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酒場から魔法で転移した先は、村が視認できる茂みの中。小屋までの道のりは目印頼りだったが、魔獣を始末してしまった以上は魔法痕も消えている。村から手探りでたどっていくしか方法がなかった。傭兵は音を立てないように息を殺し、周囲を確認する。エヴァーツの情報からすれば村に兵がいてもおかしくはないと考えていたが、虫や鳥の鳴く音すらしない森はあまりにも静かだった。
傭兵は茂みから出て、被りも取り去った。どれだけ身を隠すのが得意な人間や生き物だとしても、細い糸程度の気配は感じるものだ。肌に触れる空気が”何もない”と言うなら、傭兵自身が身を隠す必要もない。
村には立ち寄らず横目に捉えながら、あの日通った道に入って進んだ。しばらく歩いて、丁字路にさしかかった。正面にたたずんでいた大木は傭兵の首の辺りで切り落とされていた。その先に続く木々も同じように切り落とされ、見通しがよくなっている。
開けたその場所に魔獣の死体はない。地面に刺さったままの大斧と散らばる装飾品だけが、あの日のことが現実だと語る材料だった。
傭兵は小屋の前に立った。物置のような風体で、とても人が住めるような造りではない。隙間風が通りそうな扉の取っ手をつかむと、魔力が渦を巻くように扉全体を循環しているのを感じる。その流れに逆らおうとせず、かすかに魔力を流し仕込みながら取っ手を押し下げた。
目の前にあるのは、外観の大きさの数倍はある部屋だった。人がいた形跡があるが、中はかき乱され、刃の傷が床や壁にいくつもついていた。だがそれよりも目につくものがあった。
壁にぽっかりと口を開けた穴。大人一人が問題なく通れる幅で、先は遠く見えない。傭兵は足下に転がる割れた角灯を拾い上げた。中の油は底の方に少し残っている。
角灯の中の芯に火をともすと、辺りをほんのりと橙色に染める。傭兵は穴の中に入った。壁に手を添えながら進んでしばらく、金属製の扉が立ち塞がった。取っ手がついているが、押しても引いても動かなかった。そうこうしているうちに、かろうじて揺れて耐えていた明かりは潰えた。
傭兵は角灯を地面に置いて、腰の剣を抜く。柄を両手で持ち、斜めに振り下ろす。すっと切れ目が入った後、その隙間から光が漏れ出し、分厚い金属板が倒れた。
足を踏み入れた途端、靴に液体がはねる。部屋に充満した鼻を差す臭いに思わず息を止める。部屋の中心にある机に、ぽつんと置かれた別の明かりが、その部屋の様子を照らし出す。
見渡す必要もない。この部屋にいたのはたった一人。否――傭兵の目の前に転がっているのは、人だったものだ。
どこを踏んでも水音のする床を踏みしめて、その顔を見下ろす。苦難の表情を浮かべた傷のない顔が、聡明で美しい人だったことを知らせる。記憶にある通り――村の長だ。
傭兵はその場に屈み、血にたゆたう黒髪の横にある腕を持ち上げる。人差し指にはめられた指輪。女性がつけるにしては無骨な金色の指輪で、表面には楕円形の鏡写しの印章が刻まれている。瞳の大きい鳥の印章。あの封筒のものと同じだ。
指から慎重に外し、指輪についた血を布で綺麗に拭き取ってから懐にしまった。
傭兵は立ち上がり、机の上の明かりを手に取って来た道を戻った。傷だらけの広い部屋に着くと、傭兵は肺にため込んでいた空気を一気に吐き出した。むせかえりそうな瘴気に頭痛がする。部屋の隅に置かれた椅子に座り、灰色の髪をかき上げる。じわりと滲んだ汗を袖で拭った後、背にもたれて部屋を見渡す。
『いやだ、もどりたくない』
少女の声が頭の中を回った。あの子はあれを見たのだろうか。知っているのだろうか。
懐の指輪を服越しに触る。そうだとしたら、これは本当にきっかけで済むのか。
(……いや)
このまま、少女の家族のことや村のことを話さず隠し続けることは不可能だ。長引けば長引くほどもつれて、やがて壊れる。傭兵が見てきた人たちは皆そうだった。黙っていることが、美しい夢を見ることにはならない。
