犬も食わない
よくあることだが、しょっちゅう口喧嘩をするような間柄より、誰が見ても仲睦まじい二人の喧嘩の方が拗れるものである。
「泊めて」
「バカ言ってんじゃねえ」
毛布一枚を担いで、トートはクリフたちが逗留している部屋に乱入してきた。ザマルの冒険者向け宿は部屋も多く、同じ棟にアルグレッドたちが滞在していることは知っていたが。
「あんたとチビちゃんと仮面でベッド余らせてるんでしょ? あたし嵩張らないし」
「うちのチビは絶賛人見知り中なんだよ勘弁しろ」
何とか床屋を乗り切ったソルードは、ロアルに埋もれて丸くなっていた。引き取って三日、まだようやく大人しく座っていられるようになったばかりである。
「なによ、ケチ。ワリのいい仕事紹介してあげたじゃない」
「それは本当、感謝してます」
「じゃ泊めて。あたしそっちのベッドの右半分ね」
トートはさっさと靴を脱ぐ。余らせている、といってもそれはロアルがベッドを使わないからで、いくら小柄とはいえ二つのベッドに三人となるとやや狭い。
「アルが来たら黙っててね」
「わがままお姫さまめ」
「おやすみ!」
「了承してねえぞー」
ロアルを見ると、ロアルは肩をすくめてみせた。追い出すほどではない、ということだろうか。クリフとしては巻き込まれるのは勘弁願いたいが、とはいえ夜分に十七歳の少女を追い出すのも気が引ける。
「しゃーねぇなあもう」
近づいてくる足音に、クリフは杖を取った。軽い目くらましの魔術をかけると、トートの赤毛が毛布と同化する。
「うちの猫っ子来てねぇか」
間も無く、アルグレッドが顔を出した。いかにも不機嫌そうに眉根を寄せ、額当てを首元まで下ろしている。襟の開き具合からして、部屋から大慌てで飛び出してきたことは想像に難くない。低い男の声に、ソルードは丸くなった尾をさらに縮めた。
「何だよ急に。寝るところなんだが」
「トートが来てねぇかって聞いてんだ」
「来てねぇよ。喧嘩でもしたか?」
戸口からちらりと部屋を見、アルグレッドは唇を曲げる。
「ちっ。ここだと思ったんだが」
「人んちを便利な駆け込み寺にしやがって」
「邪魔したな」
一方的に会話を切り上げ、アルグレッドは廊下を戻っていく。足音が十分離れてから、クリフは魔術を解除した。
「あいつホント短気だよな」
「クリフは彼に似たんだねえ」
「似てねえよ!」
ロアルはソルードに「そっくりだよねえー」と話しかける。ソルードはようやく眠くなってきたらしく、口をもごもごとさせていた。
「くっそ、ちびが寝るようになったからゆっくり寝られると思ったのによ」
「まあまあ。そろそろ蝋燭消しても大丈夫そうだよ」
ベッドに移され、ソルードは手探りでクリフの袖を捕まえる。ソルードが嫌がるのは暗闇と冷たさだ。今日はトート一人分、人肌が多い。きっとよく眠れることだろう。
「明日も居座るなら簀巻きにしてやろう」
「いいね。毛布できゅっと結んで勇者君にプレゼントしちゃおうぜ」
蝋燭を吹き消し、クリフは渋い顔のまま毛布にくるまった。
クリフとロアルも度々意見の齟齬は起きるが、大抵一時間もすれば決着がつく。アルグレッドとクリフの喧嘩も、長引いて一晩だった。
しかしトートは、翌朝になっても機嫌を直した様子はなく、それどころか今日一日、クリフたちに同行する気満々であった。
「女ってやっぱねちっこいよな」
「君、それは人類の半分を敵に回す発言だぜ」
はあやれやれ、と言いながら、結局クリフはトートを追い出していない。今夜も泊まると言い出したら、流石に物申すだろうが。
