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蒼天のアルターレ  作者: 日凪セツナ
第三章 薔薇と兎
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2)風の精霊ハユ・エ・トゥラ

 精霊というのは本来、人とは全く異なった常識の中に存在する。そもそも、肉体を持つ生物ですらない。言ってしまえば、自然が便宜的に人格と顔を持っているようなものだ。


「万物の霊長、天秤の守護者……」


 そして生物という括りの中でも、とりわけ人間は鈍感である。世界を構成し、己の命となっている魔力――魔素(オド)原素子(マナ)すら、五感では捉えることができない。

 或る精霊は、そんな人間を嗤った。人間が魔術に手を出すのは、目隠しをした幼子が荒野に飛び出すようなものだ。

 或る精霊は、そんな人間を慈しんだ。見えないものをつかもうと、ああも必死になる暇があるのは、人間くらいのものだ。


「思いも思い上がり、星の王と名乗った人の子らに、我はとても興味(・・)がある」


 凪いだ水面のように穏やかに、涼やかな声は語る。

 小さな池の上に、その女は立っていた。森の木々に囲まれた池は霧が深く、遮るものがないというのに陽の光が届かない。

 その水面の上に、水の球が浮いている。クリフの杖とロアルを抱えたソルードは、その中にいた。


「息はできるだろう? そう青白い顔をせずとも」


 水の球は確かに、内側に空気を含んでいた。だがソルードは首を振り、何度も浅い息を吐く。マリンブルーの瞳が、面倒そうにソルードを見やった。

 女は全身、青く色づいた水で形作られていた。川の流れのような髪と、透き通る体。水面に触れる爪先は、池と同化している。


「恐ろしいか。それも良い……さて、汝にはちと、我の研究材料になってもらおう。案ずるでない、死にはせんよ」


 ソルードの手が、何度も水の球を叩く。女は不愉快そうに、美しい顔を歪めた。


「そう暴れるな。名誉なことではないか」


 両手を水の壁に当て、ソルードは俯いた。開いた口から、息が喉へと入っていかない。空気はある。だが息を吐くことはできても、吸うことがままならない。視界が明滅し、胸が痛くなる。


「ソル」


 抱えた布から、灰色の手が飛び出した。

 結び目が解け、黒い外套が広がる。内側には、きちんと折り畳まれた黒衣があった。風船に空気が入るように、服が人の形に膨らんでいく。


「……何だ?」


 怪訝な顔をする女に背を向けて、ロアルは両手でソルードの頬を包んだ。


「ソル、大丈夫」


 フードを持ち上げ、仮面をはめ込んで、存在しない肉体を模る。そうして完成した魂の容れ物は、ソルードの目元を優しく拭った。


「ボクがいる」

「……ろ、お」

「いい子だ。ちょっとだけ、目を瞑っていられる?」


 ソルードは何度も頷き、ロアルにしがみつく。ロアルが服を開き、ソルードはその内側の空洞に潜り込んだ。


「さて」


 クリフの杖を握り、女を一瞥。

 水の檻が、内側から弾け飛んだ。


「ほぉ」


 女が片手を挙げると、池の水がそれに従って槍となる。無数の槍は、水飛沫の中心へと放たれた。


「危ないなあ!」


 ロアルは、女の背後に着水していた。ブーツの足は水面を踏み、手に杖を握っている。


「お前、魔術師か」

「いいや」


 杖を槍のように構え、その下端で女の胸を貫く。だがそれは、水面を剣で突くようなものだった。抵抗もなく杖が貫通し、引き抜けば即座に穴は埋まる。


「しがない兵士さ。八百年ほど前のね!」


 波打つ水面を蹴り、ロアルは女から距離を取った。

 水面が泡立ち、女の指に従って盛り上がる。透明な指が弧を描くと、その延長線上に剣が形成された。


「そうか。お前も、研究したい」


 指が鳴り、剣が氷へと変化する。


「ソル! しっかりしがみついてなよ!」

「う、い!」


 杖を地面に置き、ロアルは身を低くした。

 ロアルの視覚は、物質の放つ魔力を探知することで擬似的に補われている。故に、濃い魔力の結晶である精霊の姿は、これ以上ないほどはっきりと知覚できた。

 剣が飛んでくる。ロアルは大きく一歩踏み込み、身をひねった。氷の剣はロアルの両脇をすり抜ける。灰色の手が、剣をつかんだ。そのまま一回転。直線に飛んだ剣の勢いを吸収する。


