第三話「ひさしぶり」
「……おはよう、ございます……?」
なんとも間の抜けた挨拶だった。
もっと他に掛けるべき言葉があるはずなのだが、如何せん、目の前にいるのは夢の中で何度も見た少女だ。
白い髪。
白い肌。
紫の瞳。
首元には三日月を模した銀色の首飾り。
そして、感情が全く読み取れない表情。
そんな少女を前にして、あいにくこの十五歳の男子高校生は気の利いた言葉をすぐに出せなかった。
少女は何も言わない。
ただ、じっと陽翔を見つめている。
その視線に耐えきれなくなり、陽翔は視線を少しだけ逸らした。
この状況をどうにかしなければならない。
何か話さなければ。
そう思った時、ふと一人の友人の顔が浮かんだ。
こんな時、英紀なら当たり障りなく話せるのだろう。
いつだって人当たりがよく、誰とでも自然に会話できる英紀なら、こんな気まずい空気にはならないはずだ。
陽翔は小さく息を吐いた。
「俺が英紀だったらなぁ……もっと上手くやれたかもなんだけど……」
その言葉に、少女が僅かに反応した。
「ヒデ、キ?」
「えっ」
陽翔は思わず顔を上げる。
今、確かに自分の言葉を拾った。
もしかすると、言葉が通じるのかもしれない。
そんな期待を抱いた直後、少女は再び何かを口にした。
「んー……エィヌァティア、ディエアーエ?」
「……そうきたか」
どうやら、そう簡単にはいかないらしい。
言葉が通じない。
それもそうか、と陽翔は考える。
こんな日本人離れした少女が日本語を話す可能性など、考えてみればかなり低い。
そもそも、ここが日本なのかどうかすら分からないのだ。
陽翔は何とか会話を成立させようと、頭の中から知っている英単語を引っ張り出していく。
「あー、パードゥン? エクスキューズミー? お〜アイムソーリー、アイドントイングリッシュ〜」
訪れる静寂。
言っている本人にも、かなり酷い英語だという自覚はあった。
もし突然、外国の人と二人きりになって会話する機会があると知っていたなら、鷹也と一緒になって英紀の宿題の答えを丸写しするなんて事しなかっただろう。
そんな薄い後悔を抱きながら、なけなしの会話力を披露していく。
しかし、少女は首を傾げるだけだった。
「……? ジオゥムェヌ、エヌァエヌィウォアィッテェアーゥケァ、ウァケァアールァエヌァアイ」
「おいおい聞いた事ない言語だって……、何語ですかソレ。けど単語ひとつひとつハッキリしてる気が……」
少女の言葉はてんで分からないが、なんとなく、そんな印象を受けた。
ネイティブ特有の、まるで音の筆記体のような理不尽さは感じられなかった。
だが、それでもやっぱり分からない。
知っている言語のどれにも当てはまらない。
陽翔は頭を抱えそうになった。
このままでは何も進まない。
ならば、最後の手段だ。
身振り手振りで伝えるしかない。
「よし、ここは出〇イングリッシュの出番だな」
厳密に言えば、自分は出〇さんではないし、イングリッシュですらない。
それでも、言葉の壁など熱意と努力で乗り越えようとする精神は見習うべきだ。
少女が不思議そうな顔でこちらを見ている。
陽翔は自分を指差し、それから少女を指差した。
できるだけ簡単な言葉を選び、身振りも加えて伝える。
「あー、ココドコ!? アナタダレ!? ワタシ、ハルトってイイマス! メニメニよろしく!」
「……。んー??」
まずい。
余計に混乱させてしまったようだ。
少女は困ったように首を傾げている。
陽翔もまた、どうしたものかと頭を掻いた。
会話ができない。
自分がどこにいるのかも分からない。
目の前の少女が何者なのかも分からない。
英紀たちがどこにいるのかすら分からない。
分からないことばかりだった。
そんな時だった。
静かな部屋に、妙に大きな音が響いた。
なんと形容すればよいか。
まるで獣の唸り声のような、けれどもっと可愛らしい音。
発生源は、少女のお腹。
陽翔は固まった。
少女も固まった。
やがて、二人の視線がゆっくりと少女のお腹へ向かう。
少女は少し気まずそうに、自分のお腹を撫でた。
陽翔は思わず苦笑する。