「そういうところ甘い割に、君、何にも聞かないよね」
「あ?」
「喧嘩の原因。結構、首つっこむタイプかと思ってたけど」
「どぉーせ痴話喧嘩だろ? しょーもねえ。話してぇなら勝手に話すだろ」
先を歩いていたトートが耳を跳ねさせた。クリフはきゅっと口をつぐむ。
階段上で、トートがゆっくりと振り向いた。
「よかったわね。あいつがいなかったら、あたしあんたらに八つ当たりしてた」
階段では、腕を組んだアルグレッドが待ち構えていた。トートを見上げ、歯の間から息を吐く。不機嫌を隠さない顔の男が通路に立ちはだかっていれば、それだけで十分威圧感がある。
「自覚があんなら八つ当たりすんなよ」
「あら。誰のせいでしょうねえ」
「いいからこっち来い。勝負しようぜ。勝ったら頭くらい下げてやる」
「ふーん?」
そういう姿勢がダメなんじゃないだろうか、と思いつつ、クリフとしては巻き込まれないなら何でもよかった。
五人がギルドのカフェに降りると、そこで一人の貴婦人が待っていた。土臭い冒険者ギルドにはあまりに不似合いな、毛皮のコートを着込んだ女性だ。依頼人や冒険者が忙しく行き来するカフェの中で、貴婦人の周囲だけ昼下がりの上流喫茶のような時間が流れているようにも見える。紅茶のカップを優雅に傾け、指先でカップのふちをぬぐい、貴婦人はアルグレッドたちに微笑んだ。
「あら、おかわいらしい冒険者さん。あなた方が、私のマリーちゃんを探してくださるのかしら?」
「マリーちゃん?」
ええ、と貴婦人は頷く。
スコーンを運んできたギルド職員が、アルグレッドたちに気づいて説明を始めた。どうやらこの貴婦人は、冒険者に依頼をしに来たらしい。
ダンジョンもない大きな町では、冒険者は安く使える便利屋だ。また冒険者にとっても、安全に日銭を稼げる雑用はありがたいものに違いない。
「それでね、うちのマリーちゃん、箱入り娘で世間知らずでございましょう? けれどそういう子ほど外の世界に興味持っちゃうのよね。そういうところも可愛いのだけれど。それで憲兵さんにお願いしたんだけれど、ほら、この間何か大きな事件があって? その後始末で大忙しなんですって。だからね? どうしたものかと思っていましたら、冒険者さんってこういうお仕事もしてくれるんですって?」
「つまり猫ちゃん探しなんです」
「そうなのよ」
アルグレッドは視線でギルド職員を労った。依頼に慣れている商人たちならば、今の長々とした話の間に三、四人はさばけただろう。『マリーちゃん』が猫であることを聞き出すだけで何分かかったことか。
続きを話そうとした貴婦人の前に片手を出し、ギルド職員が後を引き継いだ。
「依頼は正式に受けました。ただし、どうしても急ぎということで、謝礼金を少し高く設定し、二組に依頼、より早く達成したほうが謝礼を受け取れるという形式になっています」
「なんでもいいのよ、早く見つけてくれさえすれば」
「そういうわけだ、トート」
アルグレッドはトートを指さし、口の片端を上げた。
「何を使ってもいい。どんな手段を使ってもいい。先に猫を見つけて連れてきたほうの勝ち。どうだ?」
「乗った!」
少しは躊躇えよ、とは思いつつ、クリフはいそいそとその場を離れる。これで巻き込まれから解放されるなら万々歳である。近くのテーブルでは、ロアルが朝食の盆を二つ持ってきていた。ロアルの膝の上では、ソルードが待ちきれないとばかりに体を上下させている。