「悪くない武器だ」


 水面を蹴り、ロアルは一瞬で精霊との距離を詰める。放り投げられた剣が、精霊の腹を貫いた。


「これはソルのぶん!」


 精霊の頭上を飛び越しながら、頭を割る。


「これはクリフのぶん!」


 輪郭がほどけた剣を、精霊の後頭部に叩きつけた。


「ここから全部! ボクのぶん、だあ!」


 蹴りが胴の中心をとらえ、水の精霊は弾け飛ぶ。回復が始まる前に、ロアルはその場を離脱した。その一瞬、自分に許された、最高速度で。

 波打つ水面は、まるで【八重塔遺跡ルイン・ヴェステージア】のナイトメアだ。水の中へと引きずり込もうと、ロアルの全身に手を伸ばしてくる。それを蹴散らして、ロアルは土の地面に着地した。


最っ高(ファンタスティック)! さっすがボク!」


 杖を拾い、そのまま池から離れる。決して背は向けず、迎撃の体勢を保ったまま。


「高慢ちきな精霊様。ご存じでないだろうけど。ボクもこの子も、知的生命体なんだよね、あなたとおんなじ!」


 精霊は、すでに池のふちに足をかけていた。氷の靴で足跡を刻み、ずかずかとロアルに近づいてくる。流動する体は、色ガラスのように透けていた。


「知能と価値は同一ではない」

「あっそう。そういう議論は飽きたかなあ。宇宙の真理を解する賢者も、それに踏みつぶされる蟻も同じ命。そうだろうけど、そうじゃなくって!」


 一定距離を保ち、ロアルは大げさに首を横に振る。


「ボクたちも意思があるし痛いって思うし嫌だって思うんだって話」

「お前たちには価値がある。肉のない人間。ヒトを模した獣。我の目的に使えそうだ。それは価値となる」

「ウワァすっごい言葉通じない!」


 言葉で応戦しながらも、ロアルは焦燥感をつのらせていた。いっそ走って逃げてしまえればいいが、ここが森のどのあたりで、どの方角に行けば逃げ切れるのかが分からない。


「精霊の感覚で人の価値を計らないで欲しいかなあ」


 そしてロアルの最大の懸念は、相手の精霊の支配がどこまで及ぶか、であった。霧も水、氷も水ならば、人間の体液も水と解釈されかねない。まだ子供であるソルードならば、肉体の七割は水分だ。

 せめて、クリフがいれば。対抗手段でも知恵でも知識でもいい。何か、突破の糸口になる手がかりが欲しい。


「ああ、ああ分かった。道連れがいたな。それも案ずることはない。お前たちのことを記憶から綺麗に消してやる。初めからお前たちはいなかった。それで良かろう?」

「何にもよくないね。ボクたちは後顧を憂いてるんじゃない、今、ここから! 解放して欲しいって言ってるんだ」


 美しい精霊の顔が、苛立ちに歪んだ。まずい、とロアルは身構える。


「よく分かった」


 瞬間、ロアルが空中へと吊り上げられた。足をつかんでいるのは、地面から生えた腕だ。水で形成されたそれは、ロアルを吊るした状態で氷へと変化する。


「先にお前を黙らせよう」

 両腕で体を抱き、内側のソルードを受け止める。見下ろした地面には、水で魔法陣が描かれている。クリフが描くものよりも簡素な、二重の円と六角形。その外側の円沿いに、小人が手をつないで立っていた。

 肉体があれば、総毛立っていただろう。ロアルはとっさに身をよじる。だが、がっちりと握られた両足は、少しも動いてくれなかった。


『おいで』


 声が、ロアルの内側に響く。ぐわんと、横殴りにされたように視界が揺らいだ。


『おいで』『おいで』『おいで』『おいで』


 (さそ)う。(いざな)う。こちらへおいでと、それが心地よかろうと。


「――――っ!」


 悲鳴を噛み殺す。強烈な死の予感。魂が、無理矢理に今の場所から引き剝がされる感覚。神経も脳もないはずの自分が、『感覚』に襲われて恐怖するなど。


(いやだ)


 一度は受け入れた死。世界からの消滅。それが今、目の前にある。望んだこともあった。しかし今は。


(クリフ――)


