出立
出発の朝。
テラは寝ている両親を起こさないように薄暗いリビングへ行くと、テーブルに手紙を置く。それは今まで育ててくれた感謝と、人の『想い』を運びたいという自分自身の気持ち、外国へ行きたいという気持ち、そして例え『墜ちて』も悔いがないという強がりを書いた手紙だった。
「……行ってきます」
テラは静かにそう言うと、家を後にする。こんなに長い間家を空けることは初めてだった。
屋上に出ると朝の風が頬を撫で、地平線から覗く太陽が新たな始まりを告げていた。
空は燃えるような朝日に染まっていた。テラは目を細める。見事なまでの朝焼けだった。
そしてその空を背景に、二つの影が。両親だった。
「……なんだ。起きてたんだね」
「不安で一睡もできませんでしたわ」
「僕もだ。心配で」
「そっか……そうだよね……」
テラは目を閉じて、両親と長々と抱き合う。互いの感触と温かさを確かめるように。
「くれぐれもご自愛くださいまし」
「気をつけて。無理はするなよ」
「……うん。ありがとう」
テラは名残惜しそうに、ゆっくりと二人から離れる。
そして屋上の隅に、茜色の空を背に立つひとつ影があった。その影はテラの視線に気づくと、手すりをコツコツコツと三回鳴らした。黒いローブをまとったアヴィスだった。
「アヴィスさん……起きてらしたんですね」
「もちろんだとも。愛おしい『娘』の門出だもの。知っての通り、朝には弱いがね」
「娘……私のことそう思ってくれて嬉しいです」
「――テラ。私がまだ翼人『だった』頃、私の翼は黒染めだった。漆黒で鈍く光輝いていた。だが、とある理由で堕天した。大切な大切な私の翼だったが、物語を紡ぐために捧げた」
アヴィスはテラの背中をそっと押した。
「――行っておいで、私の翼」
テラは「はい!」と応えてから澄んだ空気を肺に取り入れた。
それからバサッと音をたてて勢いよく飛び上がったテラは、三様の言葉に背中を押されて郵便局を目指す。
まだ早い時間。いつもと違い街路にはほとんど人がおらず静かなものだった。静寂がウルド全体を包んでいた。
テラはその静けさに足をつけて着地し、スペス郵便局の扉を開いた。
「おはようございます!」
「ああ、おはようテラ君。君が外国へ行くと考えたら一睡もできなかったよ」
「何で当事者が普通に寝れてるのに、所長が不安がってるんですか……」
「……昨晩アイリス君の見舞いに行ったが、かなり容態が不安定だった。意識も混濁しているようで、イザヴェル山脈周辺のことも聞きだせなかったよ」
「アイリスちゃん……」
「王都の方は我々に任せてくれ。くれぐれも、君は自分の仕事に集中すること。いいね?」
「はい!」
机の上には鞄やポーチなどが並べてあった。副所長が荷物を検めている。その中にはアイリスが持っていた剣もある。
テラは制服に袖を通して、所長から説明を受けながら、一個一個ポーチ類を装着していく。腕時計ならぬ高度計も初めて腕に通した。
「いいか。最初の難関はイザヴェル山脈だ。高高度で飛ぶ必要があるし、上空は酸素が薄いから要注意だ。それと、アイリス君を襲った竜がいる場所でもある。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「……はい」
「それからまずは『ギオン村』に行くこと。ここは小さな村で森林地帯にあるから見落としやすいから、地図をよく確認してから向かうんだ。それから北西に飛んで『ノウェイ村』に行き、それから次に『ビムス村』を経て帝国を目指すこと。いいね?」
テラは地図を見て所長の言葉どおりに大まかなルートを決める。それから地図をマップケースに収めて、最後に所長から剣を受け取る。
「君には剣術を教える前に出番が来てしまったか」
「戦い方はわからないので、あくまでお守り代わりですね」