「勝った! あたしは耳も鼻もいい。あんたより身軽だし猫の鳴き声もよぉーく聞こえる!」
「そんな簡単に言っていいのか? 俺は何を使ってもいいって言ったんだぜ」
「はん。負け惜しみ言う暇あったら必死こいて探したら?」
生き生きと煽り合う二人に挟まれ、貴婦人はのんびりと紅茶を口に運んでいた。存外豪胆なのか、鈍いだけなのか。
そんな感想を抱きながら、クリフは観客に徹することにした。が。
「じゃあ俺はクリフを使う」
「ぶっ」
優雅な朝食は早々に切り上げとなった。
「はっ……はあー!? なしなし、そんなのアリなわけないでしょ!」
「何を使ってもどんな手段を使っても、に乗ったのはお前だぜ」
「だからってズルいでしょう魔術師は! 探し物魔術とかどうせいっぱいあるでしょ? ていうか【八重塔遺跡】で使ってたし!」
了承してない、と言う間もなく、向かいのロアルが立ち上がった。
「それじゃあ不公平すぎる。クリフからは杖を取り上げよう」
「お前はせめて俺の味方であれよ」
「はい行ってらっしゃいお父さん。ソルも応援してるって」
「だからこんなでけぇガキこさえた覚えねえってば!」
ソルードはよく分かっていない顔で、ロアルにならって手を振っていた。
「二対一ね。まあそれくらいなら飲んであげてもいいわ」
「いやいやいやオイ待て、杖のないこいつなんてツラがいいだけじゃねえか」
「じゃーねお先に! 吠え面かかせてあげるから!」
「待っ……クッソ、足引っ張んじゃねーぞクリフ!」
二人の冒険者が大股でカフェを出ていき、貴婦人はその背中に手を振った。クリフが貴婦人を見やると、貴婦人は両手を合わせて小首をかしげる。
「お願いいたしますね、魔術師さん?」
「…………あの二人ともダメだったら俺が謝礼もらっていいっすか」
「ええ、もちろん」
額に手を当て、大きくため息を一つ。
「アイツら……バカども……」
「巻き込まれてあげるんだ。お優しいね」
「裏切者筆頭がなぁに言ってやがるクソボケが。昼飯までに戻るから待っとけ」
外套と杖をロアルに預け、クリフは貴婦人の前にしゃがんだ。
「猫の写真とかあります?」
「あら、ようやく聞いてくださるのね。やっぱり魔術師さんは冷静だわ」
貴婦人が差し出したロケットペンダントには、白く毛足の長い猫の写真が入れられていた。
国家としては小規模とはいえ、ザマルは広い。学問都市として始まった都市は、今や十万人近い人間が住んでいる。四階建て、五階建ての集合住宅が密集し、地図に書ききれない路地や抜け道がそこかしこにある。当然野良猫もいれば野良犬もいる。その中から一匹の猫を探し出すなど、干し草の中から針を探すのに等しい。
魔術を駆使したところで、丸一日がかりになるのは想像に難くない。トートはまず、野良猫たちを探すことから始めた。
二人を追いかけ、息も絶え絶えになったクリフが持ってきた情報は、十分有益だった。
白く、毛足が長く、革製の首輪をつけている。上層の一軒家住まいで、庭から出たことはない。となれば、そう遠くまで行っていないか、野良猫に追い立てられて帰れなくなっているかだ。
手早く上層へ入る許可を取り、トートはアパルトマンの屋根の上にいた。
獣人の耳は人間よりも鋭敏で、小さく、かつ高い音を聞き取ることができる。そして野良猫の世間話は、人の耳には聞こえない高さだ。
もっとも聞き取れるとはいえ、人間として育ったトートに猫の言語がわかるわけではないのだが。
(充分!)
