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森の中は外観よりも木々の密度はなかった。上から降り注ぐ月光が揺れる葉の隙間からこぼれ落ちて、地面を照らす。日の光にこそ勝てないが、夜目の利くものにとっては十分なほど明るい。
青年が語った『隠れ家』は森の南の方角。目印は、魔獣の魔法痕。この広い森でたったそれだけの情報。しかし、この傭兵にとってはこれ以上ない目印だった。被りの隙間に入ってくる空気から頬に感じた気配をたどる。近づけば近づくほど、ほんの一筋の糸が、太い柱のような存在感を放つ。
人が踏み固めた道の突きあたりで足を止める。傭兵は目の前の大木を見上げた。
背を優に超える高い位置に、刃物で抉り取ったような痕跡。周囲に散らばる粘度の高い液体。たどった気配を色濃く感じる。間違いなく魔法痕だ。足下に這い寄る異様な空気が、その痕がついてから数日は経っていることを知らせる。
来た道を横切るように左右に道は続いていたが、傭兵は地面から浮き出た太い根を飛び越えて大木の裏に回った。その先には獣道すらないが、草が倒れている箇所が続いている。見失わないように草を足でかき分けながら進んでしばらく、草花が途端に途切れ、細い道に繋がった。
傭兵は目を細めながらその先を見やる。木々がない開けた空間。小屋。そして、二つの影。
その一つの影だけが動いた。何かを振り上げる。その刹那、月明かりの反射が目に飛び込む。
即座に地面を蹴って駆けた。右腰に差した剣を抜く。へた、と座り込んだまま動こうとすらしない小さな影を右腕で攫うように抱く。同時に、大きな影が振り下ろしていた大斧を片手で受け、滑らせてはじいた。大きな影は突然変わった斧の軌道に振り回され、よろめいて倒れ込んだ。
傭兵は抱えたまま数歩下がって距離をとる。右腕に触れる小さな影を被り越しに見下ろすと、その影――幼い少女の、丸く見開かれた薄い青緑色の瞳と視線がぶつかった。恐怖か、安堵か、様々な感情が入り交じったものから目を逸らすことができなくなる。が、正面からのうめき声を聞いて、大きな影――綺麗とはいい難い身なりの巨漢の方へすぐに意識を向けた。体勢が整いつつある。傭兵は巨漢を見据えながら、腕の中の少女に話しかける。
「あの小屋まで走れるか」
少女の体が途端にこわばった。頭が横に振られる。
「いやだ、もどり、たくない」
か細い声が耳に届く。仕方ない。口から漏れる白い息が長く伸びる。傭兵は羽織っていた外衣を少女の肩に乗せ、目の前が見えなくなるように被りで覆い隠した。
少女を背にして立ち上がると、巨漢は大斧を軽々と肩に担ぎ上げ、傭兵へ威圧的な眼光をたたきつける。
「俺の邪魔するとは。……盗賊って身なりじゃねえな。何者だ」
巨漢の言葉には一切反応せず、大斧を持つ腕を捉え続けた。相手に気を抜いた素振りはない。次は力で押し負ける。後ろの少女を気にしながら剣を持ち直す。
「はっ、無視か。ずいぶん大物だな。いいだろう殺してやる」
木の幹のような腕が肩から浮いた。その瞬間、傭兵がいた場所には土煙のみが巻き上がる。
傭兵はがら空きの懐に潜り込み、たるんだ肉が目立つ顎に剣の柄をたたき込んだ。巨漢は大きく後ろにのけぞる。が、浮いた腕はそのまま、大斧とともに振り下ろされた。
少なくとも、巨漢はそのつもりだっただろう。
大斧は傭兵の真横の地面に突き刺さった。宝石の指輪をいくつもはめた指が木の柄を握ったまま、本来繋がっていた先を失って垂れ下がっている。
