第二話「おはよう」
夢で見た白い祭壇。
その真正面に、陽翔は立ち尽くしていた。
──何故。
その一言しか頭に浮かばない。
ついさっきまで、自分は通学路を歩いていた。
鷹也と笑い合い、英紀や癒美と他愛もない話をしていた。
そして十字路で桃色の髪をした少女とぶつかり、辺り一面が光に包まれて──。
そこから先の記憶が、ぷつりと途切れている。
目の前に広がる景色は、見覚えがあった。
白い石造りの広間。
天井まで届く巨大な柱。
部屋の中央に鎮座する祭壇。
夢で何度も見た、あの場所だ。
現実とは思えない。
いや、思いたくない。
混乱した頭を必死に整理しようとするが、考えれば考えるほど思考は空回りし、胸の鼓動だけが速くなっていく。
「落ち着け……落ち着け……。夢、これは夢。そうだ、何回も見ただろ、同じだって……」
自分へ言い聞かせる。
何度も。
何度も。
そうでもしなければ、今にも足から崩れ落ちてしまいそうだった。
これは夢だ。
今まで何度も見た奇妙な夢。
そう思えば説明はつく。
そう思い込もうとした。
しかし。
少しだけ冷静さを取り戻した途端、決定的な違いに気付いてしまう。
「夢、だよ……。でも、体は……動くし、声も出せる……」
拳を握る。
思った通りに指が動く。
腕を上げる。
肩も肘も自由に動く。
頬を軽く抓る。
「いっ……!」
痛い。
夢ではこんな痛みは感じなかった。
試しにその場で軽く飛び跳ねる。
靴底から石床の硬さが伝わる。
呼吸もできる。
匂いもある。
乾いた石の匂い。
少し冷たい空気。
静寂。
あまりにも現実だった。
「は、はは……」
思わず乾いた笑いが出た。
認めたくない。
認めてしまえば、自分は夢の中へ入り込んだことになる。
そんな馬鹿げた話があっていいはずがない。
けれど、それ以上に。
現実だとしか思えない自分がいる。
大きく深呼吸をした。
肺へ冷たい空気が流れ込む。
鼓動はまだ速い。
それでも、少しだけ頭は回るようになってきた。
「……とにかく、ここは何なんだよ……?」
出口を探す。
それが今やるべきことだ。
陽翔はゆっくりと部屋の中を歩き始めた。
祭壇を中心に造られた広間は想像以上に広い。
壁も床も天井も石で統一されており、年月を感じさせる細かな亀裂が走っている。
それなのに埃はほとんど積もっていない。
誰かが手入れしている訳でもないはずなのに、不思議と清潔感があった。
壁には複雑な文様が彫り込まれている。
文字……なのだろうか。
見たこともない形ばかりで、一つも読めない。
床にも巨大な魔法陣のような紋様が描かれ、その中心に祭壇が置かれている。
夢では、そんな細かいところまで見る余裕はなかった。
けれどこのような紋様があった記憶もない。
いや、そもそも夢では身体を自由に動かせなかった。
だから今初めて、この部屋を自分の目で見ている。
天井を見上げる。
あまりにも高い。
学校の体育館よりずっと高く、薄く青白い光がどこからともなく降り注いでいる。
窓らしきものは見当たらない。
照明もない。
なのに部屋全体は昼間のように明るかった。
「どういう仕組みなんだ……」
思わず呟く。
返事はない。
当然だ。
静か過ぎる。
自分の足音だけが広い部屋へ響いている。
改めて見回しても、祭壇以外には何もない。
家具もなければ、本棚も机も椅子もない。
本当に祭壇だけ。
「祭壇……。何か祀ってるとか、なのかな……」
近付いて見上げる。
数人程度なら寝転べそうなほど横幅が大きい白い岩。
大理石と同じ類だろうか。
側面には細かな装飾が施されている。
中央には人が横たわれそうな穴があり、そこを中心として魔法陣のような紋様が囲んでいた。
まるで何かを封じるために作られた棺。
そんな印象を受ける。
ぞくり、と背筋が震えた。
夢の最後。
白髪の少女は、この祭壇の上に立っていた。
