序章
天からの月の青白い光が窓から差し、屋敷の一室を仄かに照らす。
部屋にある小さな椅子の足は折れて転がる。紙や本は床に散乱し、誰かの思い出の絵も拙い文字も踏みにじられ、破れ、床を流れる赤に上書きされる。
壁にもたれかかり、力なくうなだれた青年の頬に添えられていた手が、ゆっくりと離れた。
目深な被りの奥にある黒い双眸は、青年の虚ろな瞳から、月光を反射しながら流れるそれを追いかける。
ぽた、と音を立てて落ちる雫。
揺れ動く水面を見つめ、そっと、閉じる。緩やかに吐かれた息が白く濁った。
ここで息をしているのは、ただ一人。
青年の濡れた頬を指で拭い、まぶたをおろしてやる。
傭兵は自身の手に握られた小袋を一瞥する。その中にある、手のひらに収まる分厚い本の感触だけ確かめ、袋ごと腰の衣嚢にしまい込んだ。そして、足元に落ちた半透明の紙を手に取る。淡く光をもつそれに書き記された依頼文。さっと撫でるように視線を滑らせた後、衣嚢の中には入れず、すぐに折って懐にしまった。
青年から離れるように立ち上がると、濃灰の外衣が重々しく全身を包み隠す。布端にある小さな銀刺繍が赤を吸い込みぽたぽたと床を汚していたが、この傭兵は気にも留めない。
依頼主となった青年。彼を弔う資格は傭兵にはなかった。亡骸から顔を背け、月明かりの入る窓の方へ向かう。
窓を開け、窓枠をくぐった。外に出た全身を鋭い空気が横切る。傭兵は被りを抑えながら、指先で空をなぞった。足元に薄緑の小さな魔法陣が浮かぶと、風が渦巻き、衝撃も音もなく地面に降り立つ。
傭兵は屋敷から離れ、森の入り口の前に立った。
懐にしまった紙を外衣ごしに触る。まずは見つけることだ。急いで、間に合えばいいが。そう思い、一歩踏み入れようとしたその刹那。
背後――村の方角から、家屋の崩れる音が響く。
傭兵は音のする方の景色を横目で見やる。
たった一夜の出来事、この結末は――――
黒い瞳に、村中で揺らめく赤を焼き付ける。外衣を翻し背を向け、森へ駆けた。




