第一話「いってきます」
「本当……嫌になっちゃうなぁ」
最悪の目覚めだった。
浅い眠りを何度も繰り返したせいだろうか。
身体は鉛のように重く、瞼を開けるだけでも億劫に感じる。
夢。
また、あの夢を見た。
絶景の中にあるのどかな村。
そこが血に染まった戦場となり。
意味不明な白い部屋と黒い扉を開けて。
そして、最後に出会った白い少女と別れ。
どれも現実ではあり得ない出来事だったはずなのに、目を覚ました今も鮮明に脳裏へ焼き付いている。
大きく息を吐き、時計を見る。
休みであれば、まだ少し寝ていたいと思う時間だった。
しかし今日は月曜日。
そして一週間休んでいた為、久しぶりの登校日だ。
制服へ着替え、重たい足取りのまま一階へ降りていく。
「おはよう」
リビングへ入ると、焼きたての食パンの香ばしい香りと味噌汁の湯気が迎えてくれた。
いつもと変わらない朝の光景。
食卓には既に両親が座っており、朝食の準備も終わっていた。
「あら、おはよう、陽翔」
食後は皿を洗うためだろう。
エプロンを身に付けたまま、味噌汁を飲んでいた母が真っ先にこちらに気付く。
「おはよう。その顔を見るに、また夢を見たんだな?」
新聞を片手にコーヒーを飲んでる父は、一目見ただけで息子の状態を把握したようだ。
「やっぱり分かる?」
若干照れくさそうに、されど心配はかけまいと笑顔を保つ。
「当然、家族だからな。見れば分かる」
「しんどかったら、今日も学校休んでもいいのよ?」
何年一緒に過ごしていると思ってるんだ。
まだ万全じゃないなら甘えて構わない。
それぞれ言葉は違うが、息子のことを気にかけているのは一目瞭然だった。
「もう一週間も休んだんだ。これ以上休んだらクラスで孤立しちゃうよ」
たかが一週間、されど一週間。
今年、新高校生となって三ヶ月ほど。
まだ半年も経っていないにも関わらず、一週間休んでしまった。
特段悪いことではない。
体調不良だったのだから、仕方の無いことだ。
だがそれで孤立してしまうのは、何よりも避けたかった。
「そう、無理はしちゃダメよ?」
「大丈夫、大丈夫。それより父さん、もう会社に向かうの?」
朝食を平らげた父がスーツのジャケットと鞄を手に取る。
その横で本日のニュースを紹介してるテレビと、その画面隅に表示されてる時刻を見るに、普段より少し早く家を出るようだ。
「ああ。今週末の会議に必要な準備を、今日のうちにな」
「そっか、いってらっしゃい」
「いってらっしゃい、あなた」
「ああ、行ってくる」
ネクタイを整えながら玄関へ向かう父。
弁当を渡しながら見送る母。
仲睦まじい二人を見つめながら、陽翔は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
『それでは、次のニュースをお伝えします』
元気に、そして愛想良く仕事を全うしているアナウンサーの話を半ば聞き流しながら、陽翔は思い出す。
この一週間、両親は何も聞かずに傍にいてくれた。
夢の内容を話しても、自分でも説明できない。
だからこそ、何も聞かずに心配してくれることがありがたかった。
『昨日、東京都上野の国立西洋美術館が、世界文化遺産に登録されました』
感謝してる。
と同時に、これ以上心配はかけたくなかった。
朝食を食べ終えた頃、母が思い出したように口を開く。
「ところで陽翔、どうやら転校生が来るらしいじゃない?」
「耳が早いね。そうらしいよ」
どこで仕入れたか、息子の学校にやって来る転校生の話をし始めた母。
先程メッセージにて、幼馴染の一人から既に知らされていたが、まさか親まで把握しているとは。
