第37話
開かれた扉の隙間から、顔面蒼白の盛谷先生が覗いている。
全身が小刻みに震え、言葉にできない恐怖に支配されているようだった。
「先生、どうしました?」
玻璃が優しい言葉を投げかけた次の瞬間、盛谷の瞳に狂気の光が走った。
彼は荒々しい息遣いとともに、ためらいなく玻璃の肩に手を伸ばし、強い力で掴みかかる。
「やめてください、落ち着いて」
玻璃は必死に距離を取ろうとしたが、盛谷の予測不能な動きに翻弄され、気づけば壁際まで追いつめられていた。
玻璃の全身が危険信号を発した。
眼前の同僚はすでに理性の糸が切れており、通常の対応では事態を収められないことを本能が告げている。
緊張した空気の中で、玻璃はゆっくりと手を伸ばし、穏やかな微笑みを浮かべながら盛谷の頰に指を添えた。「大丈夫ですよ」と慈愛に満ちた声で語りかけ、真っ直ぐに相手の瞳を捉える。
混乱した盛谷の表情が一瞬和らいだその隙を、玻璃は見逃さなかった。
玻璃は咄嗟に膝を突き上げ、盛谷の急所に正確な一撃を見舞う。想像を超える痛みに、盛谷は悲鳴にも似た声を上げながら床へと崩れ落ちた。
瞬時に後方へ身を翻した玻璃は、攻撃範囲の外まで安全に距離を取った。両拳を顔の前に構え、かつての世界で身につけた防御の姿勢を取り、警戒を怠らない。
打ちのめされた盛谷は、よろめきながらゆっくりと体を起こした。頭を垂れたまま、壁に手をついて支え、覚束無い足取りで保健室を後にする。
その背中には、深い困惑と悔恨の念が滲み出ていた。
一連の出来事を終え、玻璃は身体の奥から大きく息を吐き出した。アドレナリンの効果が薄れ始め、両手に細かな震えが走るのを感じながら、ゆっくりと椅子に座り込み瞼を閉じる。
「夜職時代の護身術の講習」
玻璃は苦笑しながら、過去の自分に語りかけるように言葉を漏らす。
「あんな付け焼き刃が役に立つとは」
前の世界の経験が、思いもよらない形で現在の危機を救った。玻璃は両方の世界の記憶が交わり合う奇妙な感覚を、自らの身体を通して初めて実感した。
「けど、こんなん、チートよなあ……」
玻璃は机上に置かれたごぼう茶のボトルへと手を伸ばし、液体をゆらゆらと揺らしながら、自嘲気味にその言葉を零した。
☆★☆★☆
——校舎の屋上は、盛谷の狂乱の舞台と化していた。彼は大きな三角定規を武器のように振りかざし、支離滅裂な言葉を叫び続けている。
「盛谷先生、お願いです! そこから離れてください!」
何人かの教師たちが取り乱した様子で、盛谷を止めようと懸命に声をかけていた。しかし彼はそれらの言葉を耳に入れる様子もなく、屋上の手すりへと着実に歩を進めていく。
その姿は、まるでこの世界からの脱出を図っているかのようだった。
そんな一触即発の状況に、玻璃が遅れて到着した。
玻璃の視界に飛び込んできたのは、最悪のシナリオが現実となりつつある光景だった。
〔三角定規て……それで何ができるつもりなんや〕
玻璃が対応を考える間もなく、盛谷の身体が一瞬のうちに柵を乗り越え、何もない空間へと飛び出していった。
「やめろー!」
教職員たちの絶叫が、虚しく屋上に響き渡った。
——その瞬間、世界が歪んだ。
一瞬にして視界が黒く染まり、あらゆる動きが緩慢になった。まるで蜜の中を進むかのように時間の流れが鈍化し、周りの教職員は彫像のように動きを止めていた。
この異常な状況下で、唯一玻璃だけが動きを保っていた。彼女は冷静さを失わず、時間から取り残された教職員たちの間を静かに歩み、屋上の端まで辿り着いた。柵に寄りかかり、果てしなく広がる闇の底へと目を凝らす。
底なしの暗闇の中に、盛谷の身体が不自然に宙に浮かんでいるのが見える。彼はうつ伏せの状態で、まるで見えない糸で吊されたかのように闇の中に静止していた。
よく見れば盛谷は既に落下を終えており、うつ伏せの状態で地面と激しく衝突したいた。その強烈な衝撃により、着地点を中心に地面が水面のような波紋を描き、不自然に歪んでいる。
口を閉ざしたまま、玻璃はこの現実離れした光景をじっと見つめ続けた。
不意に、風が唸るような、あるいは古い機械が軋むような不快な音が周囲に鳴り響いた。その轟音は、思わず手で耳を塞ぎたくなるほどの激しさだった。
やがて、玻璃の目の前で信じがたい光景が展開し始めた。
轟音に呼応して処理されるかのように、盛谷の体がデジタル映像のように変容していく。その姿が徐々に小さな立方体に分割されていき、まるでモザイク処理されたかのように見えた。各立方体はサイコロのように整然と並び、かろうじて盛谷の輪郭を保っている。
しかし、奇妙な状態も長くは続かなかった。次々と立方体が空間から消失していく。まるで見えない手によって一つずつ摘み取られていくかのようだ。玻璃は息を呑んで、この超現実的な光景を見守った。
ついに、最後の一片が消え去り、盛谷の痕跡は完全に消え去った。
耳をつんざく轟音は、まだ鳴り止まなかった。まるで、巨大な装置が黙々と処理を続けているかのようだ。冷たく無機質でありながら、どこか達成感に満ちた響きを持っているように思えた。




