第十一章 封印の聖堂
修道院近くの宿屋に宿泊した翌朝。
薄いカーテン越しに差し込む朝の光の中で、私は熱く湿った感触に気づいて目を覚ました。
「……っ」
まただった。
股の間がびしょびしょに濡れ、寝間着の裾が重く肌に張り付き、シーツにじわりと大きな染みが広がっている。
温かかった液体はすでに冷たくなり始め、太ももを伝う不快な感触と、かすかな匂いが鼻をつく。
悪夢――赤い瞳と、公衆の面前で熱いものが止まらず溢れ出す記憶にうなされて、またおねしょをしてしまったのだ。
隣のベッドからも、同時に小さな悲鳴のような声が上がった。
「やだ……また……」
「わたくしも……ぐっしょりと……」
「恥ずかしい……朝からこんな……っ」
ノエルも、クラリーチェも、エルザも、同じだった。
四人とも、昨夜の緊張と、魔王の眼という途方もない真実の余韻で悪夢に苛まれ、シーツを大きく汚してしまっていた。
特にエルザは、染みが広く、寝間着の裾まで完全にびしょびしょで、顔を真っ赤にしながら体を丸めている。
些細なショックでもちびてしまうようになった彼女は、昨夜も何度も震え、朝にはまた大きく漏らしてしまっていたらしい。
羞恥が、四人の間に重く沈殿する。
公爵令嬢、侯爵令嬢、伯爵令嬢、子爵令嬢が、揃いも揃って宿屋のベッドでおしっこを漏らしてしまう。
顔を合わせるだけで耳まで熱くなり、視線を逸らし、濡れたシーツの感触に身を縮こまらせる。
「……負けない」
私は、震える声で、それでもはっきりと言った。
濡れた寝間着のまま、ゆっくりと上体を起こす。
冷たく湿った布が肌にまとわりつき、羞恥がさらに深く抉る。
それでも、背筋を伸ばした。
「ミレイユは、こうやって私たちを羞恥で壊そうとしている。夜ごとにおねしょをさせて、プライドを砕いて、動けなくさせようとしている。……でも、負けない。この惨めさも、全部引き連れて、前に進む」
ノエルが、濡れたシーツを握りしめながら、強く頷いた。
クラリーチェも、耳を真っ赤にしつつ
「わたくしの理論も、この羞恥には勝てませんでした。けれど……意志で勝つ」
と小さく答える。
エルザは涙を浮かべながらも、震える手で自分の染みを隠すようにし、
「わたくしも……毎日漏らしてしまう体でも、覚悟は決めています。負けません」
と、声を振り絞った。
四人で顔を見合わせ、濡れたままの手を重ねる。
羞恥で顔を真っ赤にしながらも、その手の温もりが、確かな決意を伝えていた。
着替え、シーツを替え、朝の光の中で私たちは改めて誓った。
おねしょの惨めさになど、負けない。
そしてその決意を胸に、老司祭の案内で、私達は修道院の地下深くへと足を踏み入れた。
石段は長く、冷たい空気が肌を刺すように感じられる。
松明の灯りだけを頼りに進むその先に、「封印の聖堂」と呼ばれる空間があった。
聖堂の壁には、歴代の聖女達の肖像画が、ずらりと並んでいた。
どの肖像画も、穏やかで、けれど強い意志を宿した瞳でこちらを見つめている。
その奥には、王国建国以前の歴史が刻まれた石碑が、静かに佇んでいた。
老司祭は、石碑の前で足を止め、静かに語り始めた。
「王国は剣だけで建った国ではありません」
その声は、これまでよりも一段と厳かだった。
「『聖女』と『王』が共に魔を封じたことで、この国は始まったのです」
私達は、その言葉に耳を傾けながら、石碑に刻まれた古い文字を見つめた。
そこには、こう記されていた。
聖女は「浄化の瞳」を持つ。
魔眼一族は「呪いの瞳」を持つ。
両者は対となる存在である。
その一文を読んだ瞬間、私の胸の奥が、静かにざわめいた。
先ほど老司祭が語っていた「対となる存在」とは、この聖女の力を指していたのだ。
老司祭は、石碑から視線を外すと、まっすぐに私を見つめた。
「あなたは幼い頃から、不思議なことはありませんでしたか」
その問いに、私は思わず言葉に詰まった。
忘れていたはずの、いくつかの記憶が、静かに蘇ってくる。
幼い頃、長く病に伏せっていた侍女の手を握った時のことだ。
熱に浮かされ、苦しそうにしていたその手を、ただ祈るような気持ちで握り続けた。
すると、翌朝には、まるで嘘のように熱が下がっていた。
あの時は、単なる偶然だと思っていた。
もう一つ。
父の所有する暴れ馬に、幼い私が近づいた時のことも思い出す。
気性の荒いその馬は、誰が近づいても激しく暴れるのが常だった。
けれど、なぜか私の前だけでは、まるで別の生き物のように、大人しくなった。
これも、これまでは特に気に留めることのなかった、幼い日の記憶の一つに過ぎなかった。
誰にも話したことのない、ささやかな出来事の数々。
