1)精霊たちのいるところ
雪がうっすらと地面を覆っていた。長い川沿いの道は風を遮る木々もなく、馬車の馬もコートを着ている。休憩時間には、乗り合わせた魔術師が交代で防寒魔術を張っていた。
「ソル、くっつくなら君のほうがいいって」
「お前体温ないもんな」
「ひどいや」
つい先刻まで雪に興味津々だったソルードは、雪の上に手形を一つつけたところで戻ってきた。休憩所の端にいるクリフの周囲こそ、焚き火から遠くて寒いのだが。ソルードはクリフの足に尾を巻きつけて座り込んでいた。
「黒は熱を吸収するんだよ。日光が弱い冬こそ、ボクにくるまってもいいと思わない?」
「ろぉ、つめたい」
「日の光より風の方が強いもんな」
「ちくしょう」
御者がホットワインの鍋を片手に、三人に声をかけた。クリフは一杯だけ受け取り、礼がわりに御者の外套に魔術をかける。乗客は幌の中だが、御者はずっと外にいるのだ。寒さ対策はいくら重ねても悪いことはない。
「次の駅で降りるよ。そこからちょっとのところに、ギルドの出張所があるみたい」
「そうか」
「精霊って気難しいし、礼儀があるなら教えてもらえるといいんだけど」
現代では精霊と人間が関わることはまずないが、【幻惑の森】は千年以上の歴史があるとも言われる不可侵領域だ。精霊が遥か昔のまま、支配力を持っていてもおかしくはない。
「お前の時代は精霊、多かったのか?」
「ううん。むしろ今の方が多いんじゃないかな。あの時代は、人間が踏み入ってない場所の方が少なかったし。大地も海も、空も」
「ああ、そりゃ精霊の力も削がれるな……」
強くなった風に身震いをして、クリフは外套の前を閉じる。これから向かう先へと目を向ければ、空を重たく雲が覆っていた。また雪になりそうだ。
円形のテーブルに、クリフは古い地図を広げる。
「精霊の森、【幻惑の森】は大きく二層になっている。俺たちがいるのはその外層。街道も通ってるし、少し環境魔力が濃いくらいだな」
乗合馬車の停留所近くには、小さな石造りの家が一軒だけ建っていた。クリフたち三人にテーブルと椅子を提供し、家の主人は暖炉の前のロッキングチェアに座っている。
「ここから少し北に進むと、白い石が敷き詰められた道に出る。そこが境界線だそうだ。精霊に気に入られないと入れないし、精霊に気に入られすぎると出てこられない」
両手をテーブルに乗せ、ソルードは地図をまじまじと覗き込む。
地図には、円で囲まれた森と、その中に点在する集落が描かれていた。クリフが指差しているのは、その円の外側。小さく『避難所』と書かれている。
「せーれぇ?」
「ああ。古くは自然のあらゆるものに宿った魔力が意思を持ったもので、現在では五大元素の結晶体とも」
「それ、ソルには難しいと思うよ」
頬が天板につくほど首を捻り、ソルードは難しい顔になる。その頭をわしわしと撫でながら、ロアルは一つの集落を指差した。
「開かれてるのって、この風の集落だっけ?」
「おう」
「ボクが探してるの、風に咲く花だもんね……何か情報もらえるといいんだけど」
腕を組み、クリフは唸った。まず精霊に気に入られる、その方法が分からなければ何が起こるかわからない。ダンジョンとしての名前こそあれど、冒険者ギルドが管理、監視をしているわけでもない。だからこそ、パーティとしての人数が足りていなくとも挑めるわけだが。
ギィ、とロッキングチェアが軋む。クリフが振り向くと、家の主人が暖炉に薪をくべていた。クリフはロアルに目配せをして、主人に近づく。
「ご主人。薪が少なそうだが、取りに行ってこようか。間借りしているのだし、雑務があれば引き受けたい」
初老の男は、チラリとクリフを見上げる。目尻の皺が深くなり、髭で隠れた口元が笑ったような気がした。
「そう媚を売らずとも。教えるよ」
「……どうも」
見え見えの下心に、主人は愉快そうに笑った。
「しかし、まあ確かに仕事は溜まっている。今日明日で、それを片付けてもらいたい」
「もちろんいいよ。ソルも床掃除とかならできるかな」
主人は窓際の机から、折り畳んだ紙を持ってくる。ロアルがそれを開くと、中には食材や道具の名前がずらりと並んでいた。
