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身を包んでいた風が広がって散り、足下の魔法陣も風とともに消える。
少女は伏せていた瞳をそっと持ち上げた。目に映るのは、広い地面にぽつんと立つ小屋。それと重ねるのはいつの日の記憶だろうか。少女は分厚い羽織の端を握りしめながら、一歩後ずさった。
傭兵は雲のかぶさりの隙間から赤みが差し始めた東の空を見やる。そして、少女と同じ場所に視線を向けた。
「君はあの小屋がどこに繋がっているのか、知っているな」
少女が傭兵を見上げる。傭兵はそのまま続ける。
「まずは謝る。小屋に勝手に入った。きっと君にとって大切な場所だっただろう」
懐から指輪を取り出して、少女の前に差し出す。
「これに見覚えはあるか」
少女は指輪を見た途端、分かりやすく目を見開いた。傭兵の手からそれを受け取ると、じっと動かずにそれを見つめた。やがて、絞り出すように、ゆっくりと口を動かす。
「これ、お母さん、の」
短い亜麻色の髪が前に下がって顔を隠す。指輪を握って白んだ両手がすべてだった。
「部屋の奥に落ちていた。持ち主は――」
傭兵は途中で口をつぐんだ。少女がぎこちない足取りで歩き始め、すぐに駆けだしたからだ。小屋の前まで行くとせわしなく取っ手をつかんで扉を開けた。止める間などなかった。
少女の両腕が力なくぶら下がる。指輪が地面にはねて転がった。
そこには広い部屋などない。何もない殺風景な、小屋にふさわしい広さの暗がりがそこにあるだけ。
「もうあの部屋には通じていない」
少女に近づいて、小さな震える背中に語る。少女は振り向かずに肩をこわばらせる。
「どうして」
「私が閉ざした」
「……なんで」
声音が落ちる。傭兵は黙ったまま答えなかった。
少女はしばらく闇を見つめていた。そこに手を伸ばす。空を切る小さな手のひらは何もつかめず、行き場をなくして下ろされた。
「ようへいさん」
その瞳は傭兵を見ているようで、別の何かを見るように虚ろだった。口をつぐんだまま、その視線を受け止める。
「村にも、行けないよね」
傭兵は即座に言葉を返せなかった。自分の吐いた白い息が震えているように見えた。
「やめておいた方がいい」
喉が張り付く。傭兵が放った言葉は、少女の憶測を肯定するのには十分すぎた。
少女の口が動きかけたのを確認してなお、言葉を続ける。
「私に依頼をした君の兄は、村にいた」
少女の瞳にさらに深い闇が滲む。開きかけた口が震えながら閉じられた。
「もう、君は……」
言いかけて、傭兵は瞳を閉じた。これ以上の確認など必要ない。
ゆっくりとまぶたを持ち上げる。少女の顔を見ないように、視線をずらしながら。
視界の端の亜麻色の髪がうつむく。そこからうわごとのように短く声が漏れる。そうして体が地面に崩れていった少女を、やっと、見下ろした。少女は喉を絞めた声で、ぽつぽつと声を降らす。
「なんで、お兄ちゃん、たすけて、くれなかったの」
「君が優先だった」
抑揚のない声。少女は包帯の巻かれた右腕で、自身の体を強く握る。
「なんで、わたし、なんか」
小さく吐き出された声が地面に落ちる。やがて、少女は時間をかけて傭兵を見つめた。
「ようへいさん、わたし」
口元は笑むように、しかし眉間にはしわが寄り、少女の顔はゆがんだ。
「生きていたくない」
傭兵は目線をそらさなかった。周りの音が消え、嫌に鮮明に聞こえる少女の言葉をただ受け入れる。
「一人はさみしいから、だから」
「それは、君の本心か」
少女の言葉を遮る。黒い瞳は無感情に少女を見据えた。ただ静かに、少女の心にも波を立たせないように。
少女はすぐに言葉を返そうとしたが、何がせき止めたのか、言葉が発されることはなかった。傭兵は少し待ってから言葉を続けた。
「もしそうだと言うなら、私に依頼をしたいと受け取るが」
傭兵の声は一寸も変わらない。少女は一瞬だけ瞳を泳がせた後、ぎこちなくうなずいた。
「では、対価は」
「たい、か……?」
「君の依頼をこなした後、私が得られるもののことだ」
「お金、ってこと?」
戸惑い交じりの声音に、傭兵はまばたきを一つして肯定する。
「簡単なものはそうだ。金でなくてもいい。何か価値のあるものであれば」
「……そんなの、ない」
「なら、依頼としては受けられない」
少女の鋭い視線を静かに受け止め続ける。
「ようへいさんなら、わたしなんてかんたんに殺せるよね」