「男の子かしらね〜それとも女の子かしら!こんな時期に転校してくるとなると、色々大変でしょうから仲良くしてあげなさい?」
「言われなくとも。それよりなんで母さんの方がそんなに気になってるのさ」
「えぇ〜、さあどうしてかしらね〜」
笑って誤魔化しているが、その様子はどう見ても何か知っている人の反応だった。
問い詰めても教えてくれないだろう。
昔から母は、こういう時だけ妙に意味深な笑みを浮かべる。
間違いない。
母は確実に何かを知っている。
そんな疑いをかけながら、学校の鞄を手に取る陽翔。
「まぁいいけどさ……。それじゃ俺もいってきます」
「えぇ、いってらっしゃい、陽翔」
母の見送りを背に受ける。
玄関で靴を履き、扉を開く。
夏の朝らしい茹だるような暑い風が頬を撫でた。
空には巨大な入道雲。
一歩外へ出てから、振り返る。
手を振りながらこちらへ微笑みかける母に、返すようにこちらも微笑む。
扉を閉め、鍵を掛ける。
そしてまた、振り返り、学校までの歩みを始める。
それだけのこと。
それだけのはずだった。
なのに。
胸の奥が、小さくざわついた。
──もう一度、振り返れ。
誰かにそう囁かれたような気がした。
理由は分からない。
何かあるわけでもない。
それでも、どうしてもそうするべきだと思った。
陽翔はもう一度だけ家を見つめ、小さく呟く。
「……いってきます」
───
住宅街の道を歩き始めて数分。
聞き慣れた騒がしい声が、後ろから勢いよく飛んできた。
「ヘイヘイそこの兄ちゃ〜ん。なにシケたツラしちゃってんのさぁ〜」
「ちょっと、病み上がりなんだから、からかわないの。英紀くんからも言ってやってよ」
「ははっ、鷹也も癒美も嬉しそうだね。もちろん、僕も嬉しいけどね。おはよう、陽翔!」
「みんな、おはよう!」
振り返ると、そこには見慣れた三人の姿があった。
茶色く跳ねた短い髪を揺らしながら大きく手を振る鷹也。
その隣で呆れたようにため息をつき長い黒髪を揺らしながらも、どこか安心した表情を浮かべる癒美。
そして、朝日を背に受けながら輝く肩ほどの金髪と、柔らかな笑みを浮かべる英紀。
昔から変わらない。
幼い頃からずっと一緒に育ってきた、大切な幼馴染のうちの三人。
鷹也は昔から落ち着きがなく、とにかく騒がしい。
何もない日でも笑いを見つけてしまうような、底抜けに明るい性格をしている。
癒美はその正反対で、真面目で面倒見がいい。
困っている人を放っておけず、鷹也の暴走役を止めるのも大抵は彼女だった。
そして英紀。
成績優秀、運動神経抜群、誰にでも分け隔てなく接するその姿は、女子からは憧れ、男子からは羨望、そして少しばかり嫉妬の視線を集めるほどの人気者だった。
そんな三人が、今日はわざわざ迎えに来てくれたらしい。
「もう学校には来れそうって聞いてね。居ても立ってもいられなくなってしまったから、こうして皆で迎えに来たんだよ」
「英紀くんの言う通りでね、私たち嬉しかったんだから。また四人で学校に行けるんだから!」
「そうだぞ〜。お堅い英紀クンと癒美サンのおかげで、俺がどれだけ寂しい思いをしてたか……」
「はいはい。ありがとうね、三人とも。一週間も休んじゃったけど、もうすこぶる元気だよ」
そう答えると、三人はほっとしたように顔を見合わせた。
その反応だけで、自分がどれだけ心配をかけていたのかが伝わってくる。
申し訳ない気持ちと、それ以上に嬉しい気持ちが胸に広がった。
「なら良かったぜ! にしてもその夢ってどんだけ悪夢だったんだよ、体調不良起こして一週間も休むなんて」
「それは……俺にもよく分からないんだ。ただひとつ言えるのは、絶対にありえない事だらけだった、ってことくらいかな」
