プロローグ「そして二万二千年後」
───夢を見た。
それがいつからだったのかは覚えていない。
ある日を境に、眠るたび奇妙な夢を見るようになった。
最初の夢は、小高い丘の上から始まった。
突然目の前へ広がった景色に戸惑いながら周囲を見回すと、遠くには山々がそびえ立ち、その麓には深い森と穏やかな川が流れていた。
見上げれば、雲ひとつない青空。
視線を下ろせば、小さな村があった。
畑を耕す人々、家畜、煙突から立ち昇る白い煙。
周囲を見渡せば自然ばかりの、都会育ちの自分には思わず「ど田舎」と言いたくなるような場所だった。
──そう思ったのは、一瞬だけ。
次の瞬間には、目が離せなくなっていた。
綺麗だ。
それ以外の言葉が見つからなかった。
汗を流しながら鍬を振るう男性。
微笑みながら洗濯物を干す女性。
川辺で釣り糸を垂らす老人。
危なっかしくも楽しそうに駆け回る子どもたち。
目に映るすべてが、不思議なほど眩しく見えた。
一体、ここはどこなんだ。
そう思った。
けれど声は出ない。
身体も思うようには動かなかった。
まるで誰かの目を借りて景色を眺めているような、そんな奇妙な感覚だけがあった。
その時。
村の方から、一人の少女がこちらへ向かって走ってくる姿が見えた。
雪のように白い髪が風になびく。
こちらへ何かを叫んでいるようだった。
その少女の顔を見届ける前に、視界は突然暗転した。
そして目を開くと、そこには見慣れた自室の天井。
夢だったのか。
そう理解するまで、しばらく時間がかかった。
───
一週間後。
二度目の夢は、薄暗い森の中から始まった。
辺りには嫌な静けさが漂っている。
身体を動かそうとした。
だが動かない。
首も、腕も、足も。
まるで金縛りにあったように、自分の意思では指一本動かせなかった。
すると突然、身体が勝手に歩き始めた。
抵抗しようとしても止まらない。
諦めて景色を眺めていると、不意に視界が右へ向いた。
するとそこには。
鋭い牙。
全身を覆う禍々しい毛並み。
こちらを射抜くような黄金の瞳。
目の前に、体長三メートルはあろうかという赤黒い虎が、丸太のような四本足で立っていた。
恐怖で息が止まりそうになる。
数秒ほど睨み合った後、その獣は地面を蹴った。
一直線に飛び掛かってくる。
死んだ。
そう思った。
恐れのあまり無意識に目を閉じようとした。
だが、それすらできない。
迫り来る死を、開いたままの瞳で見つめ続けるしかなかった。
まるで今からお前を殺す存在を、目に焼き付けろと言わんばかりに。
その瞬間。
世界が一瞬だけ揺れた。
気づけば、自分の身体は少し前へ移動していた。
何が起きたのか分からない。
身体がゆっくりと後ろを振り返る。
そこには、縦に両断されて中身を撒き散らしながら転がっていたナニカがあった。
吐き気。
目を覚ました時には、身体中が汗で濡れ、頬には涙が伝っていた。
理由なんて分からない。
それでも、その夢だけは妙に現実味を帯びていて、しばらく心臓の動悸は収まらなかった。
───
三回目の夢は、前回から四日後だった。
最初に視界へ映ったのは、白く広い部屋だった。
何もない。
ただ、部屋の中央にぽつんと佇む黒い扉だけが、異様な存在感を放っていた。
この夢だけは、今でもよく分からない。
いつものように、身体は自分の意思とは関係なく動き始める。
ゆっくりと扉へ近付き、黒い取っ手へ手を掛けた。
躊躇いもなく扉を開き、一歩中へ踏み入れる。
眩い光に目を眩ませ、ようやく視界が戻ってきた時。
壁に掛かった、自分が通う高校の制服が目に入った。
夢は終わっていた。
前回のような悪夢ではなかっただけ、まだマシだった。
そう思い、特に気にも留めることなくベッドから降りた。
そして朝食を求め、眠気の残る身体を引きずるようにリビングへ向かう。
───
二日後。
四度目の夢は、始まりから最悪だった。
赤。
赤。
赤。
視界を埋め尽くすほどの赤。
足元に転がる無数の人間。
大地は血と泥に塗れ、かつて緑だったはずの草原は見る影もなく踏み荒らされていた。
川には赤黒い液体が流れ、遠くの村は業火に包まれている。
それでもなお、人々は争い続けていた。
金属がぶつかる音。
武器が肉を貫く音。
骨がひしゃげる音。
そして絶え間なく響く雄叫びと叫び声。
炎、竜巻、雷、濁流、さらには飛び交う巨大な岩石。
見たこともない光が戦場を駆け巡る。
まるで地獄だった。
突然、一つの火球がこちらへ飛来する。
避けなければ。
そう思うより早く、身体は勝手に動いていた。
火球を紙一重でかわし、その勢いのまま一人の男へ肉薄する。
右手に握られた剣が下から振り上げられた。
次の瞬間、男の片腕が宙を舞う。
そのまま返す刃で首をはねた。
何を、しているのか。
理解はできず、思考もできない。
だが身体は止まらない。
一人。
二人。
三人。
十人。
二十人。
まだ増える。
まるで草でも刈るように、人を斬り続けていく。
違う。
やめてくれ。
そう心は叫んでいた。
剣を捨ててくれと願った。
どうすることもできず、逃げ出したかった。