「ここから、隣町まではまあ、歩いて一日くらいだ。金はそこに」
「なるほど。確かにご老体にはこたえるだろう。ボクが引き受けよう」
財布を受け取り、ロアルは颯爽と駆け出していく。主人は次に、机の下にいたソルードを指差した。
「ぴゃ」
「君には、そうだな、庭の草取りでも頼もうか」
ソルードは低い姿勢でクリフに駆け寄り、胴体にしがみつく。クリフは「後で俺も一緒に」と頷いた。
「君は魔術師だな?」
「はい」
「ではそうだな……掃除は得意か?」
「畑仕事の次くらいに」
腕まくりをして、クリフはにっと歯を見せた。
ロアルが戻ってきたのは日暮れ時だった。自分の倍ほどの大きさの袋を担ぎ上げ、ロアルは足でノックをする。
「うわーお、綺麗になったねえ!」
室内の埃っぽさはなくなり、ランプに火が入っていた。橙色の光が、窓から外へと漏れている。暖炉に突っ込まれた鉄板から、甘い香りが漂っていた。火の番をしているらしいソルードが、ぱっとロアルを振り返る。
「ろぉ!」
「ただいま。二人は?」
ソルードはロアルの後ろを指差した。
「おかえり。早かったな」
農具を片手に、クリフはロアルに声をかける。買い物袋を下ろすと、その重さで床が軋んだ。
「まあね。……君、クワ似合わないねえ」
「は?」
農具を置き、クリフは眉間に皺を寄せた。
「ああごめん、似合」
「こいつはクワじゃなくてスキだ」
「そっち?」
木製のバケツとブラシを持って、主人が家の裏からやってくる。ロアルの大荷物に、小さな目を丸くしていた。農具と靴の泥を洗い落とすクリフに、ソルードが駆け寄る。
「にいしゃ」
「ん?」
「くろい」
「焦げてんのか!?」
ロアルが暖炉から鉄板を引っ張り出すと、四枚のパンが乗っていた。焦げたのは奥の一枚のみで、それも表面を削げば食べられそうだ。卵と牛乳がたっぷり染み込んだ分厚いパンに、砂糖がふりかけられている。鉄板を覗き込んで鼻を鳴らし、ソルードは「ほあ」と声を漏らした。
「おお、焼きあがったか。バターも乗せよう」
「いいんすか? 豪勢ですね」
「久々の客人だからな」
主人にはコーヒーを、自分には紅茶を、ソルードにはホットミルクを用意して、クリフは席につく。ロアルは見回りと適当に理由をつけ、トーストを受け取って出て行った。
「夜の森は危険なんだが……」
「あいつ、結構夜目が効くので。それに、顔を見せたがらないんですよ。すみませんね」
クリフに後を任せ、ロアルは家から離れる。木々の間から差し込んだ月明かりが、街道に落ちていた。温もりと談笑の漏れる家が遠ざかるにつれて、シンと冷えた夜の気配が強くなる。もちろんその冷たさも暗闇も、ロアルには感じ取れないが。
街道に、ロアルの影が色濃く落ちる。
「……それで」
振り向いたロアルの前に、一人の女が立っていた。
「君は何者?」
街道には、ロアルの足跡しか残っていない。女は擦り切れた外套で口元を隠し、長い前髪の間からじっとロアルを見上げていた。服も随分古いのか、袖口や裾がほつれている。そこから覗く皮膚には、黒い紋様が刻まれていた。
「随分禍々しい気配。まるで全身拘束された囚人だね」
「……的を射ている」
しゃがれ声で呟き、女は片手を額に当てた。薄緑に色づいた黒髪を、細い指がゆっくりと掻き上げる。
「俺はグレン。今は精霊殿の小間使いをしている」
あらわになった左目は、瞳は真紅、それ以外の部分は全て黒く塗りつぶされていた。左目を囲うように、黒い薔薇の刺青がある。頬には、小さな三日月型のアザがあった。
「何か御用?」
「用はない。俺の仕事は、視ていること」
茶と赤の瞳が、ロアルを映す。切れ長の目は無表情と相まって、冷徹な印象があった。
「お前たちがどこへ行こうと、何をしようと、視ている」
警告ともとれる言葉。ロアルは「そう」と軽く返事をした。僅かに目元を動かしたのち、グレンは影の中へと消える。水面のように影が揺らいだ。
しばらく、ロアルは自分の影を見下ろして黙っていた。風が外套を揺らし、それで思い出したかのように手を叩く。
「そうだ、君、生身の人間だよね」
ロアルはしゃがむと、自分の影にトーストの包みを置いた。
「あったかいうちに食べてくれない?」