「そうだな」
「なら、おねがいします」
下げられた頭を見下ろす。
「”お願い”では、受けないことにしている」
傭兵の返答に、少女は歯を食いしばる。
「どうせここで、死ぬはずだったのに」
「あの青年に依頼をされなければ、そうだっただろうな」
「……なら、かわんない」
少女の息づかいが早まる。
「ここでようへいさんに殺されたって、いっしょだよ!」
荒げる声は掠れ、痛々しい残響が耳に残る。少女はこれ以上何も言わず、服ごと爪を立てて自分に痛みを与え続けていた。
音が溶けて、森に静けさが戻る。それを破ったのは、抑揚のない声。
「結末は、違う」
傭兵は地面に片膝をつき、できるだけ少女と目の高さを合わせた。
「君は今、生きている」
少女の青緑色の瞳が丸く開かれる。それもすぐにまばたきとともに伏せられる。
「お母さんやお兄ちゃんは村を守ろうとした。……わたしは守られただけ。なにもできなかった」
「それだけで、命を捨てる理由になるのか」
少女の声が、こらえきれない何かを必死に押さえ込んで震え出す。
「二人の命の方が大事だった。私の命なんかよりずっと!」
「君は、その二人が守った命に価値はない。そう言いたいのか」
「……そ、それは」
消えゆく少女の声を、木の葉の擦れる音が上書く。
傭兵は瞳を閉じる。
「君の言いたいことが分からない訳じゃない」
吐く息とともに、静かにつぶやいた。
「もう一度訊く。それは、君の本心か」
少女は答えなかった。傭兵は、少女の体を痛め続ける手に触れる。
「君の思いがどうであれ、この結末を、私が覆す意味はない。だから」
ほんの少しびくついてゆるんだその手を取り、足下に転がっていた形見を乗せる。
「ソルナ」
淡い風が吹く。そっと揺れる灰色の髪は銀糸と見紛うほど煌めき、空の赤を反射する。
「その依頼は受けない」
持ち上がった少女の瞳をまっすぐ見据える。その瞳は光を湛え、黒の奥に深い紫が差す。
「私は君を殺さない」
少女はじわりと潤みだした瞳で、傭兵の手に支えられた自分の手の中にある指輪を見る。無言の時間の中、少女の頭を巡る葛藤が表情にも表れる。
傭兵は、ただ待った。そうして開かれた少女の口から、絞り出される声に耳を澄ませる。
「わたし、生きて……」
喉を鳴らしてつばを飲み込む。
「生きて、何をしたら、いいのかな」
少女の落ち着かない鼓動と繋がる息づかい。吐かれた息で白く濁る景色。
傭兵は、少女の震える小さな柔い手をそっと握った。
「生きて、君自身で決めたらいい」
かすかに目を細める。少女はつられてか、傭兵にそっと笑いかける。指輪を優しく握りながら。
そうして、喉の奥で耐えられなくなった声を漏らした。堰を切ったように、止めどなくあふれ出したものを必死に袖で拭うが、間に合わず服にしみをつくる。少女は小さな震える体一つで抱えきれなくなった感情を、傭兵に抱きついてぶつけた。傭兵は突き放さずに、されるがままにした。
目を覚ましてから今まで、どれだけの言葉を飲み込んできたのかは分からない。やけに大人びていた少女が声を上げて泣ける子どもらしさがあることに、傭兵は少し安堵もした。今はどれだけでも泣けばいい。そう思った。
傭兵は少女の背中に伸ばしかけた手を見つめ続け、やがて固く握って下ろした。自分にこの少女を慰める資格はない。
少女の荒い呼吸とは別に、遠雷の音が耳に入る。空に染まる赤、それを映す髪が風にあおられる。揺らめきがあの日の夜の景色と重なる。傭兵はただ、じっとそれを睨みつけることしかできなかった。
酒場の窓から覗く空は灰色で塗りつぶされた。湿気を含む風が吹き荒れ、木々を強く揺らす。
傭兵は服にしまい込んだままだった、折られた半透明の紙を取り出した。あの夜の淡い光はなく、蝋を引いた紙のように滑らかなそれを、指の腹で触る。紙の端に指先を差し込んで開こうとしたが、やめた。この依頼書が消えず残ったことは紛れもない事実だ。見たところで、あの日と同じ一文があるだけ。
目を伏せる。脳裏に焼き付いた景色が浮かび上がる。早まりそうな心拍を押さえ込むように、胸に手を当てた。これが最良だった。そう言い聞かせる。
空気を震わせながら低く唸る雷鳴が、意識を現実に引き戻す。
傭兵は窓の外を見つめる。風に煽られる硝子細工のような透明な花を、雨粒によってはねた泥が汚す。そして、ふと視線を動かした先――窓に反射して映る自分の顔を見返し、木戸を閉めた。