 今だけは。


「ロアル!」


 漂白された視界に、金色の光が割り込んだ。




 焼けつくような熱風が襲ってくる。魔法陣と氷の腕は、風に煽られて形を崩した。

 そのただなかに、クリフは身一つで飛び込んだ。風に背中を押され、手を伸ばす。垂れ下がっていたロアルの手は、つかんだ力そのままでくにゃりと潰れる。

 頭から落下したロアルを、両腕と胴で受け止めた。その重みに驚きながら、クリフは地面に倒れ、衝撃を受け流す。一拍遅れて、杖が落ちてきた。


「精霊!」

「馴れ馴れしい!」


 怒鳴り声とともに、風は一か所に集まり、人の姿をとる。薄荷色の青年は、三人と水の精霊の間に割り込んだ。


「ハユ・エ・トゥラ……!」

「ルル・リ・テハウ。彼らは()れの客人(まれびと)。手を出すことは己れへの宣戦布告とするが」

「戯れ言を!」


 水の精霊が吼える。


「我が先に捕えた。我のものだ」

「この魔術師は己れの縄張りに踏み込んだ。己れはそれを保護すると決めた。望み通りに。貴様のように拒絶されることもなく」


 せせら笑い、風の精霊は水の精霊を指差す。


「はん。威厳も信仰もなくして偉そうに」

「お前こそ、大切なものをずいぶん失くしたらしい」


 空中に浮かび上がった雫が、風の精霊へと襲いかかる。だがそれは、風の精霊に到達する前に霧散した。


「いいのか? ルル。『黒』だぞ、この男」


 風の精霊は、端正な顔を意地悪く笑わせる。水の精霊はクリフに視線をやり、しかしすぐに声を荒げた。


「まだそんなものに執着するのか。風のくせに」

「……やれやれ。やはり貴様とは意見が合わない。魔術師!」

「おっ、え、おう!」


 クリフが杖を立て、風の精霊が片手を掲げる。


「我が名によって宣言する。クリフォード。ロアル。ソルード。三つの魂を我が友として迎え入れる」

「……ハユ!」

「ではな」


 風の精霊が手を合わせる。と、四人の姿は、小さな旋風に包まれた。

 一瞬、気を失った。両腕でロアルを抱えたまま、クリフは石畳に投げ出される。


「つっ……、ロアル、ソル!」


 日の光に顔をしかめながら、ロアルのフードをつかむ。ロアルの仮面の下から、真っ青な顔のソルードが現れた。


「にいしゃ」

「もう大丈夫だ」

「ん、うぅ」


 這い出したソルードは、クリフに全身でしがみつく。ソルードをあやしながら濡れそぼったローブを振り、クリフは怪訝な顔になった。


「ロアル?」


 服は人型につながってはいるが、手を離せば、そのまま地面の上でぺしゃりと潰れてしまう。顔があるべき場所に仮面を戻してみるが、手を離すと仮面は地面に落ちた。


「……ろ……、おい、やめろ! 冗談なら今すぐやめろ笑えねえ! ロアル!」


 クリフの剣幕に、ソルードは身を縮めた。

 ハユ・エ・トゥラは腕を組んでロアルを見下ろす。クリフがすがるように見上げると、やれやれと首を横に振った。


「それの魂はまだそこにある。だが」


 半透明の指先が、外套留に触れた。


「隠れている。ルルの術から逃れようと。この水晶、つながっている」

「……どういう」

「人間の目には見えない。世界に満ち満ちるエーテル……お前たちの言葉で言うならば、魔力によって形作られた路」


 薄く発光した外套留から、細い糸が空中へと伸びる。


「魂の航路だ」


 光の糸は、太陽の方角へと進み、その先で見えなくなる。ソルードはクリフの視線を追い、太陽にまぶしそうに目を細めた。


「まあ放っておけば戻ってくるだろう。物干しにでもかけておいてやればいい。歓迎しよう。子らも喜ぶ」


 ハユ・エ・トゥラが手を上げると、クリフとソルードの襟首が持ち上がり、二人は立ち上がらせられた。

 クリフがたどり着いたのは、集落の端、細い川と高い生垣に隔てられた場所だった。

 風の集落は、森の中の窪地にある。周囲よりもさらに立派な大木が立ち並び、その間に白い石の道が敷かれていた。

 ロアルを両腕で抱え、クリフは生い茂った生垣をくぐり抜ける。クリフの後ろから顔を出し、ソルードは目を丸くした。

 木々の枝葉が、屋根のように集落を覆っている。隙間から落ちる光が、白い道を点々と照らしていた。裸足の子供たちが、絡み合った枝を飛び移って遊んでいる。

 そしてその大木の枝に腰掛けるように、巨大な球がそこかしこに造られていた。


「……あれ、家か?」

「そうだ。己れの眷属はヘリアスの葉とヴィドの蔦で家を作る」


 球は、蔦で編んだ籠の中に、大きな葉が幾重にも重ねられて作られていた。蔦は上端で一つに編み上げられ、大木の枝へとつながっている。玄関や窓には、薄緑に染められた布がかかっていた。大木の幹に沿って、家へとつながる螺旋階段が作られている。

