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眩しさをまぶたの裏で感じ、薄目を開けた。明かりの方に顔を動かす。
さっきまでは東側の窓からのぞいていたはずの青白い光は、寝台近くの窓へ移動していた。
椅子から腰を上げ、煌々と光を降り注ぐそれを見上げる。少女をこの部屋へ連れてきた日に欠けていた月が、今日で満ちた。
傭兵は手袋を外し、浅い息づかいで眠る少女の細い首筋に触れる。まだ熱を帯びているが、脈はそこまで速くない。頻繁に強い薬を飲ませるのも、まだ十も迎えていない少女にはかえって酷だ。
首に触れていた手をこけた頬の方に動かす。汗で張り付いた、癖のある亜麻色の髪を指ですき、少女の目元に残った涙の痕を消すようになでる。と、少女のまぶたがかすかに震えた。
数回のまばたきで少しずつ開く薄い青緑色の瞳。薄く、どこを見るともない虚ろな瞳と視線がぶつかったような気がして、傭兵はとっさに頬から手を離そうとした。
「……やだ」
かすれた声。傭兵の動きが止まる。
「おいて、いかないで」
落ちる雫が枕を濡らす。傭兵の服の袖を握りしめて、頬を手に近づける。
「いっしょがいい」
まばたきの度、雫が落ちる度、まぶたが重く沈んでいく。
「ひとり、は、いや」
少女の瞳は完全に閉じられ、再び浅い呼吸が繰り返される。
熱に浮かされた幻夢。それとも記憶か。手のひらを伝う涙の冷たさは、自分に向けられたものではないことだけは確かだ。それなのに。
傭兵は少女を見下ろすことしかできなかった。袖をつかんだままの包帯を巻いた少女の右手を、引き剥がせなかった。
少女の握る手が少し緩んだ頃、傭兵はやっと、頬から手を離した。少女の手が痛まないようにそっと寝台に下ろす。
後ずさり、椅子に座る。椅子の背もたれに身を預けて天井を仰ぎ、灰色の髪が顔の横をかすめた。このまま眠ってもいい。そう思ったが、ふと思い出したように椅子から立ち上がる。数日間も捨て置いたままだった衣嚢をまさぐった。手に固いものがあたると、それを引っ張り上げる。青年から受け取った小袋。今の今まで、頭から抜けていた。
椅子に戻りながら、血で固まった袋口を小刀で裂く。中身は手記と一通の封蝋付きの封筒だった。封蝋には、瞳の大きな鳥をかたどった印章がついている。あの村の屋敷の屋根に揺れていた旗と同じものだった。手記は使い込まれて艶の出た革張りの表紙で、小さいがずっしりとした重さがあった。
傭兵は封筒を机の上に置き、手記の表紙に手をかける。
はじめの頁に記されていたのは、読みやすく整った文字でつづられた一文。
『開く鍵は、指輪か言葉』
傭兵はその下に書かれた四つの文字に視線を滑らせた。上の文とはまた別の言語であった。魔法を扱う者にとっては身近なものだ。
その先をめくったが、何も書かれていないまっさらな頁が続く。指先に感じる魔力が、本来の持ち主にとって特別な手記であることを悟らせる。
傭兵は手記を閉じ、顔の前に持ち上げた。装丁の少ない表紙に向かって口を動かす。
「【解除】」
刹那、手記の回りに色のない光が舞う。空気が一瞬ほどけたように、灰色の短い髪をかすかに揺らした。少し乱れた髪を梳き、再び手記の表紙をめくった。
『日記』
書かれた文字が変わった。頁をめくる。名前、その由来だけが記されていた。次の頁。そこに記された日付。
「……光の女神の日」
手記越しに少女を見た。三年に一度しか訪れない日。この日が少女にとって特別な日であることが記される。
傭兵は手記の続きに目を落とした。見開きを埋める最後の一文を指の腹で撫で、傭兵は手記を閉じた。
机に置いた封筒を手に取り、汚れた袋にすべてしまい直すと、机の引き出しの中にしまって鍵をかけた。魔法陣がなじむように消えていくのを確認した後、少女の方に向き直った。
呼吸は落ち着かないままで、こけた頬が青白く見える。やはり薬を飲ませた方がいいか。少女に背を向けて、隣の部屋へ続く扉を開けた。
「おっと」
傭兵の頭の少し上から低い声が降る。その先――暗がりの中で異様な存在感を放つ、刃のように鈍く光る双眸が傭兵を見下ろした。だが、切れ長の瞳に鋭さはない。
扉の前に立っていたそれは、傭兵に触れ得る直前で両手を挙げて一歩身を引いていた。首元の緩くほどけそうな紫黒のタイは揺れたが、二つの深めのカップに入った湯気の立つ白茶は波立たずに収まっている。
「気配を消すな」
傭兵のぼそっとした抑揚のない声。
「今のはお互い様だと思うぜ、俺ァ」
後ろで無造作に結われた艶のある黒髪が不服そうに揺れる。それきり何も言わずまばたきだけする傭兵に対して、男は深い諦めの塊を吐き捨て、カップを持たない左手の指を三本立てた。
