運命の分岐点
それからしばらく時間が過ぎたそのときのことだった。
呆然としていた二人の間に漂っていた、痛いほどの静寂を破って所長が口を開いた。
「……さて、これからのことを考えなければな。ノエル君は大陸を横断していてすぐには戻ってこれない。副所長は幼い息子がいて王都を離れられない」
所長はぶつぶつそう呟きながら、部屋を行ったり来たりしている。
「今日回収した『急ぎの便』で『危険な配達先』もあるが、ここはやはり外注するしかないか……だが、引き受けてくれる場所があるかどうかだな……」
――アイリスは重傷を負った飛べぬ体で、竜の追撃に怯えながらも決して荷物を手放さなかった。
そして飛べなくなったその体で、ひたすら歩いて王都へと引き返した。きっとそれは並大抵の覚悟ではなかっただろう。
だから、テラはアイリスのその『想い』を引き継ぎたいと切に願った。
そして、人々の想いを、願いを、声を届けたいと思った。たとえ、どんな困難が道を塞いでいても。どんな辛苦を舐めて飲み込むことになっても。
――まだ希望は途絶えていないと思ったから。
「所長。私に行かせてください!」
テラは気づけば、緊張で震えながらそんな言葉を放っていた。所長も震え声で言葉を返す。
「……君が、帝国、に?」
「はい! 私、みんなの『想い』を運びたいです! 私にやらせてください!」
「君は入社して三ヶ月の新米だぞ!? そんな娘を海外に行かせるなんてできるか!」
所長は語気を荒げて反論した。怒りと不安の入り混じった表情を顔に浮かべていた。
理解はしている、でも納得はできなかった。気圧されそうになるが、テラも負けじと食い下がる。
「みんなの『想い』を届けたいんです!」
「さっきのアイリス君の怪我を見ただろう? 彼女ほどのベテランでも、あんな風になってしまうのだぞ!?」
「それでも、私に少しでもできる可能性があるなら、それを信じたいんです!」
どこまでも真っすぐで真剣なテラの瞳に、今度は所長が気圧される番だった。
こんな小さくあどけない少女が、気迫をまとえるものなのか。鬼気迫る表情で、しかも紫水晶の瞳をギラギラと輝かせて……。
彼は口を閉じて長考した。長い長い沈黙が過ぎる。
「――君は、死ぬ覚悟はあるか?」
「……はい。みんなの『想い』を運ぶのなら、例え死んでもいいです」
「ではそれ以上に、生きる覚悟はあるかい?」
「……あります。何がなんでも生きて、最後まで『想い』を運びます」
再び、重い沈黙が局内を包み込んだ。所長は長い溜息をつく。
「……『以前』の君なら止めただろう」
所長は深々とため息をついた。それからメガネを取り、目頭を押さえる。
「君はおっちょこちょいだが、素晴らしい飛行技術と才能を持っている。若くて体力もあるし、かつてここで働いていた長距離配達員と飛び方もよく似ていて、多分長距離飛行にも向いているだろう。そしてなにより正義感も強い」
「所長……」
「『今』の君ならできると信じている。出立は明日だ。今日はもう休んで、明日に備えなさい」
「――っ! わかりました! ありがとうございます!」
テラの真顔に、わずかな明るさが差す。
「ただし。必ず、生きて帰ってくること! これが守れないのなら、絶対に許さないぞ!」
「はい……絶対に、帰ってきます!」
「ちゃんと、ご両親にもこのことを伝えるんだぞ!」
「はい! わかりました!」
こうして、テラはアイリスの『想い』を引き継ぐことになったのだった。
いつだって時は待ってくれやしない。そして、人間の思考は無限大だが、想定外が必ず存在する。
アイリスの帰還は、それをまざまざと見せていた。
そして、テラもその道を歩むことになる。
* * *
帰宅後。テラと両親とアヴィスは食卓を囲んでいた。
暖色の明かりの下、スープが湯気を上げて、美味しそうに写っていた。なのに、テラの手は動いていなかった。彼女はスープを見つめたまま無言を貫いている。
珍しく静かなテラを見て、三人は何かを悟っているようだった。ほとんど同時にスプーンを持つ手を止めて、心配そうに娘の顔を覗き込む。
「ほら、テラの好きな鶏肉のスープですわよ? 食欲がなくって?」
「あ、うん……」
「どうしたテラ。職場で何かあったか?」
「…………」
「言ってごらん、テラ君」
テラの脳裏に怪我を負ったアイリスの姿が浮かぶ。彼女の痛々しい姿を思い出し、怖くないと言えば全くの嘘だった。外の世界には竜も、もっと危険な存在がいるかもしれない。
――だが。自分の意志で、そのアイリスの『想い』を引き継ぎたいと願った。そして所長に打ち明け、チャンスをもらった。決して無下にはできない、無駄にはできない、一生をかけた大切な機会を。
どちらにせよ、両親とアヴィスにはそのことを伝えなければならなかった。
考えたくはないが、もしかしたら今生の別れになってしまうかもしれないのだから。
うつむいていたテラはバッと顔をあげ、大好きな三人を見やってから切り出した。父の紫色の獣耳が、母親の純白の翼が、ピクリと動いた。
「あのね、お父さんお母さん、アヴィスさん。私、明日から外国に行ってくる!」
突然娘の口から出た言葉に三人は思わず閉口する。三人とも驚動して目を丸くした。
「アイリスちゃんが竜に襲われて、それで外国便の荷物が滞っちゃってるの。だから私が急きょ行くことになった――いや、自分で行くことにしたんだっ!」
「そっか……テラが」
「そうなのね……」
「テラ君……」
「だから数日は帰って来ないと思う」
「でも、そんな……危ないじゃありませんか! アイリスさんが、竜に襲われたなんて……! テラは不安じゃないのです?」
「不安がないと言ったら嘘になるかな……確かに外国には行きたいけど、アイリスちゃんと竜の件もあるし……」
「テラ、それはお前が決めたことなんだよな? もし無理矢理押しつけられたのなら、お父さんが……」
「ううん。私自身が決めたこと。私が所長の反対を押し切って名乗り出たの」
母親と父親は思わず口を閉じる。いつにないテラの真剣な眼差しを見たからだ。旅をさせたいという気持ちと、危険な目に遭わせたくないという、親心が交差していた。二人もまた、旅の中で愛を育んだから。
そんな二人を差し置いて。最後に、目を閉じたアヴィスが言う。
「――そんなテラ君に、ひとつ感情を抜きにしたアドバイスを。竜や怪鳥に襲われたときは、なるべく低い位置を飛ぶんだ。そうすると、相手は上空から攻撃をしにくいからね?」
「はい……なるべく低く……わかりました!」
「うん。よい返事だ」
両親とアヴィスは不意に立ち上がって、不安顔のテラを抱きしめる。その温かさにテラの心は少し和らいだ。
「……みんな、ここまで育ててくれてありがとう。大好きだよ。愛してる」
気づけば、自然とそんな言葉が口から出ていた。
「あなたならできますわ。絶対に。だって身分の違いを乗り越えた、わたくしたちの子供だもの」
「必ず帰ってくるんだぞ。苦境の中に生まれた、僕たちの可愛い愛娘」
「君の翼は必ず道標となってくれる」
その優しい言の葉にテラは涙が込みあげてきた。悲しみでも、苦しみでもない涙が頬を伝った。それにつられて両親も涙を流す。
四人はいつまでも抱擁を交わしていた。