 家々の入り口は、一つの石碑へ向いていた。集落の中心、一段窪んだ場所に、円形の広場が作られている。精霊はその石碑に駆け寄ると、三人を振り返った。


「お前たちもきっと気に入る。いい場所だ」


 ハユ・エ・トゥラが手を振ると、風が木々の枝を揺らした。その音を合図に、いくつかの家の入口が上がる。ハユ・エ・トゥラは、その中で一回り大きい家を指さした。


「まずは長に会ってくるといい。お前は、子どもたちと遊んで来い」


 差し出された手を見て、ソルードはぶんぶんと首を横に振る。クリフの体をよじ登り、両手足と尾でクリフにしがみついた。


「蜥蜴のようだな」

「人見知りなんだ。別に秘密の話をするわけでもなし、連れていく」


 ソルードはクリフの後頭部に頭をぐりぐりと押し付けた。片手でソルードを支え、示された家へ顔を向ける。


「大丈夫」


 言い聞かせながら、クリフは階段を上った。




 広場の石碑を囲んで、客人の歓迎会が行われた。長と並んで、クリフは石碑の前に座る。地面に敷かれた織布の上に、ずらりと料理が並べられた。


「冒険者殿も一杯、どうだね?」

「いや、酒はちょっと……」


 愛想よく笑って、クリフは差し出された杯を辞する。


「ああ、確かに若い君には果実水のほうがいいかね」


 杯には、金色の液体がなみなみと注がれていた。甘い香りに誘われてか、ソルードがクリフの外套から顔を出す。ようやく見えた客人の顔に、長は目を細めた。

 長は、エルヘと名乗った。外見だけで判断するならば、三十になるかならないかといったところで、口ひげもあまり似合っていない。しかし年齢を聞けば、集落で最も年かさの、百四十二歳だと答えた。痩せてはいるが衰えはなく、凛々しい働き盛りの青年、という形容が最も合うだろう。薄緑に色づいた白髪に土色の瞳。酒を飲んで豪快に笑うとようやく、肉体に刻まれた年月が目じりに現れる。

 乾かして折りたたんだロアルを膝に、クリフは林檎水の杯を受け取る。


「では、勇気ある客人に」

「風の恵みに!」


 長の言葉に続いて、一人の少年が杯を掲げた。

 ばらばらと続く掛け声に苦笑して、エルヘは軽く杯を持ち上げる。


「さあまずは飯だ。客人! たっぷり腹いっぱいになるまで!」


 一人の女が、クリフの前に皿を置く。その上には、並んだ料理がこれでもかと盛り付けられていた。


「若い男なら肉が好きだろう? そちらの子も」

「あ、ああ、どうも」

「まずはあんたが食べないと」


 クリフが肉の包み焼を口に運ぶと、待っていたとばかりに子供たちが料理の山に飛びついた。親に諌められながら、十人近い子供が料理を取り囲む。


「こんなごちそう、滅多にないのでな」


 エルヘがクリフに耳打ちした。ソルードは皿に顔を近づけ、鼻をひくつかせている。だが一人の子供と目が合うと、またクリフの後ろに隠れてしまった。


「美味い」

「何よりの誉め言葉だ」


 クリフが口の前まで持っていくと、ようやくソルードも肉にかじりついた。尾はクリフの腕に巻き付けたまま、這い出して果実水に手を付ける。

 見上げると、木々の間に橙の明かりが浮かんでいた。隙間から見える空は暗く、光に照らされて影が濃く落ちる。クリフとソルードが皿を空ける頃には、ほとんどの料理が片付いていた。

 日が落ち、母親に連れられて子供たちが家へと戻っていく。代わりに、若い男女が輪を作った。男は杖を、女は木の実で作った鈴を持っている。一人、薄衣と花の冠と鉱石で着飾った少女が、クリフの前に歩み出て礼をした。