説明できることならしたい。
だがどれも現実離れしすぎていた。
なのに、思い出そうとするたび胸が締め付けられる。
「……あまり深くは聞かないよ。それより、鷹也から聞いたかい? 今日の転校生の噂」
空気を変えるように、英紀が話題を切り替えた。
「そーだよ、転・校・生! まじビッグイベントじゃんね、女子が良いなぁ〜!」
「はぁ……。鷹也ったら朝からずっとこの調子でしつこいの……。あまり期待しすぎるのも良くないわよ」
はしゃぐ鷹也と、たしなめる癒美。
二人を見て笑いだした英紀が、太陽を背に続けた。
「ははっ。でも気持ちは分かるかな。僕も新しい友達が増えるかもって考えたら、楽しみだ」
「後光が凄い」
「だな……なんかこう、やっぱ陽キャの神は違ぇぜ……」
この時間、太陽がそんな低い位置にあるはずがないのに、どうしてだ。
思わず眩しそうにする陽翔と、肩を落とす鷹也。
その様子に癒美が吹き出し、英紀も困ったように笑う。
たわいもない会話。
いつもと変わらない通学路。
それだけで、一週間ぶりに学校へ向かう不安は少しずつ薄れていった。
談笑しながら歩いているうちに、見慣れた十字路が近付いてくる。
毎朝通る道。
真っ直ぐ進めば学校まではあと十分ほど。
そんな見慣れた景色の中で、不意に左角から一つの人影が飛び出してきて鷹也と衝突してしまう。
こちらも気付くのが遅かった。
「きゃ!」
「おおっとスンマセン!」
鷹也が慌てて一歩下がり、ぶつかった相手へ頭を下げる。
幸い、お互い大きく転ぶことはなかったようだ。
「随分とステレオな悲鳴、じゃなくて。大丈夫ですか……って」
鷹也の横から覗き込むように視線を向けた陽翔は、そのまま言葉を失った。
桃色の髪。
朝日に照らされ、桜の花びらのように淡く輝いている。
肩まで伸びた柔らかな髪と、どこか儚げな雰囲気。
年齢は自分たちと同じくらいだろうか。
真新しい制服は、見慣れた自分たちと同じ学校のもの。
けれど初めて見る少女。
そう思った。
だが、その瞬間。
胸の奥で何かが小さく波打った。
どこかで、この少女を見たことがある。
そんな奇妙な感覚が、記憶の奥底からゆっくりと浮かび上がってくる。
思い出せそうで、思い出せない。
まるで霧の向こうに何かがあるような、もどかしい感覚だった。
少女もまた、陽翔を見つめていた。
驚いたように目を見開き、それから何かを言い掛ける。
しかし、その言葉が紡がれることはなかった。
──世界が、白く染まった。
視界いっぱいを埋め尽くすほどの眩い光。
太陽とは比べ物にならないほど強烈な輝きに、陽翔は反射的に目を閉じる。
「っ……!」
鷹也たちの声が聞こえた気がした。
誰かが自分の名前を呼んだような気もする。
けれど、その全てが光の中へ溶けていく。
足元からふわりと身体が浮くような感覚。
重力が消えた。
世界が引き裂かれるような浮遊感に、陽翔は思わず歯を食いしばる。
時間の感覚すら曖昧になっていく。
一瞬だったのか。
それとも何分も経っていたのか。
分からない。
やがて光が静かに薄れていく。
閉じていた瞼越しにも分かるほどだった眩しさが消え、陽翔は恐る恐る目を開いた。
「え?」
そこに広がっていたのは、見慣れた住宅街ではなかった。
石造りの広い屋内。
足元には複雑な紋様が刻まれた床。
そして、その中央に鎮座する白い祭壇。
その光景を目にした瞬間、陽翔の背筋を冷たいものが走る。
見覚えがあった。
夢だ。
何度も、何度も見た、あの奇妙な夢。
その最後。
白い少女が立っていた、あの祭壇が。
今、目の前にあった。