もういっそ、殺してほしかった。
だが声は出ない。
身体はただ、命の剪定をし続ける。
心が壊れそうになった、その時だった。
不意に身体が止まった。
視線の先には、一人の女性が立っていた。
見覚えがある。
一度目の夢で、洗濯物を干していた女性だった。
近くで見て初めて気付く。
女性のお腹は大きく膨らんでいた。
何かを必死に叫んでいる。
けれど声は聞こえない。
伝わったのは、その必死さだけ。
その時、女性の死角から一人の男が剣を振り上げた。
身体が反射的に動く。
一瞬で兵士との距離を詰め、背後に女性を隠すように立ち塞がり、そのまま斬り伏せる。
助かった。
そう思った。
振り返った。
その瞬間──
──女性の身体から、花が咲くように鮮血が噴き上がった。
鮮やかな赤が視界いっぱいに広がる。
夢は終わり、現実へと戻る。
気付けば、ベッドではなく床へ転げ落ちていた。
時計を見る。
時刻は朝の四時八分。
汗はかいていなかった。
───
翌日。
つまり今日。
五度目の夢を見た。
始まりは、薄暗い洞窟だった。
昨日あれほど最悪な夢を見たばかりだというのに、と心の中でため息をつく。
夢を見る間隔が、少しずつ短くなっている。
そのことが、何よりも気味悪かった。
いつものように身体は勝手に歩き始める。
だが、今回は一人ではないようだ。
右隣には、一人の少女が並んで歩いている。
見覚えがある。
一度目の夢の最後、丘の下からこちらへ向かって走ってきた少女だった。
雪のように白く透き通る長い髪。
陶器を思わせる白い肌。
そして、宝石のように澄んだ紫の瞳。
あまりにも幻想的で、思わず息を呑むほど美しい少女だった。
少女は不安そうな表情でこちらを見上げ、何かを話しかけてくる。
しかし、やはり声は聞こえない。
使えもしない読唇術で唇の動きを必死に読もうとする。
当然何と言っているのか分かるはずがない。
ただ、なんとなく。
──本当にやるんだ。
そう言ったように見えた。
意味は分からない。
考えても分かるはずがない。
そう自分に言い聞かせ、思考を振り払う。
気付けば、洞窟の奥に広がる大空洞へ辿り着いていた。
入り口から先は、沼のように黒くぬかるんだ地面が広がっている。
半径百メートル以上はありそうな、巨大な空間。
薄暗く全体像は見えないが、天井は高く、どうやらドーム状になっているようだった。
静かだった。
静か過ぎるほどに。
その静寂を引き裂くように、奥の闇が揺らぐ。
巨大な影。
黒い毛並み。
そして、三つの首。
ゆっくりと姿を現したバケモノを見た瞬間、死を覚悟した。
いつしか見た虎とは訳が違う。
災害。
そんな言葉が似合うそれは、果たして何なのか。
犬のような風貌。
だがそんな言葉で片付けられる存在じゃない。
家よりも大きな図体。
三つの頭がそれぞれ異なる方向を睨みつけ、赤く光る六つの瞳が闇の中で妖しく輝いている。
だが不思議にも、首一つにだけ首輪がついていた。
ケルベロス。
その名だけが、不思議と頭の中へ浮かんだ。
全身を襲う圧倒的な威圧感に、一歩も動けなくなる。
その時だった。
隣の少女が、そっとこちらの手を握った。
温かかった。
瞬間、二人の身体が淡い光に包まれる。
しばらくして痺れを切らしたか、三つの首が一斉に咆哮を上げ、大地を砕く勢いで突進してきた。
──だがそのまま戦いになることはなかった。
轟音と共に、巨大な黒い影は二人の背後の壁に衝突していた。
気付けば、自分たちは先ほどまでバケモノが立っていた場所へ移動していた。
何が起きたのか理解できない。
混乱する間もなく、身体は再び勝手に走り出した。
景色が流れる。
風が頬を叩く。
少女も必死について来ている。
やがて辿り着いた巨大な石扉、その先の部屋には一つの祭壇があった。
古びているはずなのに、不思議と神聖さを感じさせる白い祭壇。
身体は迷うことなく近付き、そっと手を翳した。
祭壇が淡く輝き始める。
後ろにいた少女が静かに祭壇へ上がる。
こちらを振り返り、小さく微笑んだ。
胸の前で両手を組み、祈るような姿勢になる。
そして、ゆっくりと唇を動かした。
──さようなら。
そう言った気がした。
次の瞬間、祭壇から眩い光が溢れ出し、世界そのものが白く染まっていく。
視界が閉ざされる。
そして目を開け体を起こせば、そこは慣れ親しんだベッドの上。
汗はかいていない。
ベッドから落ちてもいない。
それどころか、どこか落ち着いていた。
ただ、口の中へ流れ込んできたものがあった。
塩辛い。
左目から流れた雫が口元へ伝っていた。
なんだこれは。
分からない。
どうして。
分からない。
それが何だったのか終始答えが出ないまま、ベッドから降りた。
───夢から覚めた。
外が明るい。
鳥のさえずりが妙に耳に残る。
未だ奇妙な夢の余韻は抜けていない。
壁に掛けられた時計へ目を向けると、六時八分。
今日は月曜日。
学校がある。
普段よりも重い身体を起こし、制服へ着替えながら小さく息を吐く。
胸の奥には、夢とは思えないほど重苦しい何かだけが残っていた。




