悪魔の指
イザヴェル山脈から流れるクオリ川に沿って飛んでいたテラは、再び草原地帯を入り込んだ。一面に咲いた菜の花の合間を、蜜蜂たちが忙しそうに行き交っている。
最初は新鮮だったが、永遠に続く原っぱに早くもうんざりしていた。いくら飛んでも同じ景色が続くのだ。まるで進んでいる気がしない。
おまけに腹部の慢性的な疼痛にも飽き飽きしていた。
受けたのは物理的なものだけではない。サリアの声が彼女を深く心痛させた。思い出すだけでも辛かった。……それでも飛び続けなければならなかった。
これから向かうのは、大衆酒場を営むインディの姉が住むというノウェイ村だ。方位磁針と地図を睨みながらテラは飛行する。飛行経路は問題ないだろう。目標物がないときはコンパスと大陸地図に依存するしかない。
「だいぶ暗くなってきたな……」
昼前にも関わらず、空は分厚い鉛色の雲に覆われて、暗くなり始めていた。じきに雨が降りそうだった。
テラはポーチの口がきちんと閉じているか確認して曇天の中を飛ぶ。
「あっ、雨……」
ぽつり、ぽつり。雨粒が落ち始める。いつの間にか雲は厚さと黒さを増して、どす黒い雲の合間に稲妻が走る。
テラは地上を見下ろして雨宿りできそうな場所を探すが、平原には雷雨を凌げる場所は見当たらない。
それにギオン村で休息を取ったがゆえに時間が惜しかった。
「あ、あう……」
雨脚は激しさを増し、逆風が吹き荒れる。雨粒が視界を煙たくする。
テラは翼を広げてふらふらとバランスを取る。ひゅんひゅんと風音が鳴り、紫色の髪と獣耳を乱暴に掻き分けた。翼に落ちた雨粒が羽根を滑り落ちた。
――閃光が走り、雷鳴が轟く。いよいよテラは暴風雨に差しかかった。
「っ?」
彼女の前方、漆黒の雲が徐々にとぐろを巻き始める。それは地上目がけて渦巻いて、コマのように回転し始めた。まるで悪魔の指が地上を刺すようかのようだった。草原の草や土が物凄い勢いで巻き上げられていく。
「あっ、あれは……」
――もはや雷雨どころではない。それは竜巻だった。
それを視認した途端、猛烈な疾風がテラを襲う。テラは一瞬で突風に弾かれた。強烈な下降気流で一気に地面に押し戻される。抗えない。墜落の恐怖が彼女を襲う。
「んぐぅ!」
地上に叩きつけられる直前、テラはどうにか体勢を取り戻し、飛び上がる
が、今度は爆発的な力を持って空へと押し上げられる。その力を前に彼女は無力だった。テラは何とか配達鞄を抱きしめて、抵抗できず風に弾き飛ばされる。高度計の針が荒ぶった。
(こ、こんなのって……!)
何とか羽ばたこうとするが、風をいなすことはできない。テラはなすすべがなかった。
王都では風雨に流されることはあったが、ここまで自分の力が無力だと痛感することはなかった。自然の前に彼女はあまりに非力だった。
食料ポーチの紐がちぎれ、吹き飛ばされていく。テラは乱暴に回転されて雲に巻き取られる。それでも配達鞄だけは手放さない。
強烈な風と雨が彼女に見えない傷をつけていく。
(何とか、抜け出さないと……!)
強風に煽られて翼から羽根が散る。
テラは再び風の塊に飲み込まれ、一気に押し上げられる。その瞬間、積乱雲の向こうに一瞬だけ青空が輝いて見えた。
子供が水を張った桶を掻き回すように、テラは風の渦の中に捕らわれる。抵抗できず、渦中で揉まれてひっくり返った。無闇に羽を広げれば、風圧で翼ごと折られそうだった。
それでも。テラは先ほど一瞬だけ見えた蒼昊に期待を寄せる。それが唯一の解決の糸口だった。
「上へ、上へ……!」
風に押し上げられるようにして、テラは空を目指す。強烈な雨と下降流が彼女の邪魔するが、何とか上昇する。強烈な力に体と翼が悲鳴をあげた。
暴力的なまでに強烈な気流に暴かれ、強引に羽根を引き抜かれた。
(それでも……!)