あれは一体誰だったのだろう。
この上に立って何をしていたのだろう。
どうしてあんなに、悲しそうな顔をしていたのだろう。
考えれば考えるほど分からなくなる。
ふと視線を動かした時だった。
「……あれ?」
部屋の奥。
自分が入ってきた覚えのない場所に、一枚の巨大な石扉があることへ気付いた。
祭壇の陰になっていて、最初は見えていなかったらしい。
他にも出口がないか確認するため、部屋の壁沿いを一周歩いてみる。
しかし、やはり扉はそれ一つだけだった。
「これ以外に扉なんて無いし……。そもそもここが建物の最奥っぽいんだよな……」
外へ出るなら、あそこしかない。
喉が鳴る。
怖い。
けれど、このままここへ留まっていても何も始まらない。
陽翔は何度も深呼吸を繰り返し、震える右手をゆっくりと扉へ伸ばした。
冷たい石の感触が掌へ伝わる。
ごくり、と唾を飲み込む。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ開いて、外を確認するだけだ。
そう自分へ言い聞かせながら、静かに石扉を力いっぱいに押した。
重々しい音を立てることもなく、扉は滑らかに開いていく。
その隙間から、陽翔は恐る恐る奥の空間を覗き込んだ。
その瞬間、全身から血の気が引いた。
「な、なん、で……、ア、アイツが、いるんだよ……!」
黒い影。
三つの首。
夢で見た、あのバケモノだった。
間違いない。
見間違えるはずがない。
夢の中で白髪の少女と共に走って逃げた、あの怪物。
その姿が、今まさに目の前にあった。
巨大だった。
夢の中では逃げることに必死で、その全容を見る余裕などなかった。
だが今は違う。
広い空間の中央に横たわるその巨体は、まるで小さな家が一軒そのまま寝そべっているかのようだった。
漆黒の毛並みは光を吸い込むように鈍く輝き、一房一房が鋼線のように硬そうだ。
三つの首はそれぞれ別々の方向へ伏せられている。
閉じられた瞼の下からでも分かるほど禍々しい存在感。
鼻先から漏れる吐息だけで周囲の空気が震え、規則正しい寝息が低い地鳴りのように洞窟へ響いていた。
脚一本だけでも、大人二人でようやく抱えられるほどの太さがある。
地面へ食い込む鉤爪は岩を容易く砕けそうな鋭さで、口元から覗く牙は陽翔の腕ほども長かった。
到底、生き物とは思えない。
神話やゲームの中だけに存在する怪物。
それが、眠っている。
いや。
眠っているだけで、生きている。
「……っ」
喉がひゅっと鳴る。
心臓が喉元で暴れ回るような音を立て始めた。
全身から汗が噴き出す。
脚は震え、呼吸は浅く速くなる。
逃げろ。
本能が叫んでいた。
今すぐ逃げろと。
あれは見てはいけないものだ。
人間が近付いていい存在じゃない。
夢の中ではただ恐ろしいだけだった。
だが現実で目にすると、それ以上だった。
圧倒的。
その一言に尽きる。
勝てる、勝てないという次元ではない。
あれは自然災害だ。
津波や地震と同じ。
人間がどうこうできる存在ではなかった。
「ほ、本物の……、バケモノ……!」
声にならない悲鳴が漏れる。
腰から力が抜けた。
膝が笑う。
このまま立っていたら、その場へ崩れ落ちそうだった。
漏れそうだ。
泣きそうだ。
死にたくないのに、死にたくなってきた。
そう感じさせられるほどに、目の前の災害から発せられる重圧は凄まじかった。
──殺される。
そんな確信だけが頭を支配する。
三つの首がゆっくり持ち上がり、六つの瞳がこちらを向く光景を想像しただけで、身体が凍り付いた。
駄目だ。
音を立てるな。
息をするな。
心臓の音すら聞かれそうな気がした。
陽翔は歯を食いしばり、震える手で石扉をゆっくりと引く。
ほんの数センチ。
その距離が、永遠にも感じられた。
扉が閉じる。