言葉が通じなくても、腹が減ったということくらいは分かる。
「えっと。お腹、すいた? ごはん……はここにある訳無いよな。食べ物、探す。外、行く?」
腹を押さえる。
食べる真似をする。
それから出口を指差す。
必死に身振り手振りを交えながら、どうにか意味を伝えようとする。
少女は陽翔の動きをじっと見つめた。
そして、自分のお腹を撫でながら頷いた。
どうやら、意図は伝わったらしい。
陽翔は小さく拳を握った。
「オッケー、とりあえず第一村人との意思疎通は及第点。じゃあここから出よう……か……」
そう言って振り返った瞬間。
陽翔の表情が固まった。
視線の先にあるのは、先ほどの石扉だった。
扉の向こうには、あの怪物がいる。
三つの首を持つ巨大なケルベロス。
さっきは眠っていた。
その後、咄嗟に扉を閉めて何とか距離を取った。
だが、今もそこにいる可能性は高い。
忘れていたわけではない。
むしろ忘れたかったのだ。
夢の中でしか見たことのなかった少女と、現実で出会った。
その目の前の少女とどうにか会話できたことで、ほんの少しだけ現実から目を逸らしていたらしい。
しかし、現実逃避は長く続かない。
ここから出なければならない。
食べ物もない。
水もない。
このまま閉じ込められていれば、ケルベロスに襲われなくても、いずれ餓死してしまう。
それでもあの扉を開けるのは怖かった。
陽翔は扉の前まで歩き、そこで立ち止まった。
開けるべきか。
開けてどうする。
大人しく噛み殺されるか。
開けないべきか。
開けずに、どうする。
このまま、餓死するのか。
頭では答えが出ている。
それでも、手が伸びない。
そんな陽翔の様子を、背後から少女が不思議そうに見つめていた。
その視線に気付き、陽翔は苦笑いを浮かべる。
「あはは……、実はこの先にトンデモないバケモノがいまして……」
「ケェアーゥビェアーォエースゥ?」
「えぇそうなんですよ。ちょっと何言ってるか分からないんですけど、そんな感じです」
「ムァケァエースェテェ」
「はい分かりました、強行突破ですね。それはいい案です……は?」
少女が何を言ったのかは分からない。
だが、その直後。
少女は石扉へ近付いた。
そして。
躊躇うことなく扉へ手を掛ける。
「ちょっ──」
陽翔が止めるより早く、少女は扉を力強く開け放った。
石扉が大きく開く。
陽翔は目を見開いた。
こんな華奢な身体の、一体どこにそんな力があるのか。
そんな疑問が一瞬だけ頭を過ぎった。
しかし、次の瞬間には、それどころではなくなった。
目の前に。
ナニカがいた。
三つの首が、ゆっくりとこちらを覗き込んでいる。
六つの瞳が、陽翔を捉えた。
全身から血の気が引いていく。
冷静に考えれば、当然だった。
いくら石扉とはいえ、中であれだけ騒いでいたのだ。
眠っていたケルベロスが起きない方がおかしい。
もしかすると。
目を覚ましてからずっと、ここで待っていたのかもしれない。
中の獲物が、自ら扉を開けて出てくるのを。
陽翔の喉が震える。
「……ぁ、あ……、は…っ…」
苦しい。
息ができない。
いや。
息をすることすら、許されていないような感覚だった。
だが脳は高速で動いている。
──逃げろ。
──動けよ。
──死ぬぞ。
そう考えているのに、身体はそれに反比例するように遅く、重くなっていく。
足が動かない。
指先が震える。
ケルベロスが一歩、前へ出た。
床が震える。
その音だけで身体が竦んだ。
巨大な口が開く。
鋭い牙が覗く。
喰われる。
そう思った。
いや。
むしろ、もう喰われたのだと思った。
その瞬間だった。
隣にいた少女が、陽翔の手を握った。
「な、にを……?」
何をしてるのか。
こんな状況で。
あぁそうか、諦めたのか。
それもそうだ。
そう考えが至った瞬間、それまで動いていた陽翔の脳は思考を放棄した。
ただ、小さな手の感触だけが妙に鮮明だった。
冷たい。
けれど、その手は確かに陽翔の手を握っている。
そして次の瞬間。
世界が歪んだ。
目の前にいたはずの黒い獣が、一瞬にして消えた。
「……はぇ?」
陽翔は間の抜けた声を漏らした。
気付けば自分たちは少し開けたところにいる。