弧を描くように吹き出した赤が地面を濡らす。巨漢はやっと自身に起きたことを理解して、重たいまぶたを持ち上げた。
「なっ……!」
巨漢は腕を押さえながら距離をとろうとしたが、石につまずいて背から転げた。傭兵は剣についた血を振り落とし、おびえた目をする巨漢に歩み寄る。後数歩のところで、傭兵は差しかけた足を戻した。
肌がひりつくのは、冷たい空気のせいではない。
巨漢から目をそらし、森の奥を凝視する。あの魔法痕のさらに奥でちらつくのは、揺らめく炎。
視線を戻すと、隙を狙って巨漢がとびかかろうとしていた。それを差し置いて傭兵は後ろへ飛ぶ。その直後、ぶつかる相手も支える腕もなく姿勢を崩した巨漢は、横から放たれた刃の形をした炎に切り裂かれた。切り口から発火し、瞬く間に全身を橙色が覆う。うめき声すらなく、燃え切って残った灰は土煙に紛れて消えた。
傭兵は後ずさりながら少女のすぐそばに寄った。濃く殺気だった気配がじりじりと近づく。草木をかき分け、地面を這いずる音。焦げた匂い。少女も異変に気づき顔を持ち上げようとしたが、傭兵は被りの端を持ち、黙ってそれを遮る。
開けたこの場所を小屋ごとぐるりと囲む長い胴体。艶やかな鱗を全身にまとったそれは、傭兵のもつ剣の倍は長いだろう牙から粘りのある液を垂らし、傭兵の背を優に超える位置から、紫色に怪しく輝く瞳で見下す。
(……規格外だな)
傭兵は首を持ち上げて、魔獣の瞳の片方をにらみ返す。魔獣は顔を一瞬だけ後ろに引いた。その隙を見逃さなかった。
屈んだまま踏切って少女から距離を取り、剣を牙に閃かせる。金属同士がかち合う甲高い音が森に吸い込まれていくさなか、魔獣の片方の牙が遠く地面に転がる。根元から牙を失った魔獣は、野太い絶叫を上げた。牙を伝う液の量が増え、頭を振ることでそれを巻き散らす。その間、カチ、カチ、と火打ち石を合わせ鳴らすような音がしたと思えば、魔獣の口内で炎が渦巻く。傭兵は思考よりも反射で、魔獣に向かって走り出した。
魔法を展開しながら、地面を踏み切って跳躍。鳥が飛び立つように軽やかに浮いた体は、木々より上の魔獣の頭と同じ高さに到達する。眼前に巨大な火球が迫ったが、体をひねって左の剣でそれを切り伏せる。炎が裂けた隙間から、さらに鈍い銀光が放たれる。
魔獣の開いたままの巨大な口を横に薙いだのは、いつの間にか握られていたもう一振りの剣。
傭兵は振り切った腕に身をゆだね、背を向けたまま地面に降り立った。出した剣を空中で霧散、左の剣も軽く払って鞘にしまう。背後で重たい音が地面を打ち、その後を追いかけるように崩れたものが地面を揺らす。
処理は後だ。傭兵はそう思いながら、絶命した魔獣をよそに、少女の方へ足を向けた。
少女はうずくまったまま震えていたが、森がはたと静かになると、恐る恐る顔を動かした。近づいてくる傭兵の姿を見て、表情がいくばか緩んだ。そして、まぶたが重たそうに降りていき、その場に崩れるように倒れた。
傭兵は浅い呼吸を繰りかえす少女の前に屈む。被りをよけて、首筋に手をあてる。手袋越しにでも体温が高まっているのは十分に分かった。少女の体にある怪我を素早く確認する。痛々しい右手首のあざ、全身にある細かい切り傷。だが、命に関わる怪我はない。熱の原因は精神的なものか、と予想を立てるも、ここでは看病もできない。
右手で空中に文字を刻む。手のひらですべて繋げるようになでると、足下に紫がかった闇色の魔法陣が浮かぶ。傭兵は少女を抱きかかえて立ち上がると、緩やかに巻き上がる風とともに、二人の姿はその場から消えた。