自分の縄張りに見知らぬ猫が入り込めば、必ず喧嘩が起きる。猫がいなくなったのは今朝、そう遠くまでは行けていないはずだ。
(ふふん。いくら二人がかりとはいえ、あたしに敵うわけないじゃん)
冒険者、それも助士であるトートは、ただでさえ鋭い感覚をより研ぎ澄ますことが求められる。足元のボタン一つで作用する罠を見抜き、宝箱を指先の感触と微妙な音のみでこじ開ける。聴覚を頼りに声の主を探し出すことも、立派な技能の一つである。
屋根から屋根へ飛び移り、トートは路地裏をのぞき込む。どうやら野良猫のたまり場に近づいてきたらしい。まだアルグレッドやクリフの声は聞こえない。これならば、自分の勝ちは決まったも同然だ。あとは猫を見つけ次第、さっと捕まえて帰ればいい。
勝利の凱旋を想像しながら、トートは屋根の上を伝っていった。
一方でクリフとアルグレッドはというと、上層への階段で憲兵に捕まっていた。
「クリフォードぉ~? お前足の骨くっついたばっかりのくせになぁーにを走り回ってんだ。アンキュウ先生に言いつけようかぁ?」
「うるせぇよ仕事しろお巡りさん」
「しとるわ。見ろよこのクマ」
「貴重な橙魔術持ちサマ、お忙しいところ大変恐縮ですがはよ通行証よこせ」
憲兵のマティアスは、渋い顔で通行証に押印した。毎日のように上層に出入りするクリフは、二十日間の定期通行証を持っている。通るたびに押されるスタンプは、すでに二ページ目に突入していた。
「お前はもうちっと素直に人の心配を受け取れないもんかね」
「わかる」
「お互い苦労しますね」
「な」
頷き合うアルグレッドとマティアスに、クリフは「通じ合ってんじゃねーよ」と苦い顔になった。
「まあまさか猫探しでケガはしねえだろう。つーか杖は?」
「ねーよ」
「何でだよ」
「俺が聞きたい」
失せ物探しといえば魔術の中でもかなりポピュラーな部類だ。必要とされるからこそ発展するのが技術である。失せ物探しの魔術はその代表であり、規模の大小から精度まで、細分化すれば十数種類存在する。それが使えないとなれば、猫一匹を探し出す難易度は格段に上がる。
「あーもうしゃーねぇな。憲兵に声かけといてやるから、怪我すんなよ」
「助かるぜ」
ようやく上層に入り、アルグレッドはまず手近な商店に向かった。単純に探したのでは、トートには絶対にかなわない。聞き込みで情報を集めていく作戦らしい。
「……なあ兄貴、これ、俺要るか?」
「裏道とか知ってるだろ」
「知ってるけどさ」
無理矢理付き合わされている以上、積極的に協力する義理はない。かといって、猫が見つからなければ帰ることもできない。
しかし、とクリフはアルグレッドの横顔を伺う。この義兄は、短気で口も悪いが、面倒見はよく仲間に甘い。トートもフォレイルも、困っていたところをアルグレッドに拾われたと聞いている。トートがアルグレッドを慕っているのは、そんな経緯もあるのだろう。仲間に向ける信頼だけではないことは、はたから見ても分かりやすい。
そんな二人が、一晩経っても仲直りしていない。
「……なあ兄貴」
「あ?」
「なんで喧嘩してんだ?」
ロアルに言った通り、喧嘩の内容そのものに興味があるわけではない。アルグレッドとトートの問題なのだから、二人で解決すればいい。
だが、長々と巻き込まれるというのならば話は変わってくる。
振り向いたアルグレッドは、あからさまに不機嫌な顔になっていた。
「お前、しょーもねえとか言いそうなのに」
「まあ。だけどあんたらが仲直りしねえと……フォレイルが困るだろ?」
自分が、と言わないのは少々卑怯だろうが、しょうがない。あの人のいい盾士がおろおろするほうが、アルグレッドにはこたえるだろう。
「……」
「……」
「…………」
「…………言わねえと猫がいる裏道教えねえよ?」
「そんなの知ってんなら先に言えよ!」
「声でっか」
これでは、猫が見つかったとして捕まえるのは難しそうだ。
目的の猫は、四階建ての家の屋根にいた。滑りやすいスレート葺の屋根を、トートは四つん這いでじりじりと進んでいく。
トートの読み通り、白猫は他の猫の縄張りから外れた場所にいた。喧嘩の声はしなかったところを見るに、うまく逃げてきたのだろう。しかし、高い屋根に上って、降りられなくなっているようだ。狭い屋根の頂点で伏せ、身を縮めている。
「大丈夫よ~……怖くないからねえ……」
か細い声で言いながら、白猫に近づく。白猫はこちらに気付いたようだ。人間には聞こえない声で、何かを言っている。
(ああ、もう。こういうときばっかり思うんだから)
猫の言葉が話せれば、と。猫扱いされるされることを日頃嫌っているというのに、我ながら身勝手だと思う。