月明かりでの影は薄いままで、そこに誰かがいるとは、ロアルにも感じ取れない。
「もてなしを受け取れないのは心苦しいしさ。賄賂とかじゃないよ、全然」
一瞬影が揺らいだかと思うと、ぬっと手だけが現れ、包みをつかんで沈んでいった。ロアルは地面に手を振る。
「……不思議な魔術だ。クリフは知ってるかな」
立ち上がると、ロアルはその場でくるりと一回転する。瞬間、鋭い視線が、四方八方からロアルを射抜いた。姿こそ見えないが、魔力を持ってさえいれば、ロアルにはその視線が感じ取れる。
(クリフのお客さんではなさそうだし……やっぱり精霊のたぐいか。殺意はなさそう)
砂のついた手を叩き、ロアルは軽い足取りで道を戻った。
朝日の中で主人に別れを告げ、三人はいよいよ森に踏み込んだ。
街道から逸れ、しばらくも進むとあたりは薄暗くなった。主人の言葉通り、見上げた木々の間に、白い紐が渡されていた。梢に紛れそうなそれを辿りながら、獣道を進んでいく。
森の中は、高い木ばかりではない。分かれた若い枝や低木、草花が地面をすっかり覆っている。加え、唯一の目印である紐は、ロアルには見えないらしい。必然的に、クリフが先頭に立って道を切り開いていた。
続くソルードは、片手でクリフの外套をつかみ、急ぎ足で後を追っている。最後尾に、二人分の荷物を持ったロアルがいた。
「ああくそ、枝が多いな」
顔のあたりの枝を押し上げる。背後のソルードは、低木に引っかかる背丈なのでもっと大変だろう。許されるのならば、枝を片っ端から切って道を作るのに。
精霊の機嫌を損ねないよう、可能な限り枝を折らないこと。木の葉や花、特に新芽には触れないこと。主人曰く、遵守するというよりも、守ろうとする姿勢が大事とのことだったが。
「なんだか、あたりがぼやけてる。クリフ、視界はどう?」
「ちょっと霧が出てきたな。そろそろ境界線……」
クリフは言葉を切り、振り返る。ほとんど同時に、木々をかき分け、何かが近づいてくる音がした。
「入れ!」
外套を広げる。二人が外套に飛び込み、クリフがしゃがみこんだ、次の瞬間。
うなりをあげて、風が三人の頭上を通り過ぎた。揺れる枝が、クリフの頬を叩く。びゅうびゅうと吹き抜ける風は、まるで遮るものがない丘から吹き下ろしているようだ。吹き飛ばされないよう、杖の先で外套を押さえる。
風の塊が去ると、ぱらぱらと木の葉が落ちてくる。木の葉の擦れる音が遠ざかり、鳥の鳴き声が戻ってきた。木のうろからリスが顔を出し、きょろきょろと小さな頭を動かしている。
「……よし。吹っ飛んでねえな?」
「うぃ!」「大丈夫」
のそのそとクリフの腕の下から這い出し、ソルードは鼻をひくつかせる。
「にいしゃ」
「ん?」
「せいれぇ」
ソルードは、風が通り過ぎた先を指さした。クリフは目を凝らす。白い霧がかかる木々の間で、ゆらりと動く影があった。
「今のは風の精霊か」
「わざわざボクたちの上を通っていくなん、とわあっ!?」
歩き出したロアルが、派手に転ぶ。しゃがんだソルードの視線の先には、先が結ばれた草の輪があった。「おいおい」と立ち上がったクリフは、枝に頭をぶつける。跳ねて戻った枝が、二度三度とクリフの後頭部を突いた。
「いってぇ!」
「にいしゃ、ろぉ、どじ?」
「さっきここに枝なかったって! 次はお前だぞ」
「へへへ。ソル、ころばないもんね!」
両手を掲げ、ソルードは立ち上がる。
その頭上に、枯葉の塊が降ってきた。
「…………」
「……ふっ……」
頭を振り、ソルードは頭の枯葉を払う。見るからに不機嫌になったその顔に、クリフとロアルは同時に吹き出した。
「あっははははははははは! ちびお前、顔っ……ははははは!」
「あはは、精霊も子供には優しいみたいだ。ふふっ……葉っぱ……ふ、ははははっ!」
「ううー、むー、にいしゃ!」
腕を上下させ、ソルードはクリフに飛びつく。クリフは「はいはい」と頭の枯葉を取ってやった。
「しかし、これはまずい状況だよ」
ひとしきり笑ってから、ロアルは急に真面目なトーンになる。
「魔力が濃いせいで、ボクの視界がよろしくない。さっきだって気付いてたら転びやしなかったのに」
