第十三章 血染めの夜会
王宮では、建国記念夜会が開かれることになった。
王国にとって最も由緒ある行事の一つであり、国内すべての有力貴族が一堂に会する、特別な夜だった。
私にも、招待状が届いた。
差出人を確かめると、それは王妃マルグリット様からの、強い希望によるものだと記されていた。
「本当に参加してよろしいのでしょうか」
私は、母に相談した。
婚約破棄という形で公の場から退いた身でありながら、再び王宮の夜会に姿を現すことに、少なからず躊躇いがあったからだ。
それに――あの日以来、私の名は、決して華やかな噂だけで語られてはいなかった。
けれど、母は静かに、けれどはっきりと頷いた。
「王妃様のご意志です。堂々となさい」
その言葉に、私は覚悟を決めた。
夜会当日、王宮の大広間には、王国中から集まった煌びやかな貴族達の姿があった。
けれど、その華やかさとは裏腹に、会場全体には、どこか張り詰めた空気が漂っている。
誰もが表向きは笑顔を絶やさずにいる。
けれど、その奥には、隠しきれない緊張と警戒の色が滲んでいた。
私が大広間へ足を踏み入れた瞬間だった。
周囲の視線が一斉にこちらへ向く。
そして、扇やグラスの陰から、容赦のない囁きが漏れ聞こえてきた。
「あれが……例の公爵令嬢?」
「王太子殿下に婚約を破棄されたあげく、公衆の面前であのような……」
「お漏らしよ。あんな失態を大広間でさらして、よくもまあ、恥ずかしくないのかしら」
「ドレスをびしょびしょに濡らして、床にまで水たまりを作ったそうじゃない。羞恥で泣き崩れていたとか」
「それでもまだ夜会に顔を出せるなんて、厚顔無恥というものね」
その言葉のひとつひとつが、刃のように胸に突き刺さる。
あの日の感触が、鮮やかによみがえった。
熱いものが止まらず溢れ出し、太ももを伝い、床に落ちていく感触。
染み広がっていく染み。
周囲の嘲笑。
ミレイユの冷ややかな視線。
顔から火が出るほど恥ずかしく、膝が震えそうになる。
それでも私は、唇を噛みしめ、背筋を伸ばした。
ここで逃げ出せば、本当に負けてしまう。
「アイリス」
小さな声がして、ノエルが近づいてきた。
続いてクラリーチェと、そして――少し顔色の悪いエルザも、私たちの輪に加わった。
四人揃った瞬間、周囲の囁きは、さらに露骨なものへと変わった。
「あら、四人ともいるわ」
「あのミレイユ様に逆らって、揃いも揃って恥ずかしい目に遭った面々ね」
「みんな、あの赤い瞳に睨まれてお漏らししたんでしょう? 哀れだこと」
「夜も毎晩おねしょが止まらないって噂よ。貴族の令嬢が、もう子供以下じゃない」
「よくもまあ、四人揃ってこんな場所に立てるわよね。羞恥心というのは持ち合わせがないのかしら」
扇の陰で笑い声が上がる。
視線は、好奇と軽蔑と、薄汚い愉悦に満ちていた。
ノエルの肩が、小さく強張る。
クラリーチェは眼鏡の奥で目を伏せ、エルザに至っては、唇を真一文字に結んだまま、拳をきつく握りしめていた。
みんな、顔を真っ赤に染めている。
私自身も、耳まで熱くなっていた。
あの日から続く悪夢と、シーツを汚して目覚める朝の惨めさ。
公の場で制御を失い、尊厳を踏みにじられた記憶。
それが今、こうして四人まとめて、夜会の余興のように馬鹿にされ下世話な噂のタネにされている。
胸の奥が、熱く疼いた。
恥ずかしい。
死ぬほど、恥ずかしい。
それでも――。
「……気にしないで」
私は、できるだけ穏やかな声で三人に言った。
「彼女たちの望む通りに、ここで縮こまってみせる必要なんてないわ」
ノエルが、潤んだ瞳でこちらを見る。
クラリーチェが、小さく息を吸って頷いた。
エルザは、震える声で呟いた。
「……はい。私たちは、まだ負けてなんていませんから」
四人で視線を交わす。
羞恥で顔は赤い。
足の奥には、今でも残る恐怖の残滓が、時折熱を帯びて疼く。
それでも、私たちは互いに小さく頷き合った。
この羞恥を、燃料にする。
踏みにじられた尊厳を、取り戻すための力に変える。
そう決意した。
「もう、誰も殿下を信じていません」
ノエルが、周囲の囁きを振り切るように、小さな声で私に囁いた。
「それでも、誰も逆らえずにいるのです」
その言葉通りだった。
殿下の理不尽な采配や、老伯爵が投獄された末に不審死を遂げたという噂は、すでに貴族達の間に広く知れ渡っている。
けれど、それを公然と非難する者は、もはや誰もいなかった。