 満腹になったらしいソルードは、丸くなって寝息を立てていた。相変わらずロアルは動かない。三杯目の林檎水を傾け、クリフはチラリと長を見やった。


「何人くらい人がいるんだ?」

「今は三十人くらいだ。二人ほど、外に留学に行っている」


 杖で地面を鳴らし、木の実の鈴がカラカラと音を響かせる。作られたリズムに合わせ、少女はくるりと身を捻った。肌が透ける薄衣は、空中にふわりと曲線を描き出す。両手首から垂らされた長い紐と、足首の輪。杖と鈴だけのシンプルな伴奏の中で、少女はきらきらと舞った。

 杖に合わせ、男たちが低い声で歌う。一人、二人と声が重なった。


(随分古い言葉だな)


 男は短い同じフレーズを繰り返しながら、女の高い声がメロディを奏でる。


「……『我らは風の旅人』」


 エルへが、翻訳しながらフレーズを重ねた。


「『風吹く大地に果てはなく』『星降る夜空に果てはなく』」

「……ルクソー語」

「さすが魔術師殿」


 歌に合わせ、少女は祈るように膝を折る。額が地面に触れたかと思うと起き上がり、長い紐と薄衣を踊らせる。世界の美しさを謳い、それをもたらす精霊に捧げる歌だ。

 歌い手全員の声が重なる。杖が打ち鳴らされ、繰り返しのフレーズが断ち切られた。同時に少女は、細い手を空へと掲げる。すがるように伸ばされた指先から、風が吹いたような気がした。

 賞賛の拍手を贈ると、少女はクリフを見て微笑んだ。

 音で起きたらしいソルードが、クリフの膝に乗る。体温の高いソルードに引っ付かれると、クリフも眠くなってきた。


「にいしゃ、ろぉ、まだ?」

「まだだなあ」

「んいぃ……」


 杯を空にして、クリフは立ち上がる。


「ご馳走様。寝床になるところがあるなら、こいつを寝かしてやりたいんだが」

「いやいや、こちらこそ。客人は私の家の二階を貸すことになっている。彼女が案内しよう」


 踊り子が恭しく礼をする。


「我々も夜更け前には眠る。何か火急の用があれば、これを」


 エルへは、クリフの手に木の棒を二本握らせた。


「ではいい夜を、旅人殿」

「ああ。感謝する」


 薄く笑ったクリフに、エルヘも微笑を返した。




 暗闇の向こうで、誰かが歌っている。

 途切れ途切れの鼻歌は、囁くような、優しい子守歌だった。どこか遠い昔に聞いた、闇の中の道標。


「……アニー?」


 呟くと同時に、視界が開かれる。声が途切れ、息を呑む音がした。


「おはよう、寝坊助」


 クリフがいた。「うん」と生返事をして、ロアルは体を起き上がらせる。


「今何時……?」

「もうすぐ夜明けだ」


 視界を安定させると、クリフとソルードのほかにもう一人、部屋の中にいるらしいことが分かった。床には布を重ねた布団が敷かれている。折り目のついた服を人の形に伸ばして、ロアルは仮面とフードで頭を作る。


「もしかしなくても、苦労かけた?」

「別に」


 ロアルの視界では、クリフの表情はほとんど見えない。


「ごめんよ。でも戻ってこられた。君のおかげだ」

「はいはい」

「本当さ。自分でも驚いているんだ。ボクってば死人のくせに、死にたくなくなっちゃったみたい。今更」


 吐き出す息の音で、クリフが呆れているのが分かった。声を殺して笑いながら、ロアルはクリフの隣に座る。


「一時間くらい、寝れるんじゃない?」

「……じゃあお言葉に甘える」

「うん」


 横になったクリフに布をかけ、ぽんぽんと肩を叩く。数秒も数えないうちに、クリフは寝息を立てた。隣で眠るソルードにも布をかけ直し、囁き声で子守歌を歌う。

 母を、昔を懐かしみながら、子供にその思い出を囁く歌。声だけで紡がれるメロディは、優しく、語りかけるように。


「……ねえ、クリフ」


 短い歌が終わる。蘇りかけた過去の記憶も、それとともに遠ざかった。


「どうして君が、この歌を知っているんだい」


 ロアルの故郷の歌だ。歴史から消され、地上では忘れられ、その言葉もほとんど残っていない。古い子守歌など、残されているはずがない。

 眠る魔術師を見下ろして、ロアルはその髪をそっと撫でた。

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