テラは無理矢理翼を動かし、目に見えない風の壁へ突っ込んでいく。辛うじて上昇へと転じる。
「それでもっ! 前に進むんだ!」
その瞬間、広がったテラの翼が上昇気流を捉えた。彼女は一気に光の中へと飛び込んだ。
――どうにか、竜巻を乗り越えることができた。雲上は下の様相が信じられないくらい穏やかだった。青々とした空が広がり、何にも遮られない太陽の光が降り注いでいた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
眼下に白い雲海が広がる。
酸素が薄いが、時間をかけてゆっくり息を整える。体中が濡れて、とてつもない疲労感がテラを襲った。
しばらく何も考えることができない。呆然としながら、彼女は翼を広げて、静かな空を飛ぶ。制服の袖で顔をぬぐい、食料ポーチ以外の装具が無事なことを確認する。配達鞄は特に心配だったが無事だった。
「帰りたい……お母さん、お父さん……アヴィスさん……」
ぽつりと、そんな言葉を漏らす。
彼女は紫の瞳から涙を流す。嗚咽しながら、口をへの字に曲げて、流れた涙をぬぐう。
この短時間でまるで一生分の経験をしたようだった。
それでも。彼女は袖で顔を拭い、すぐに真剣な顔に戻る。
「……生き抜け、テラ。みんなの『想い』を届けるんだ……!」
折れそうになる心を奮い立たたせ、懸命に翼を動かした。
しばらく飛行してから、テラは徐々に高度を落とし始める。雲海の上は飛ぶには楽だが、ここからでは目標物が見えず自分の位置がわからなかった。先ほどの一件があって不安だったが、眼下に飛び込むしかない。
降りてみるとまだ平原の上を飛んでいるところだった。ただ、緑の山脈が近づきつつあった。地図を引くと、どうやらノウェイ村があるノウェイ山の近くにいるようだった。
それは、泣きたいくらいに美しい夕日だった。
あらゆるものを燃やす夕焼けは、雲をも染めて火焔のように写し出していた。
そんな夕日の世界に、空を飛ぶ人影がひとつ。背中から生えた翼で宙を切っていた。
しかし、夕日は徐々にその姿を地平線に隠してしまう。テラは闇に閉じ込められた。
彼女は魔法式の懐中電灯で地図とコンパスを照らしつつ、高度を下げて山間部に進入。
疲労で翼を引きずるように下降しテラは村を探す。
――見えた。山を切り開いた場所に、赤い石でできた建屋と揺れる松明が。
テラは村の上空で何回か旋回して、次第に高度を下げていく。外で談話していた村人は降りてくるテラを見つけ、手を広げて出迎えてくれる。
親切なことに、松明を振って着地できそうな場所を知らせてくれた。テラはそれに導かれて降下する。
「――よっと。こんばんは!」
テラは敬礼して村人に挨拶する。村人たちはカラフルで大ぶりな民族衣装を着ていた。
「郵便配達に参りました、『スペス郵便局』のテラです!」
「ようこそノウェイ村へ!」
「こんなあどけない子供が来たのか!」
「びしょ濡れじゃない! 何か拭くもの持ってきて!」
「濡れ鼠とはこのことだな!」
「あはは……獣耳あるから余計鼠っぽいですかね?」
「冗談言ってる場合か! 風邪ひくぞ!」
テラは体を身震いして、菫の髪の毛と獣耳を震わせる。彼女は村人が寄ってたかって持ってきた布で、強引に拭かれてもみくちゃにされる。さすがに腹を拭かれたときは痛みのせいで悶絶しそうになった。
「あうぅ……」
ノウェイ村の人々は松明のように明るい。着干ししようとしていたシャツもとある女性が貸してくれた。
――テラは、こうして第二目標のノウェイ村に到着するのだった。