逆らえば、自分もまた同じ運命を辿るかもしれない。
そんな恐怖が、会場全体を静かに支配していた。
やがて、殿下とミレイユが姿を現した。
二人が並んで大広間に足を踏み入れた瞬間、あれほど賑やかだった会場が、水を打ったように静まり返った。
誰も彼女の姿を、まともに見ようとはしない。
私自身も、決して目を合わせないよう、細心の注意を払っていた。
けれど、ノエルが、小声で私に耳打ちした。
「あれを見て」
その視線の先を追うと、ミレイユの周囲には、いつの間にか、これまで見たこともない顔ぶれの貴族達が集まっていた。
新興の家門ばかりで構成された、その集団は、まるで一つの派閥を形成しているかのようだった。
王太子派という新たな勢力が、着実に、しかし急速に力を拡大しつつある。
その事実を目の当たりにし、私の背筋に冷たいものが走った。
「以前こういうことがあったの」
ノエルが、さらに声を潜めて話してくれた。
一人の老伯爵が、覚悟を決めて殿下の前へと進み出たという。
長年、王家に仕えてきたという、白髪の紳士だった。
「殿下、それは国を危うくします」
軍の指揮権に関する、新たな采配についての苦言だった。
その言葉には、若輩者への阿りなど微塵もない、忠臣としての矜持が滲んでいた。
けれど、殿下の反応は、あまりにも冷酷だった。
殿下は、その場で激しい怒りを露わにした。
そして、周囲に控えていた衛兵達へ、こう命じたのだ。
「不敬罪で拘束しろ」
その一言に、会場は完全に凍りついた。
これまでの殿下ならば、たとえ耳の痛い進言であっても、決してこのような処断を下すことはなかった。
むしろ、忌憚のない意見を口にできる臣下を、大切にする方だった。
その面影は、もはやどこにも見当たらない。
老伯爵は、衛兵達に両脇を抱えられながらも、最後まで毅然とした態度を崩さなかった。
けれど、その瞳には、深い絶望の色が浮かんでいたのだ。
その夜のうちに、老伯爵は牢の中で息を引き取ったという知らせが届いた。
表向きは、心臓発作による急死とされた。
けれど、遺体を検分した者の話によれば、その顔は、何か言い知れぬものに怯えきったまま、固く強張っていたという。
その話を聞いた瞬間、私の全身に、鳥肌が立った。
「あれは、心臓発作などではありません」
私の隣のクラリーチェが、険しい表情でそう断言した。
「魔眼による恐怖が、老伯爵様の心臓を、直接止めたのだと思われます」
その言葉に、私は言葉を失った。
これまで、あの瞳は人々の身体の自由を奪い、精神を蝕んできた。
私たち四人を、公衆の面前で失禁させ、夜ごと悪夢とおねしょで尊厳を削り取ってきた。
けれど、今や、命そのものを直接奪う力にまで、その脅威は達しているということだった。
夜会という華やかな舞台の裏で、確実に、そして急速に、王国の均衡は崩れ始めていた。
新興貴族達による派閥の形成。
逆らう者への容赦のない粛清。
それらすべてが、ミレイユという少女を中心に、静かに、けれど着実に進行している。
会場のどこからか、再び私たちのことを指差すような視線と、低い笑い声が届く。
「あの四人組、まだ懲りずにいるわね」
「次はどんな恥ずかしいところを見せてくれるのかしら」
胸が痛む。
羞恥で、内臓が縮み上がるようだった。
それでも、私は四人の真ん中で、ゆっくりと息を吸った。
そして窓の外に広がる王都の夜景を見つめながら、深く息を吐く。
このままでは、遠くない未来に、王国そのものが、完全にその手に落ちてしまうだろう。
残された時間は、決して多くないという焦りだけが、私の胸の中で、日に日に大きくなっていった。
それでも、諦めるわけにはいかない。
父が見せてくれたわずかな抵抗の光を、そしてこの胸に眠っているかもしれない聖女の力を、私は信じ続けるしかなかった。
父が見せてくれたわずかな抵抗の光を。
この胸に眠っているかもしれない聖女の力を。
そして――今、隣にいる、同じ羞恥を背負いながらも、ここに立っている三人を。
私は信じ続けるしかなかった。
どれだけ噂され、笑われ、辱められようと。
私たちは、ここで終わらない。
私は、ノエルとクラリーチェとエルザの目を順に見て、静かに、しかしはっきりと頷いた。
四人とも、顔はまだ赤い。
けれど、その瞳には、もう逃げないという同じ色が宿っていた。
私たちの戦いはまだ始まったばかりだった。