石同士が触れ合う音さえ立てないよう慎重に、慎重に。
完全に閉まった瞬間。
「ッ……! はぁっ……!」
全身の力が一気に抜け、その場へ尻もちをついた。
背中を扉へ預ける。
鼓動は一向に収まらない。
耳の奥で、自分の心臓だけが大きく鳴り響いていた。
「深、呼吸……。そう、落ち着いて……。状況を、整理しろ……」
震える声で自分へ言い聞かせる。
大丈夫。
まだ見つかってはいない。
扉も閉めた。
落ち着け。
何度も何度も深呼吸を繰り返す。
肺へ冷たい空気を送り込むたび、少しずつ頭が回り始めた。
「まず、アレは、生きてる。動いてた」
夢じゃない。
確かに見た。
夢の中の怪物が、現実のすぐそこで眠っている。
この事実だけは覆らない。
「それで……この、祭壇がある部屋。これも夢で見た。最後は、たしか……」
白髪の少女。
悲しそうに微笑みながら、祭壇へ立っていた少女。
──さようなら。
「……あの夢がなんなのか、ここはどこなのか、あのバケモノは何なのか……。いや、ケルベロス、だよな……」
夢の中では名前を考える余裕などなかった。
それなのに今は、不思議とその名だけが頭へ浮かんでくる。
ケルベロス。
神話なんて大してかじってない。
それでも、首が三つある犬の怪物。
それに該当するのが、その名しかないのは知っている。
けれど今は、あの災害の名前よりも分からないことばかりだった。
自分はなぜここへ来たのか。
ここはどこか。
英紀たちは。
あの桃色の髪の少女は。
何一つ分からない。
それでも、この部屋に答えがあるような気がしてならなかった。
陽翔はゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、静かに佇む白い祭壇。
夢では、あの少女は確かにそこに立っていた。
祭壇だけが、この空間で唯一、自分の知っているものだった。
夢の中では、少女は確かにこの祭壇へ立っていた。
そしてあの光に包まれ、姿を消した。
あれは何だったのだろう。
別れだったのか。
封印だったのか。
それとも。
「ここから出るためには、あの女の子の力が必要……? でもここには俺一人だけだし……」
夢で見た、バケモノ相手をいなせる力を持った少女を思い出す。
しかしどちらにせよ陽翔だけではどうにもならない。
外へ出ようにも、扉の向こうには件の奴がいる。
あれが目を覚ましたら終わりだ。
かといって、この部屋で助けを待っていても誰も来ないだろう。
そもそも、本当にここが日本なのかすら分からないのだから。
「なんでこんなことに……。非現実的すぎて実感が……」
黒い影を思い出す。
「……いや、ある……か」
祭壇へ視線を向ける。
巨大な白い石は、何事もなかったかのように静かに佇んでいる。
近付く。
一歩。
また一歩。
足音だけが広い部屋へ響く。
祭壇の前まで来ると、夢の中では見えなかった細かな装飾が目に入った。
側面いっぱいに刻まれた幾何学模様。
幾重にも重なる円環。
複雑に絡み合う線。
そして、その隙間を埋めるように刻まれた見知らぬ文字。
読めない。
けれど、ただの飾りではないことだけは分かった。
「儀式用、あるいは封印……ってやつですか」
思わず呟く。
夢では考える余裕すらなかった。
今こうして改めて見ると、この祭壇は祀るためのものではなく、何かを閉じ込めるためのものに見えた。
だとしたら。
あの少女は。
「……閉じ込められてる?」
その考えが頭を過ぎった瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
理由は分からない。
初めて会うはずの少女だ。
なのに。
その言葉を口にしただけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
助ける?
でもどうやって?
