対ケルベロス戦
「……?」
テラが自分以外の荒い息を感じ取ったのは、今し方のことだった。猛獣の鼻息だ。
彼女は息を殺し、上体を起こす。霧の向こう、犬のような巨体が浮かび上がる。
「っ!」
テラは地面に置かれた配達鞄を抱いて、慌てて廃墟の影に駆け込んだ。
それはケルベロスだった。真紅の瞳に、灰白色の毛皮、二足で立ち上がればテラをゆうに超える体躯。そして何より、頭部の大半を占める涎の溢れる牙。
この頭が一つでも怖いのに、三つも並んでいるのだ。三頭分の歯牙に、万力のように挟まれたらひとたまりもないだろう。
テラは恐怖に刈り取られそうだった。手で口元を覆い、息を漏らさぬように必死に耐える。今にも泣き出しそうだった。
……ああ、浮遊感と天空が恋しい。翼人が飛べなくなるのがこんなに惨めなことだとは思わなかった。
空にいればケルベロスなど子犬と同義なのに、同じ地面にいるとこんなに怖いとは思わなかったのだ。アヴィスの苦しみが少し理解できた気がした。彼女は最悪を覚悟し、剣の柄を握る。
ケルベロスは匂いでテラを追っているようだ。三つ頭があれば、嗅覚も三倍なのだろうか。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ……」
ついに。壁を隔てた向こう側にケルベロスがやってきた。テラは壁に隠れてやり過ごす。
ケルベロスは焚火の周りを漁っているようだった。鼻を鳴らしながら、何かをゴソゴソしている。恐る恐るテラはその様子を垣間見た。
(あっ、食糧ポーチが……!)
ケルベロスは、地面に置かれた食糧ポーチに鼻面を突っ込んでいた。テラの顔から血の気が引く。
あと数日は、村や街がない場所を飛ばなければならない。航続距離を稼ぐにはあの食糧が『絶対に』必要だった。
「ダメ――っ!」
配達鞄を離したテラは、弾かれるように影から駆け込み、抜刀してケルベロスの尻を切り上げた。犬の悲鳴がこだまする。そして憎々しげに振り返り、テラと対峙する。テラは震える手で剣を構えた。
ケルベロスは一度吠えてから、テラに体当たりする。テラは翼を盾にその攻撃を受け、地面に転がる。
そして羽を払って犬頭を叩き、剣先で鼻先を切る。白い翼に血糊が爆ぜた。切れた鼻面に蹴りを叩き込み、彼女は飛び起きた。
「ふぅ……」
ケルベロスは怪我を負った一頭が戦々恐々としているが、他の二頭は獲物を見つけた興奮に満ち満ちていた。
鼓動が乱れる中、テラは必死に剣を落とすまいとしていた。
犬頭が噛みつきを繰り出し、前転で回避。が、翼を噛みつかれ、放り投げられる。地面に激突して全身を痛みが駆け抜けた。
すぐに立ち上がり、剣を構えて体勢を整える。攻撃と防御を天秤にかけ、ケルベロスの追撃を辛うじて剣でいなす。
それから真ん中の頭に向けて一閃を放ち、致命傷を与える。血が吹き出して地面を汚した。さすがに怯んだようで、後退りする。
テラはそれを勝機と見た。素早く向かって左の首筋に剣を突き立て、切れ味を持って強引に右へと切り込んでいく。肉を断つ音が響き、ケルベロスは地面に倒れこんだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
まさか、護身用のそれがここまで役に立つとは思わなかった。
呼吸を正常に戻しながらも、しばらく呆然としながら天を仰ぐ。
「……テラ! 大丈夫かっ!?」
するとカエルムが帰ってきたようで、着陸一番でそんなことを言う。
「な、なんだコイツ……」
「……うん? 今日の晩御飯だよ?」
「テラ怖ぇ……」
軽口を言えるほどまでテラの鼓動は落ち着いてきた。ふうと溜息を漏らすと、剣を取り落とし、体調不良もあって地面にへたり込んでしまう。