「それは負け惜しみ……いや、うん。そうだな。幸い俺の視界は問題ない」
「じゃあー……」
ロアルがクリフを見上げ、クリフは嫌な予感に顔を曇らせた。
精霊の住む森には、絶えず深い霧が立ち込めている。それは侵入者の視界を奪い、感覚を狂わせる。木々の間に何とか見える白い布が、唯一の道標だ。
そんな森の道を、迷いなく通過する一行がいた。
「最初っからこうしときゃよかったんだ」
「自分の足で歩くのも冒険じゃない?」
「お前、足ねえだろ」
すいーっ、と、木々の間を一人の魔術師が飛んでいく。絵物語の魔女のように、箒ではなく、杖に乗って。
「ボクじゃなくて、ソルの話」
「ご機嫌だぜ」
「ソル、これ好き!」
杖の上に胡坐をかき、クリフは足の上にソルードを座らせている。ソルードは両腕で、黒い布の塊を抱えていた。
「しかしまあ、お前……俺、こんなに自分を大事にしねえ奴初めて見た」
「君にだけは言われたくないね。かさばらなくっていいだろう?」
黒い布は、ロアルの外套だ。服から仮面からブーツまで、ロアルを構成している衣装すべてがその中に入っている。双剣だけは、クリフが腰に吊るしていた。ロアルの声は、結び目に括りつけた外套留から聞こえている。
「にいしゃ、ろぉ、ちいさいちいさいねぇ」
「そうだなぁ、実体がない概念的存在だから小さい小さいだなあ」
並べ立てられた難しい言葉に、ソルードは「じぃ……」とだけつぶやいて諦める。
「君、そういうところ子守りに向いてないよね」
「うるせェな」
あたりに立ち込める霧には、風の精霊が通った穴ができていた。布の目印は、その穴の向こう側へと続いている。
白い石の境界を前に、クリフは一度杖から降りる。境界を踏み越えると、頬に触れる空気の質感が変わった。ソルードはロアルを抱えたまま、ひょい、と境界を飛び越える。
「ずっと思ってたんだけど。ソルはどうして、クリフをにいしゃって呼ぶんだい」
「にいしゃ?」
ソルードはクリフの外套を引っ張った。
「ボクの名前はギリギリ、原型残ってるのに」
境界から、冬の冷えた風が、春先のような温かさに変わる。先ほどよりも濃い魔力は、魔術の起動によって一気にクリフへと流れ込む。
「今のお前は原型ないけどな」
「定形がないんだから原型もないだろ? いやそうじゃなくって」
不可視な力の流れが、霧の形となって目に見える。魔力を絞りながら、クリフは慎重に杖を空中に留まらせた。ソルードからロアルを受け取り、杖を腰の高さまで下げる。
「クリフだったら、くう、とかになっても良さそうなのに」
「……にぃ、ううん……」
首を左右に振ってから、ソルードは両手を合わせた。
「にーさん!」
「……『お兄さん』か?」
「うぃ!」
正解、とソルードは何度も頷く。杖から手を離し、クリフはソルードを持ち上げた。
「あー……確かに俺最初にそう言ったがなあ……慣れねえわ」
「クリフ、弟だもんね」
「まあ兄でもあるけどさ。ガラじゃねえよ」
「うん?」
ソルードを杖に座らせ、改めて歩き出す。頭の上に乗せたロアルが、何やら文句を言っているようだった。片手でソルードの手を引き、片手でロアルを支える。
霧が溜まった雫が、ぽたりと木の葉から落ちてきた。ソルードは両腕でロアルを受け取る。猫でも抱いているように、ソルードはロアルを撫でた。
「ろぉ?」
ロアルはしばらく、じっと黙った。その様子に、クリフも表情を引き締める。
ここから先は、精霊の領域。
生ぬるい風が、クリフの首筋を撫でた。
「……?」
何かが聞こえた気がして、クリフは振り返る。そこには、何の変哲もない獣道。
ぞわり、と悪寒が背中から頭へと駆け上がる。反応したのは理性ではなく、本能だ。
例えば野山で、熊を見かけた時。どれほどの備えがあっても、人間であればまず恐怖する。それは、身一つではあまりに弱い人間であるからこその、生存本能の警告。
「ロアル!」
叫びながら、片腕でソルードを引き寄せた――つもりだった。
ぱしゃりと、指先に水の感触があった。ソルードがいると思って手を伸ばした場所には、何も残っていなかった。はっと息を飲んで目をそちらに向ければ、虚しく水をつかむ左手がある。
(やられた!)