だが、あの少女は受け止められるのか。避けてきた現実を、出会って数日の人間に知らされて、少女は何を選ぶのか。その後は。自分がしたこともいつかは――。
傭兵は頭を振った。覚悟をした上だ。今更何を考えても遅い。
みぞおちの不快感が増して手で押さえる。体にまとわりつく瘴気にめまいがする。傭兵はうなだれてまぶたを下ろした。
「おい、起きろ」
頬が痛む。薄く目を開けると、二つの月が眩しく光を放つ。一度固く目をつむってから再度開けると、それは月ではなく見慣れた瞳だと気づく。
「やっと起きやがった。手間かけさせやがって」
そう言い放ちながら舌打ちをするエヴァーツの顔にはかすかに安堵の表情が浮かぶ。
「……なぜここに」
「お前がなかなか帰ってこないから、なんかあったかと思ってわざわざ探しに来たんだよ!」
煙管を取り出して吸い始めた男を尻目に、傭兵は懐中時計を開く。森に入った時から短針は真反対の位置に移動していた。もうまもなく夜が明ける時間だ。
「すまない」
黙ったまま組んだ腕を叩く指がエヴァーツの感情をはっきりと示す。これ以上何を言っても機嫌は直らないことを知っている傭兵は、無言で立ち上がって部屋の扉へ向かった。背後からの重苦しい圧で、エヴァーツも後ろからついて来ているのは分かった。
エヴァーツが出た後、扉を閉める。扉に左の手のひらをぴったりつけると、深い青色の魔法陣が浮かび上がった。傭兵は循環に逆らうように魔力を流し始める。と、触れたところから徐々に魔法陣が光の粒に変わっていく。
「消していいのか」
ぶっきらぼうにつぶやく背後の低い声。傭兵は振り向かずに口を開く。
「消した方がいい」
「何があったんだ」
「村長の死体」
エヴァーツの呼吸が一瞬止まった。扉の魔法が解除されたのを確認して、傭兵は振り返った。さっきまでの機嫌の悪さは消えており、切れ長の静かな瞳が傭兵を見下ろすだけになった。
「どおりで死の臭いがすると」
「弔いできなかったが」
「下手に触るよりその方がいい」
傭兵の肩が軽く叩かれる。やけに穏やかな声音に、傭兵は眉をかすかにひそめた。この男がこんな真似をするとは。
「……偽物じゃないよな」
「その腰の小刀寄越せ。今日がお前の命日だ」
「本物か」
傭兵が胸をなで下ろしたのもつかの間、エヴァーツは吸った煙を傭兵の顔に思い切り吹きかける。不意を突かれた傭兵は煙を吸ってしまい咳き込む。落ち着いた頃にはエヴァーツの気配は消えていた。
急に静まりかえった森には似合わない葉煙草の香りも薄れて消える。東の方を見やると、分厚い雲の重なりの輪郭が光によって縁取られ始めている。傭兵は酒場に戻る転移魔法を展開した。
酒場に戻ると、暖炉の明かりだけが傭兵を出迎えた。あの男の気配はない。相当機嫌を損ねてしまったらしい。
傭兵は少女が眠る部屋の扉を慎重に開けた。と、隙間から暖かい光が漏れ出す。
部屋をのぞき見ると、少女は寝台の上に膝を立てて座っていた。エヴァーツが与えたのだろう本を膝上でめくっている途中で、少女はふと顔を上げた。
「ようへいさん?」
「……寝ていなかったのか」
「うん。いつもようへいさんがいてくれたから、それになれちゃったみたいで」
恥ずかしそうに笑んだ少女に、年相応の幼さを見る。傭兵は扉を閉めて、寝台の近くに寄った。すると、少女は本を脇に置き、寝台の端に足を下げて座って傭兵を見上げた。
「もうこのあとは用事ないの?」
少女の問いに、傭兵は首を振る。
「いや」
「そっか。どこで用事なの?」
興味のみの、何気ない問い。傭兵は黒い瞳を少女に向けた。
一呼吸分、その間に雑念を消す。
「君が住んでいた村の森だ」
少女の表情が途端に虚ろに変わる。瞬きが増え、何かを言おうとした口が動き続ける。膝の上に置かれた手が強く握られた。
そのまま何も言えずうなだれてしまった少女を見下ろす。
もう、お互い逃げ道はない。
「……確認したいことがある。一緒に来てくれないか」