バケモノはどこに。
確かに、そこにいたはずなのに。
だが、消えたわけではなかった。
直後、背後からこの世のものとは思えない咆哮が響き渡る。
遺跡全体が震える。
少女が陽翔の手を強く引いた。
「ッ!」
「えっちょっ、待って……!」
何が起きたのか分からない。
それでも、少女は走り出した。
陽翔も引っ張られるまま走る。
後ろから聞こえる咆哮。
消えたわけではない。
では、なぜ目の前からいなくなったのか。
どうやって。
何が起きた。
考えようとしても、思考がまとまらない。
今は走るしかなかった。
二人は遺跡の通路を駆け抜けていく。
左右へ分かれる道。
十字路。
階段。
複雑に入り組んだ遺跡の内部を、少女は一度も迷うことなく進んでいく。
まるで、この場所を知っているかのようだった。
「ぜぇっ……はぁっ……! ちょっと、待ってよ……!」
必死に声を掛け続けると、ようやく少女が走る速度を緩めた。
陽翔は壁へ手をつき、肩で息をする。
肺が焼けるように熱い。
心臓が激しく鼓動している。
顔を上げる。
少女はすぐ隣に立っていた。
息一つ上がっていない。
汗すらかいていない。
陽翔は思わず苦笑した。
「これでも鷹也や英紀達と遊んでたおかげで、運動には自信があったんだけどな……」
「デォウエースィテァエヌォ、マリクディエケヨケァエースィエヌァアィエヌォ?」
「あなたが何を言ってるか分からないのと同じぐらい、何が起きてるか分からないんです……」
少女はまた首を傾げた。
相変わらず言葉は通じない。
それでも、今の陽翔にはそれを気にする余裕がなかった。
ケルベロスは追ってきていないようだった。
先ほどまで響いていた咆哮も、今は聞こえない。
ひとまず助かった。
そう思い、陽翔は大きく息を吐いた。
そして、ふと壁へ目を向ける。
そこに、一つの窓があった。
陽翔は窓へ近付く。
少しでも外の空気を吸いたかった。
しかし。
窓の向こうを見た瞬間、足が止まった。
「……なん、だよ、ここ」
そこに広がっていたのは、絶景だった。
いや。
絶景という言葉すら、生ぬるいのかもしれない。
地面には砂。
まるで遺跡のような、石造りの建造物。
そして、その先に広がっていたのは──。
星空だった。
いや違う。
星空なんかじゃない。
宇宙だ。
陽翔は息を呑んだ。
窓の向こうには、空がなかった。
その先に広がっていたのは、果てしない暗闇。
無数の星々。
遠くに浮かぶ巨大な天体。
そして、どこまでも続く宇宙。
こんな景色を、自分の目で見られる人間がどれだけいるだろう。
地球にいる限り、決して見ることのできない景色。
陽翔は窓へ手を付き、呆然とその光景を見つめた。
夢ではない。
今、自分の目の前にある。
あまりにも現実離れしているのに、頬へ当たる冷たい空気も、足元の硬い石の感触も、全てが現実だと訴えてくる。
その時、少女の腹から再び小さな音が鳴った。
「むぅー」
「えっ、あぁごめん。その、もしかしたら俺は既に死んでるのかもって思っちゃって……」
「デァアィズヨユビゥデァワィオ」
少女の言葉に、陽翔は苦笑する。
結局、何を言っているのかは分からない。
それでも、今は進むしかない。
「えっと、そうだね。うん、行こうか……」
どこへ行けばいいのかは、相変わらず分からない。
けれど、少女は迷うことなく歩き始めた。
陽翔はその背中を追う。
しばらく歩いたところで、少女が一つの部屋の前で足を止めた。
巨大な石扉。
その周囲には、これまでの場所よりも複雑な文様が刻まれている。
少女が振り返る。
「ここが目的地?」
「テゥアィテァワィオ」
どうやら、そうらしい。
何を言っているのかは分からない。
それでも、頷いた少女の動きから何となく意味は伝わってくる。
陽翔は扉へ手を掛けた。
「じゃあ開けるよ……って」
踏ん張る。
力を込める。
だが、扉はびくともしない。
その横から、少女が手を伸ばした。
そして片手で、あっさりと扉を開けてしまった。
「……フィジカルゴリラ?」
「むっ」
少女の眉が僅かに寄る。
紫色に輝く瞳が、じっと陽翔を睨んだ。