ふと、そんな思いが浮かぶ。
「……なんで俺」
苦笑する。
夢で数回見ただけの相手だ。
名前も知らない。
素性も知らない。
それなのに、自分は助けようとしている。
お人好しにも程がある。
けれど夢の最後に見た、あの寂しそうな笑顔だけは忘れられなかった。
「最後、あんな悲しそうな顔してたけど、あの後いったい……」
ゆっくりと右手を伸ばす。
あと数センチ。
指先、そして腕ごと何か薄い壁か、幕のようなものをすり抜けていく。
触れたら何かが起こるかもしれない。
逆に、何も起きないかもしれない。
最悪、この部屋ごと崩れる可能性だってある。
それでも。
他に方法は思い付かなかった。
「……」
祈るような気持ちで伸ばした指先が、祭壇へ触れる。
その瞬間。
祭壇全体へ刻まれていた紋様が、一斉に青白く輝き始めた。
「うわっ!? ちょちょっ、待っ──」
あまりの眩しさに思わず尻もちをつく。
床へ手を付きながら後退る。
しかし光は止まらない。
むしろ勢いを増し、祭壇全体を包み込んでいく。
ガラスが割れるような音。
薄い壁のようなものが壊れた。
反射的に両手を前へ突き出す。
まずい。
止まれ。
止まってくれ。
なにかとんでもないことを仕出かしてしまった。
そう思って止まない。
止めなければならないのに、止まらない。
ならば逃げなければ。
だというのに足は動かない。
薄らと感じる、暖かさ。
先ほど感じた死の寒気とは、正反対。
だが得体の知れない現象に、焦る気持ちは募るばかり。
そんな陽翔を他所に、祭壇はさらに激しく輝き続けた。
まるで長い眠りから目覚めるように。
部屋中へ光が溢れていく。
低い振動音。
空気が震える。
床へ刻まれた巨大な魔法陣も次々と発光し始め、淡い光が一本の柱となって祭壇の中央へ集束していく。
「──、ぇ」
陽翔の口から、間の抜けた声が漏れた。
光の柱の中へ、人影が浮かび上がる。
細い身体。
長く流れる白い髪。
光が少しずつ弱まるにつれ、その輪郭ははっきりと形を成していく。
やがてそこには、一人の少女が静かに祭壇の上へ立っていた。
雪のように白く透き通る長い髪。
陶器のような白い肌。
そして、宝石を思わせる紫の瞳。
夢の中で何度も見た少女が、今、現実の陽翔をじっと見つめていた。
「……」
「……」
少女は何も言わない。
陽翔は何も言えない。
瞬き一つせず、ただ静かにお互いを見つめている。
その視線だけで、陽翔は居心地の悪さを覚えた。
「……」
「……えっ、と」
夢の中では、彼女はいつも何かを伝えようとしていた。
だが今は違う。
ただ見つめているだけ。
それが逆に、何を考えているのか全く分からなかった。
「……あの……すみません……」
返事はない。
「ワザとじゃないんですよ……。触れたらなんか勝手に光って……。自分も何が何だか……」
どうしてだろうか。
なぜか急に、パソコンが勝手に壊れたと嘆く人の気持ちが痛いほど分かった。
なるほどたしかに、自分でもよくわからないものが、よくわからない原因で、これまたよくわからない現象を起こしたら嘆きたくなるのも無理はない。
少女は黙ったままだ。
怒っているのだろうか。
呆れているのだろうか。
それとも。
言葉が通じていないのだろうか。
沈黙が痛い。
気まずい。
耐え切れず視線を逸らそうとしても、少女の綺麗な瞳が自然と目へ入ってしまう。
夢で見た少女と瓜二つ。
いや。
同じ少女だ。
間違いない。
しばらく流れた静寂の後。
陽翔はとうとう耐え切れず、ぎこちない笑みを浮かべながら口を開く。
そうしてようやく絞り出した言葉は、嘆かわしいことにあまりにも場違いだった。
「……おはよう、ございます……?」