数歩先すらも霞む濃霧。何が紛れていても、見えはしない。そもそも五感で世界を捉える人間には、魔力の結晶体である精霊を知覚すること自体不可能だ。
だから、霧の中に水の精霊が混ざっていても、気付けない。
「クソッ!」
視線を巡らせると、まだ境界線はそこにあった。見上げた先には、道標もある。自分が移動させられたわけではないらしい。それとも、これも幻覚だろうか。目を離した一瞬で、声ひとつあげさせずにあの二人を連れ去ったのか。それならば、自分が昏倒して夢を見ていると考えたほうがまだ可能性がある。
「……スー……」
(落ち着け)
息を吸い、倍の時間をかけて吐く。
(杖もない……温存したほうが良さそうだな)
「『術式休眠』」
体の緊張を解き、クリフは道標に沿って歩き出す。大股で、ほとんど走っているような速さだった。
クリフの視界を塞ぐように、枝が降りてくる。クリフがそれを避けると、足元の根が起き上がり、足を引っ掛けた。つんのめったクリフの背に、枯葉が落ちてくる。
「…………」
笑い声。それははっきりと耳に聞こえるわけではなく、木の葉が擦れ、風に揺れる音がそう聞こえるだけだ。だがその声は確かに、クリフを取り囲んでいる。
悪意はない。それがなおさらに、気に障った。
「笑えねェんだよ」
クリフの足が、根を踏みつけた。ギャッ、と短い悲鳴が降ってくる。
「お前らと遊んでられねぇんだよ、今は!」
笑い声が止んだ瞬間、クリフは道標の方角へと走り出した。足を捉えようとする草を根こそぎ引き抜き、行く手を阻む枝を潜り抜け。小さな何かが、木の上を追って来ているのを聞きながら。
(こいつらは多分木霊、精霊の中でも下位種のはず!)
振り切れるとは思わなかったが、勝算はあった。
『風の精霊の集落がいい理由は、大きく二つ』
主人の言葉を思い出し、クリフは息を切らせながら足を動かす。
『一つは、外界からの人間の出入りを嫌わないこと。もう一つが、』
森の先に、白い光が見えた。全身に絡みついてきた濃霧が晴れ、木々の切れ間に、白い道が現れる。
『風の精霊は最上位ゆえに、あらゆる精霊の干渉を拒絶できること』
木の皮のような手が、クリフの背中へと伸びる。逃げるな、もっと遊べと、恨み言のように枝を鳴らしながら。
クリフの足が、白い道へと踏み込んだ。
「――――っはあっ!」
瞬間、紙一重で触れていなかった指先が、森の中へと引いていく。蔦も草も枝葉も、霧の雫ですら、一斉にクリフから離れていった。
白い道の先で、森は唐突に途切れていた。視界が開け、青空から陽の光が降り注いでいる。暖かい風が、優しくクリフを出迎えた。
小鳥が、枝をくわえて空を渡る。遥かな記憶をくすぐられるような、鮮やかな蒼天だった。その空と同じ色の蝶が、クリフの鼻先をふっとかすめる。
「……遺跡……?」
石造りの寺院のようなものが、クリフの前にはあった。大きさの異なる四角錐を切って重ねた形をしている。陽の光を受ける石壁は風化し、表面に傷が目立ってなお、眩しいほどの白さを保っていた。
「エルトマーレの墓所だ」
声に振り返ると、薄荷色の青年が立っていた。