けれど、それらを思い出すたび、私の胸の奥で、何かが確かに反応していた。
私は、震える声で、それらの記憶を老司祭に語った。
話を聞き終えた老司祭は、深く頷いた。
「あなたには聖女の加護が宿っています」
はっきりと、そう断言した。
その言葉に、私は驚きのあまり、しばらく言葉を発することができなかった。
聖女の加護。
それは、王家に伝わる伝承の中でも、最も神聖なものとして語り継がれてきた力だった。
胸の奥が、熱く高鳴る。
もしこの力が本当に目覚めたなら――
ミレイユの赤い瞳を、止められるかもしれない。
あの呪いの魔眼に抗い、これ以上誰かを公衆の面前で漏らさせ、尊厳を奪わせないようにできるかもしれない。
そして……。
私は、隣に立つ三人を見た。
ノエルも、クラリーチェも、エルザも。
朝、揃っておねしょをしてしまい、今もなお羞恥を引きずっている三人。
特にエルザは、些細なことでちびり、時には完全に漏らし、夜ごとほぼ毎日シーツを汚してしまう後遺症に苦しんでいる。
もし聖女の「浄化の瞳」が本当に宿っているのなら、この力でみんなの後遺症を、完治させられるかもしれない。
悪夢によるおねしょも、些細なショックでの失禁も、魂に刻まれた羞恥の呪いも、浄化できるかもしれない。
その思いが、恥ずかしさと恐怖で沈んでいた心に、はっきりとした光を灯した。
「しかし」
老司祭は、続けて静かに言った。
「その力は、まだ眠ったままです」
その言葉に、私の胸に、複雑な思いが去来した。
確かに何かが宿っているのかもしれない。
けれど、それを自在に扱う術など、私は何一つ知らない。
これまで、あの赤い瞳の前で、恐怖にただ膝を折り、熱いものを溢れさせ、羞恥にまみれることしかできなかった自分を思い返すと、とても信じがたい話に思えた。
それでも――
「どうすれば、その力を目覚めさせることができるのですか」
私は、藁にもすがる思いで尋ねた。
ミレイユを止めるために。
みんなの後遺症を治すために。
もう二度と、誰にもあんな惨めな思いをさせないために。
けれど、老司祭は静かに首を振った。
「それは、私にもわかりません。聖女の力は、その者自身の強い意志によって初めて目覚めるものと伝えられています」
明確な答えは、得られなかった。
けれど、少なくとも、私という存在に、何らかの可能性が残されていることだけは、確かなようだった。
羞恥にまみれた朝を越えて、今ここに立っているこの意志が、きっと鍵になる。
ノエルが、私の手をそっと握ってくれた。
朝、濡れた手で重ねたあの感触を思い出しながら。
「アイリス様なら、きっと。聖女の力で、ミレイユを止めて……私たちのこの体も、治してくれる」
クラリーチェも、エルザも、強く頷いた。
エルザは特に、目に涙を浮かべながら「お願い……この、漏れやすい体を……」と小さく囁く。
その言葉に、私は小さく頷いた。
まだ、何をどうすればいいのかは、まったくわからない。
けれど、絶望だけしかなかったこれまでの日々に、初めて一筋の光が差し込んだような気がした。
この力があれば、ミレイユを止められるかもしれない。
みんなの後遺症によるおねしょも、完治できるかもしれない。
その希望を、絶対に手放さない。
同じ頃、遠く離れた王都では、ミレイユが静かに殿下の耳元へ囁いていた。
「次は軍です」
その声には、これまでと変わらぬ穏やかさが滲んでいた。
けれど、その言葉が意味するところは、決して穏やかなものではなかった。
王国の武力を司る軍そのものへ、その魔の手を伸ばそうとしている。
殿下は、ただ静かに頷くだけだった。
その瞳には、もはや以前の理性の光は、ほとんど残されていなかった。
修道院からの帰路、私達はまだ、その不穏な動きを知る由もなかった。
けれど、王都へと戻る道すがら、王国軍総司令官である私の父――オスカー・フォン・ローゼンフェルトのもとへ、王太子からの召喚状が届けられていた。
その知らせが、次にどのような事態を招くことになるのか。
この時の私達には、まだ何も予想できなかった。
夕暮れの中、修道院を後にする私達の足取りは、行きよりも、幾分か軽くなっていた。
朝、四人揃ってシーツを汚し、羞恥に震えながらも「負けない」と誓い合ったこと。
そして聖女の加護という、確かな希望の芽を見出したことが、私達の心に、小さくとも確かな光を灯していたからだ。
この力で、ミレイユを止める。
みんなの後遺症を、完治させる。
その決意を胸に、私は前を向いた。
けれど、王都では、新たな危機が、静かに、しかし着実に、その姿を現し始めていた。




