第十二章 王命
修道院から王都へと戻った私を待っていたのは、父の様子がどこかおかしいという、屋敷の使用人からの知らせだった。
胸騒ぎを覚えながら屋敷へ戻ると、父はちょうど、王宮からの帰りだったところだという。
書斎に籠もったまま、なかなか出てこようとしない父の姿に、私は嫌な予感を拭えなかった。
父がその日、王宮へ召喚された経緯を、私は後になって知ることになる。
王宮に到着した父を待っていたのは、殿下自らの言葉だった。
「公爵。軍の指揮権を一部、新設される近衛軍へ移してもらう」
殿下は、これまでにない冷たい声音で、そう命じた。
父は、その言葉に強い違和感を覚えたという。
軍の指揮権とは、王国の防衛そのものに直結する、極めて重大な権限だ。
それを唐突に、しかも一存で移すという命令は、これまでの殿下からは考えられないものだった。
さらに問題だったのは、その新設される近衛軍の司令官に据えられる人物だった。
父が調べたところによれば、その人物は、ベルクレスト男爵家と深い繋がりを持つ、新興の貴族だという。
父は、即座に反対の意を示した。
「それでは国境防衛が崩れます」
長年、王国軍を率いてきた父の言葉には、確かな重みがあった。
けれど、殿下はその進言に、まったく耳を貸そうとはしなかった。
その場には、ミレイユも同席していたという。
彼女は、何を言うでもなく、ただ静かに、父の様子を見つめているだけだった。
その視線が、父へと向けられた瞬間、父は一瞬だけ、彼女と目が合ってしまったそうだ。
「胸が、締め付けられるようだった」
後に、父はそう私に語った。
呼吸が浅くなり、視界の端が歪んでいくような感覚。
これまで幾多の戦場をくぐり抜けてきた父でさえ、味わったことのない異様な圧迫感だったという。
けれど、父はそこで踏みとどまった。
歯を食いしばり、意志の力だけで視線を逸らしたのだ。
「……っ!」
父が発したその小さな呻き声に、その場にいた全員が驚いたという。
魔眼の力に、完全にではないにせよ、耐えてみせた者は、これが初めてだった。
その瞬間、ミレイユの表情に、初めてわずかな揺らぎが生じたそうだ。
これまで、常に完璧な微笑みを崩さなかった彼女が、ほんの一瞬、その笑みを止めた。
「……なるほど」
小さく、そう呟いたという。
その声には、何かを見定めるような、冷たい響きが込められていたと、父は振り返る。
――本物の武人と、ただの貴族令嬢とでは、胆力が違いすぎる。
ミレイユは内心、そう感じていた。
これまで彼女の瞳に捉えられた令嬢たちは、例外なく崩れ落ち、羞恥にまみれて失禁し、尊厳を砕かれてきた。
アイリスも、ノエルも、クラリーチェも、エルザも。
瞳を合わせただけで、恐怖に支配され、下半身の制御を失い、床を汚し、泣きながら謝罪するしかなかった。
それなのに、この男は違う。
魔眼の圧力をまともに受けながらも、ただの意志の力だけで視線を逸らし、完全な屈服を拒んだ。
「……面白い。本物の武人は、やはり令嬢などとは格が違うようね」
ミレイユは心の中で、冷たくそう呟いた。
帰宅した父は、屋敷に着くなり、全身から冷や汗を流しながら、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
私が駆けつけたのは、ちょうどその直後のことだった。
「お父様!」
私は慌てて父の背中を支えた。
父は青ざめた顔のまま、荒い息を整えながら、私にだけ、こう告げた。
「目を合わせるな」
それだけを、絞り出すように言う。
私は、父のその言葉に、これまで感じてきた恐怖とはまた違う、深い戦慄を覚えた。
戦場で幾度も死線を潜り抜けてきた、王国最強と謳われる父でさえ、あの瞳の力には、完全に抗うことができなかったのだ。
それでも――。
私は、父の肩に触れたまま、胸の奥で静かに、しかし強く思った。
私たち――私とノエルとクラリーチェとエルザは、ミレイユのあの赤い瞳にただ見つめられただけで、なすすべもなく失禁してしまった。
公衆の面前で、熱い尿が止まらず溢れ出し、ドレスを汚し、床に水たまりを作り、羞恥で顔を上げることすらできなかった。
夜になれば悪夢にうなされ、シーツをぐっしょりと濡らして目を覚まし、自分の惨めさに泣き崩れる日々を送っている。
それなのに、お父様は違った。
あの圧倒的な恐怖の圧力を受けながらも、胆力だけで目を逸らし、踏みとどまった。
完全にではないにせよ、魔眼に屈しなかった。
その事実が、私の心にどれほど大きな衝撃を与えたか。
そして、どれほど深い尊敬の念を抱かせたか。
……お父様は、本物だ。
私は心の中で、強く、強くそう思った。
私たちが情けなく漏れ出してしまったあの力に、お父様は意志だけで抗ってみせたのだ。
その背中の大きさに、私はただただ、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
そして、わずかとはいえ耐えてみせ失敗をしなかったという事実に、私はかすかな希望を見出さずにはいられなかった。
一方、その頃。
ベルクレスト男爵邸の地下祭壇では、ミレイユが父ダミアンに、静かに報告をしていた。
「公爵は完全には支配できません」
その声には、感情の乱れは一切感じられなかった。
まるで、実験結果を淡々と報告するかのような口調だった。
ダミアンは、その言葉を聞き、しばらく黙り込んだ。
やがて、彼は低い声で、静かにこう答えた。
「……当然か。真の武人が、令嬢のように屈するわけがない」
ダミアンの声には、侮蔑と同時に、ある種の納得が滲んでいた。
これまで魔眼で容易く砕いてきたのは、せいぜい貴族の娘どもだ。
恐怖に耐えきれず、公衆の面前でお漏らしをし、羞恥に沈み、魂を弱らせていく――そんな脆弱な存在ばかりだった。
だが、オスカー公爵は違う。
戦場で鍛え上げられた胆力を持つ男が、令嬢と同じように簡単に崩れるはずがない。
「ならば……殺すしかない」
その一言には、これまでの表向きの成功した商人としての顔は、微塵も残っていなかった。
王国最強の騎士であろうと、目的の障害となるならば、迷わず排除する。
その冷酷な決意だけが、地下祭壇の暗闇に、静かに響き渡っていた。
その夜、私は父の寝室の前で、しばらく立ち尽くしていた。
扉の向こうから聞こえる、父の穏やかな寝息に、少しだけ安堵する。
けれど、心の奥底では、決して消えない不安が渦を巻いていた。
父でさえ、完全には抗えなかったあの力。
それを打ち破るためには、いったい何が必要なのだろうか。
修道院で聞いた、聖女の加護という言葉が、再び私の脳裏をよぎる。
まだ、その力をどう扱えばいいのか、私にはまったくわからない。
けれど、父が見せてくれたわずかな抵抗の証が、私の胸に、確かな勇気の種を植え付けていた。
私たちがミレイユの瞳になすすべなく失禁し、尊厳を奪われ続けている中で、お父様だけは胆力で耐え抜いた。
その事実が、私に「まだ負けていない」と、静かに語りかけてくる。
窓の外には、静かに夜が更けていく。
王国を覆う闇は、日に日にその厚みを増しているように感じられた。
けれど、その闇の中にも、確かに希望の光は存在している。
父の姿が、そのことを、何よりも雄弁に物語っていた。
私は、その光を信じて、前へ進み続けるしかなかった。