「あぁごめんごめん! 悪意はない!」
意味を理解したのか。
それとも、陽翔の表情や声から何となく察したのか。
少女は少しだけ不満そうな顔をした。
そして開いた扉の先へ視線を戻す。
陽翔もその先を覗き込んだ。
そこにあったのは。
「……なんだこれ?」
床いっぱいに描かれた巨大な陣。
幾重にも重なる円。
複雑な文様。
これは、あれだ。
魔法陣だ。
陽翔は思わず眉を寄せる。
これで何かを呼び出すのだろうか。
まさか、あの黒い獣を倒すために、さらに別の魔物でも呼び寄せるつもりなのか。
それとも、強力な助っ人でも召喚するのか。
そんな考えが頭を巡る。
だが、少女に手を引かれ、思考を止められた。
「え……俺達がこの上に乗るの?」
少女は頷いた。
どうやら、何かを呼び出すためのものではないらしい。
自分たちが、この魔法陣の上へ乗るようだ。
何が起こるのかは分からない。
不安八割。
期待二割。
陽翔は少女に手を引かれるまま、魔法陣の上へ乗った。
少女が陽翔へ向かって両手を差し出す。
「……握れ、ってことでいいんだよな?」
間違っていたらセクハラになるだろうか。
いや、そんな馬鹿な。
そもそも、この地において日本の法律が適用されるかどうかも怪しい。
少しは余裕が出てきたか、そんなくだらない事を考えながら陽翔は少女の両手を握った。
すべすべしている。
けれど、悲しいぐらいに冷たい。
小さな手だった。
少女が、何かを呟く。
「───、───。───」
「え?」
今までとは違う。
少女の声には、これまでとは異なる何かがあった。
意味は分からない。
それでも、その言葉を発した瞬間。
魔法陣が光り始めた。
目の前が真っ白になる。
陽翔は反射的に目を閉じた。
この光には見覚えがあった。
さっきまでいた十字路。
桃色の髪の少女。
そして、自分たちを包み込んだ光。
あの時と同じだ。
身体が浮くような感覚がした。
足元の感覚が消える。
世界そのものが遠ざかっていく。
そして。
光が消えた。
恐る恐る目を開く。
景色は、それほど変わっていなかった。
同じような石造りの部屋。
同じような遺跡。
ただ、一つだけ明らかに違うものがあった。
「って、寒い!?」
寒い。
あまりにも寒い。
先ほどまでいた遺跡とは比べ物にならないほど、冷たい空気が身体を包み込んでいる。
吐く息は白く、指先は赤くなっていく。
陽翔は両腕を抱えた。
少女はそんな陽翔を気にする様子もなく、部屋の外へ向かって歩き始めている。
待って。
声を掛けようとして、陽翔は口を閉じた。
どうせ言葉は通じない。
それに、少女はすぐそこにいる。
陽翔は黙って、その後を追った。
長い階段だった。
一段。
また一段。
上へ向かって延々と続いている。
進むほどに冷気は強くなる。
そして、階段の先に光が見え始めた。
外だ。
少女が歩みを速める。
陽翔も後を追った。
やがて、眩い光が二人を包み込んだ。
外へ出た瞬間、陽翔は目を細める。
しばらくして、少しずつ視界が慣れていく。
「わぁ……すげぇ……」
思わず声が漏れた。
目の前に広がっていたのは、雪だった。
どこまでも続く巨大な大地。
遠くにそびえる山々。
見たことのない生物。
見たことのない空。
そして。
見たことのない世界。
白銀の大地を冷たい風が駆け抜け、雪が舞っている。
遠くでは、自分が知っている生き物とは明らかに違う何かが動いている。
空も違う。
大地も違う。
何もかもが違う。
陽翔はただ、その光景を呆然と見つめていた。
ここまで来て、ようやく理解した。
夢ではなかった。
これは現実だ。
「──異世界、だよな」
自分は、本当に知らない世界へ来てしまった。
隣には、夢の中で何度も見た白い髪の少女がいる。
けれど、彼女が何者なのかはまだ分からない。
ここがどこなのかも分からない。
なぜ自分がここへ来たのかも分からない。
それでも、目の前に広がる景色だけは疑いようがなかった。
陽翔は雪の大地と、外の空気を吸えて嬉しいのか上機嫌に鼻歌を奏でる少女を見つめながら、呆然と呟いた。
「本当に異世界転移ってやつでしたか……!」




