れた』
この言葉が指す「器」とは、おそらくミレイユのことなのだろう。
彼女もまた、何百年も続く古い呪いの、単なる依代に過ぎないのかもしれない。
そう考えると、彼女に対する恐怖とはまた別の、複雑な感情が、私の胸の中に静かに広がっていった。
けれど、その感傷に浸っている時間さえ、私達にはもう残されていないのかもしれない。
満月の日まで、いったいどれほどの猶予があるのか。
私達は、その日付を突き止めるべく、すぐさま行動を起こさなければならなかった。
そして――次にあの赤い瞳と相対するときこそ、決して屈しないと。
もう二度と、羞恥にまみれて失禁するような惨めな敗北は繰り返さないと。
四人で固め合ったその決意だけが、この夜の闇の中で、小さな、しかし確かな灯火となっていた。
王国全体を覆う闇が、その最後の局面に向けて、着実に動き出している。
その確信だけが、この夜、私達の胸に、重く、そして冷たく刻み込まれていた。