白猫は体を起こし、背を丸めた。尾が揺れている。警戒しているのだろうか。
(もう少し……)
まだ距離がある。あと三歩詰められれば、逃げられる前にしっぽをつかめるだろう。
あと二歩。
一歩。
トートは跳んだ。伸ばした両手が、白猫の胴に届く。
「よしっ!」
白猫は前足を伸ばして掲げられる。一瞬遅れて、事態を理解したような悲鳴を上げた。
「ちょっ、大人しくっ……」
身をよじった白猫が、するんとトートの手から抜ける。
「こら!」
白猫を追い、トートも屋根を駆け降りる。あのまま飛び降りたら、無事で済む高さではない。尾でもどこでも、捕まえることができれば――
「あ」
蹴った左足が、ずっ、と滑った。着地の右足が出ない。受け身を取るより先に、黒い屋根が眼前に迫る。
ぐるりと世界が回った。右肩を強かに打つ。仰向けになれば止まるかと腕を広げるが、その左手も滑ってしまう。転んだ勢いを殺しきれず、さらに一回転。左足が空を踏んだ。
血の気が引く。全身が強ばるのが分かる。視界の端を白が駆け抜けても、それを恨めしく思う暇もない。
右手がかろうじて、雨どいに引っかかった。一瞬宙に浮いた体の重さが、右手だけにぶら下がる。
「くうっ……!」
最悪の事態は免れた。だが、指先だけで自分を持ち上げる筋力はトートにはない。左手を使っても、何とか落ちないでいられるくらいだろうか――
トートの顔面に、白猫が降ってきた。
「ぶ」
間一髪、猫が転がり落ちる前に、左手でそれを受け止める。白猫は下を見ると、大慌てでトートの肩にしがみついた。小さな心臓が早鐘を打っているのが聞こえると、むしろ冷静になってくる。
「……あー、最悪」
右手で自分を、左手で白猫を支える形になってしまった。右手が限界を迎えるまでの数分で、どうにか誰かに見つけてもらうしかない。
白猫はトートの肩によじ登ると、ニャムニャムと口の中で何かを言った。トートは耳を跳ねさせ、じろりと白猫を睨む。
「文句言われる筋合いないけど。あんたのせいなんだから」
「ニャー……」
「にゃーじゃない!」
怒鳴ると同時に、みしりと雨どいが鳴った。トートと白猫が同時に上を見る。
「……動かないでよ」
消え入りそうな返事があった。トートは上を見たまま、短く何度も息を吐く。呼吸を整え、つま先で壁を探る。窓枠とまでは言わないが、引っ掛かりがあれば降りられる。猫が上手くしがみついていてくれれば。
右手に力を籠める。また雨どいが軋む。頬を嫌な汗が伝った。自分の心臓の音がうるさいほど、耳の奥で鳴っている。自分の体はこんなに重かっただろうか。
(ああ、そっか)
落ちそうになればいつでも、大きな手が伸びてくる。軽い自分くらい、片手でひょいと放り投げられそうな手が。そんな状態に慣れきってしまった。
助士は先陣を切るものだ。危ない橋を真っ先に渡って、仲間の道を作るために要る。足の幅しかない道だって、平気な顔で通り抜けなければいけないのに。足を滑らせた程度で危機に陥る助士など、まったく、役立たずというほかない。
「ふっ……ぐ、う……」
そんな暇はないというのに、思考ばかりが巡っている。くだらないことを考える元気があるなら、打開策の一つでも思いついてほしいものだが――
「トート!」
よく知った声が意識に割り込んだ。
「――、」
躊躇は一秒。目を閉じて、開いたときにはもう覚悟は決まっていた。
怖い。怖いがしょうがない。だって、きっとこうしろと言うだろうから。
トートは目を閉じ、右手から力を抜いた。
クリフが声を出すより先に、アルグレッドは走り出していた。地面を蹴る音が重々しく、前へと傾いた体は一瞬で遠ざかる。クリフは追いかけるのを諦め、ポケットに手を突っ込んだ。
アルグレッドが見上げた先に、トートがいる。屋根から足を踏み外したのか、腕一本でぶら下がっていた。
「トート!」
叫ぶ。まだ距離はあるが、彼女の耳なら拾えるだろう。トートと猫一匹くらいならば、受け止められるはずだ。
アルグレッドが叫んだ一秒後に、トートは落下を始めた。ひゅっ、と吸った息が喉に詰まる。飛び降りろとは思っていた。そのほうが、屋上まで行くより確実だから。だが、すぐに手を離せとは言っていない。
「信じるのもっ……大概にしろってんだよなあ!」
アルグレッドは跳んだ。街灯を蹴って一段、向かいの壁を蹴って二段。伸ばした両腕が、トートの背中をがっしりと支える。
「きゃあっ!?」
「動くな、着地する!」
落下の勢いがなくなったわけではない。あとは着地で、どこまで衝撃を逃がせるかに懸かっている。
右足、左足、背中。頭は打ち所が悪ければ死ぬので避けたい。何しろ地面は石畳だ。垂直に落下して叩きつけられるよりはましだろうが、下手に足をついてしまえば骨が砕ける。
(上手くいけ!)