そんな彼女に肩を貸し、カエルムは焚き木の場所までテラを運ぶ。「無理しやがって」とぼやいた。
「ところでカエルムは、どうしてそんなにはだけてるの?」
「な、何でもねーよ! ちょっとした野暮用だ」
「何で頬に殴られたみたいなアザがついてるの?」
「墜落してぶつけたんだよ! ――あ、そうだ! 『ブラックロータス』見つけたぞ!」
カエルムは話を遮ってから、腰につけた新品のポーチから黒い花束を取り出した。
それはアストラが見せてくれた植物図鑑に描いてあった『ブラックロータス』で間違いなかった。
花弁は気味が悪いほど漆黒で、おしべとめしべは白い。薔薇の花に似た容姿をしていた、奇妙な色合いの花だった。
「肝心のアストラは……」
「呼んだ?」
太陽を背景に、逆光で暗く写ったアストラが舞い降りてくる。彼女は二人の前に着地した。霧はいつの間にか晴れていた。
「来たか! 『ブラックロータス』見つけたぞ!」
「……素晴らしい活躍だね。ボクの方は見つけられなかった。お礼に帝国軍に招待してあげようか?」
「いや、入隊しねぇよ! 何で褒章で入隊させんだよ。それより早く『無翼病』の治療薬を作ってくれ!」
「……薄情だね。でも、まかせて」
アストラは大きなポーチから小鍋を取り出すと、手早く用意していく。カエルムは焚火に薪をくべて火をつけた。それから寒くないようにテラを火の近くに寄せてやる。
「……まずは『ブラックロータス』を煎じて薬効成分を抽出すると」
「ところで、テラはひとりでコイツ……ケルベロス? を倒したのか?」
「そうなの。勇気を出したら私でも倒せたって感じ」
「臆病者なイメージのお前がよくもまあ、立ち向かえたよな」
自信満々に胸を張ったテラだったが、アストラの言葉で容易く砕かれる。
「ケルベロスはこの辺じゃ最下層の生き物。三つ頭があるのに頭が悪いし、攻撃も大したことないから、行商人でも帝国の子供でも倒せる」
「がっくり……勇者になった気分だったのに……」
「ははは! お前に勇者は似合わねぇな!」
「でも、ケルベロスは色々と有効活用できるから、ナイス」
そんなことを話していると、鍋からツンとした瘴気が立ち昇り始める。アストラは煎じて色がなくなった『ブラックロータス』を取り出すと、ナイフで細かく刻んで鍋に戻す。それから薬品瓶を取り出し、色とりどりのそれを鍋に注いでいく。
「――あの、カエルムちゃんにアストラちゃん、本当にありがとうね」
「はっ! いいってもんよ……お前には散々借りがあったしな」
「……いいってもの。これぞ旅の仲間ってやつだね」
アストラは鍋を鳴らしながら取り上げ、中を混ぜてから小瓶の中に流し込む。真っ黒な薬の完成だった。見るも禍々しい漆黒に三人は息をのむ。
「……ボクも飲んだことあるけど、『地獄の魔王様とディープキス』したような苦みだよ」
おぇえと、珍しく感情を表に出すアストラ。
「何だよその例え!?」
「あ、あう……怖いよぉ……」
「カエルムも飲んでみる? 予防になるかも。知らないけど」
「いや、絶対飲まないからな!」
アストラから毒々しい瓶を受け取ったテラは、目をギュッと閉じて、意を決してから小瓶を一気に飲み干した。
「うぷっ、うぐ、んぐぅ……」
「……吐いちゃダメだよ?」
「んぐ――っ!」
「テラ、こっち向くな! 吐くなよ、絶対吐くなよ!」
「んむううううううう!」
涙目になりながら、テラは苦々しいそれを何とか飲み干すことに成功した。
「……これは、地獄の魔王様とディープキスした味だよ。家族以外でキスしたことないけど」
「その口でキスなんて絶対したくねぇ……」
しばらくして薬効が出てきたようで、昼前にはテラは飛行可能になり、新鮮なケルベロスの肉を調理し、昼食を取ってから午後には旅路に戻るのだった。