腰に剣を吊り下げ、テラは両手で頬を軽く叩く。準備は整った。気合を入れるテラの手前、所長も副所長も不安そうな顔をしていた。
「とにかく、自分が生き残ることを考えるんだ。多少の無理は必要になるがだろうが、追い込み過ぎないように」
「テラちゃん、くれぐれも気をつけて。ちゃんと帰ってくるのよ?」
「――それでは、行ってきます!」
「気をつけるんだぞ!」「テラちゃん、気をつけるのよ!」
テラは元気よく「はい!」と返事して、空を見上げた。澄み渡る青空は深く鮮明で、輝く太陽が空へと手招きしている。
それからテラは深呼吸すると純白の翼を大きく広げ、バサッと大きな音を立ててから力強く空へと飛び立つ。青い空が彼女を受け入れた。
眼下に広がる慣れ親しんだウルドの向こうに、イザヴェル山脈が見えた。
テラはアイリスがやったように郵便局の上を何周か回り、地上にいる二人に手を振って王都を離れていく。
「行ってしまったか……」
「あの子、入った頃に比べて随分と逞しくなりましたね」
「……そうだな。さて、副所長。今日から一人で王都を回ってもらうしかない」
「えぇ、嫌だわ……」
* * *
テラは王都の城壁に差しかかった。いつもより荷物が重くて動きにくい。これは予想以上に体力を使いそうだった。
守衛たちに手を振り、彼女は城壁を抜ける。攻城に備えられた堅牢な造りのそれを越えていく。
テラはここで初めて王都ウルドの外に出た。どこまでも広大な草原が広がり、それは風で波打っていた。若草の馥郁が漂う。
――無限の空だった。
彼女は上昇気流に乗りながら徐々に高度を上げていく。イザヴェル山脈を超えるには相当高度を稼ぐ必要がある。人の立ち入りを拒絶するかのような高峰が連なっているのだ。
今のうちにできるだけ上昇しておきたかった。
「うわぁ、本当に広いな!」
テラは感激で瞳を輝かせる。初めて、人工物に支配されない空を飛んだ素直な感想だった。人間の気配を感じさせない自然の大気が気持ちよかった。
獣耳で風切り音を聞きながら、翼を大きく広げて上昇を続ける。
すると、視界の隅に蠢く影を見た。一瞬警戒するが、それは竜ではなく、白鳥たちの群れだった。綺麗に隊列を取った白鳥たちは、テラのことを気に留める様子もなく飛んでいる。テラは白鳥たちの横に並んだ。
「あなたたちも旅してるの? 一緒だね! 羽の色も真っ白でお揃いだ!」
思わぬ共通点を見つけてテラは白鳥に好感を覚える。
しばらくひとりと一群はともに飛行していったが、山脈に近づいていくごとに白鳥たちは東に針路を取って離れていく。
「行っちゃうの? それじゃあね!」
テラは明るく白鳥に手を振り、徐々に近づきつつある風光明媚な山脈に向かう。
遠くから見ると水色がかった美麗な山脈だが、近づくと岩肌が剥き出しになっており、人の侵入を拒むように佇んでいた。巨影に太陽が遮られて視界が暗くなる。とにかく巨大な障壁。そして崇高。そう言ったところか。
「はぁはぁ……もうちょっと高度を上げないと……」
高度計はゆうに四千メートルを超えていた。それを確認したテラは羽ばたく回数を増やす。翼で宙を打ち、麓の山林を超えて、森林限界を迎えた山肌を超えていく。
次第に制服を貫いて寒さが肌を刺すようになる。山頂に近づくにつれて気流が荒れて、体が左右に大きく振られた。慣れていれば軽くいなすこともできるだろうが、テラは不慣れなため、どうしても力で抗うしかない。
加えて酸素が薄いせいか、例え能力があっても、いつもより羽ばたくのが辛かった。
「――っ!」
刹那。岩陰から巨大な影がテラ目がけて突っ込んできた。テラは半ば本能的に身を翻す。
目を引くのはまるで沸き立つ溶岩のように赤い瞳、そしてその中にある蛇のような縦長い瞳孔。
鋭利な嘴には、やはり鋭利な牙の羅列が見て取れる。長い首から尻尾の先まで、黒く硬質な鱗で覆われていた。翼は重い巨体を飛ばすのに十分な大きさを持っていた。
――竜だ。