「何の数字か当てたら許してやる」
「あの子が寝ている日数」
「お前がまともに寝てない日数だ殺すぞ」
男はそう言いながら片方のカップを無理矢理傭兵に押しつけると、横をすり抜けて部屋へ押し入る。物音一つ立てず椅子を引き出して座り、少女の方を見る形で振り返りもせず、もともと傭兵が座っていた椅子を指さした。特に逆らう理由もないのでおとなしく従う。男は黙ったままカップに口をつけたので、傭兵も同じようにした。
「で、お前がやっと部屋から出ようとしたってこたァ、なんだ、お前もついに具合が悪くなったか」
「いや、薬を」
「誰の」
「あの子のに決まっているだろう」
男はつまらなさそうに眉毛をハの字に下げた。そして椅子から腰を上げて少女の首に手の甲を当てる。
「……まァ確かに熱は上がってんな」
「薬は」
「少し様子を見たいところだな。手元の分はなくなっちまったから」
お前のは十分あるぜ?と透明な液体の入った小さなガラス瓶を振りながらにやりと笑う。傭兵は頭を振って聞き流す。
「それはそうと、何の用事だ」
「ん? あァ、そうだった」
男は懐をまさぐった。傭兵はほのかに甘いそれをもう一口含んだが、喉の渇きは癒えないどころか、椅子の角度をわざわざ変えてまでこちらを見る銀の双眸を感じ取って悪化する。カップを置き、男の視線を避けて、机に置かれた一枚の薄黄色の紙を凝視する。
それは依頼書。この国を象徴する狐を模した紋章が押されている。そして、そのすぐ下。
男が人差し指でわざと音を立てて指し示す。
「依頼実行日は今日の夜だ。お前が三日前に勝手にやっちまったから誤魔化せるかは運頼みだが、さっき依頼完了報告をした。……それでだ、〈名無し〉」
〈名無し〉。そう呼ばれた傭兵は、眉間に深くしわが寄った男の顔をまっすぐ見据えた。首筋に刃を押し当てられている錯覚に取りつかれる。
「このガキについて、そろそろ説明を願いたいんだが」
「怪我をしていたから、連れてきた」
「もう少しましな冗談は言えねェのか」
手先が冷える。額から汗が伝う。傭兵はつばを飲み込み、再び口を開いた。
「村の……村長の息子からの依頼を断れず、成り行きで少女を助けることになった」
「依頼書は」
「渡せるものはない」
「……お得意の”お人好し”か。まったく」
男がため込んでいた息が吐き出されたのと同時に、銀はまぶたという鞘に収まる。傭兵はあるはずのない新しい傷を確かめるように、思わず首筋を触った。そこにあるのは首のあたりまで覆う薄い服の感触だけだ。
「納得はしないが、まァお前らしいの一言で済ませてやる。だが」
男は懐から煙管を取り出して、葉たばこを火皿に詰めて火をつけた。ふわりと漂うすっとした甘い花の香が部屋を満たし始めるが、不思議と煙たさはない。数回煙管をくゆらせた後、雁首を少女の方へ向けた。
「このガキをお前が匿うっていうのがどういうことか、分かってやったんだよな」
傭兵はすぐに言葉を返さず、依頼書を見つめる。改めて読む必要がないほど単純な依頼文だ。傭兵は依頼書から男の方へ視線を持ち上げた。
「少なくとも怪我が治るまではここにいた方が安全だ。それからは、あの子が決めることだ」
男は白煙の中で目を細めた。
「本当にお前は……」
男はそう言ったきり、煙管を吸うだけで言葉を続けない。
「迷惑をかける」
「たまにはその謝り癖も捨てたもんじゃねェな」
吸い終わった煙管を帯刀するように腰紐に差し、立ち上がる。傭兵の前に移動した男は、左側だけ羽織っている長い袖を払いながら腕を組んだ。
「ところで魔獣の匂いがするんだが」
「私の気配に釣られたやつに出くわした」
「大物だな。それで仕留めたのか」
傭兵がうなずくと、男は頭を掻いて低く唸る。さっきよりも光が強まったように感じる銀の瞳は、傭兵のみぞおちを差していた。
「魔法使ったのか?」
「いや。……あぁ」
傭兵は首を振りかけてやめる。気まずそうに口を閉じ、今まで揺らがなかった顔が引きつる。
「……剣を」
「あ?」
「右の剣を、その」
傭兵は視線を思い切り泳がせた。十分察した男の頬がひくつき、両手で顔を覆った。
「聞かなかったことにしたい」
ただ願望を言っただけの男は、傭兵の腕を上に引っ張って無理矢理立たせる。肩をつかんで扉の方を向かせ、開いたままのそこまで背中を押す。
傭兵はよろめきながら隣の部屋――小さな酒場に放り出された。ついでに、鍵と硝子瓶が数本投げられる。
「ガキは俺が見ておく。まずは寝ろ」
この馬鹿が。と吐き捨ててから扉を閉められる。がちゃ、と鍵をかける音が傭兵の耳にむなしく残った。