着地までの一秒が、永遠のようにも感じられた。
「――――」
遠くで、誰かが叫んだ気がした。
地面に着く寸前。ふわり、と見えない手がアルグレッドを受け止める。
それは一瞬で、気付かないほどささやかな援助だった。だが落下の勢いを和らげるには十分で、アルグレッドは両足で危なげなく着地する。腕の中でトートは、猫を抱えたまま震えていた。
「無事だな」
「うん」
「猫も」
「……うん」
アルグレッドはゆっくりと息を吸い、倍の時間をかけて吐いた。地面に尻をつき、空を見上げる。ようやく、強張った肩から力が抜けた。緩んだアルグレッドの顔を見上げ、トートも安堵の息を吐く。
「……そろそろ離して? 結構痛い」
「あ? ああ……」
ぱっとアルグレッドは両手を開く。抱え込んだ瞬間につかんだ腕と腿に、赤い手形が残っていた。猫を片手で吊り上げ、トートは腿をさする。
「着地、ずいぶん上手だったわね」
「……まあな」
「……その、ありがとう」
蚊の鳴くような声で言ってから、トートは顔を逸らした。ようやくアルグレッドの膝から立ち上がり、両腕でしっかりと白猫を抱く。白猫は地面が近いと見るや逃げ出そうとしたが、トートが立ち上がるとまた大人しくなった。
「ギルドに戻りましょ」
「お、おう」
アルグレッドも立ち上がる。と、道の向こうから、ようやくクリフが現れた。ぜえはあと肩で息をして、この肌寒い時期に汗をかいている。
「お前らっ……人、巻き込ん、どいてなあっ……」
「……悪い。猫捕まえたから、一杯奢るぜ」
「はぁ? 捕まえたのかよ。んじゃいいわ、俺はちょっと休んでから帰る」
クリフは手近なベンチに腰掛けると、しっし、と二人を追い払う仕草をした。トートは「悪かったわね」と言い残し、ギルドへと足を向ける。が、アルグレッドはクリフの前に立ったまま、トートが遠ざかるのを待っていた。
「……何だよ、兄貴?」
「ありがとよ」
は、とクリフは笑みをこぼす。
「何のことだか。さっさとギルドに戻って、ちゃんと仲直りしてくれ」
さすがに今晩も宿を提供するほど、クリフもお人好しなつもりはない。ロアルが言っていた通り、簀巻きにしてアルグレッドたちの部屋に放り込むことになるだろう。
「……そうだな。そうする」
アルグレッドは足早にトートを追った。
二人が十分遠くなってから、クリフはベンチの上で目を閉じる。
(……疲れた……)
杖を取り上げられたとはいえ、予備の魔導鉱石は持ち歩いている。だが小指の爪ほどの大きさしかない石では、せいぜい触れた猫を眠らせる程度の魔術が関の山だ。魔導鉱石で処理しきれなかった魔術の毒は、当然魔術師本人に蓄積する。
(さすがに路傍で寝るわけにはいかねえけど……)
もうしばらく、日光浴をしてから帰るとしよう。
結局クリフがギルドに戻ったのは、一時間後、ロアルが迎えに来てからだった。




