第36話
曽我井玻璃の指先が、慣れた手つきで書類をめくっていく。保健室の大きな窓から差し込む優しい光に包まれながら、玻璃は山積みになった書類の整理に没頭していた。
一枚一枚に目を通し、時折赤いボールペンで書き込みを加え、新たな書類の山を左側に築く。
玻璃は書類から目を離すと、窓の外に広がる校庭を眺めた。この世界の自分は、こんな地道な仕事を黙々と続けてきたのか。
転移者として目覚めた時、二つの人生の記憶が衝突し、一時は混乱したもののすぐにそれらが同じ魂から分岐した自分自身だと悟った。
波乱万丈だった前世の記憶が鮮明に残りつつ、今世の堅実な生活も確かに自分の一部となっている。この不可思議な融合を静かに受け止め、両者の長所を活かす道を探っていた。
「なあ、どう思う?」
「何が?」
白いベッドの上でうつ伏せになったままスマホの画面を見つめている新田物朗に声を掛けると、彼は顔も上げずぶっきらぼうに答えた。
「私、ちゃんと先生やれてると思う? あっちの世界では先生ちゃうかったからさあ」
「知らねえよ。てか、生徒にそんなこと聞く?」
新田は玻璃が受け持つクラスの生徒で、近頃は学校に着くと即座に保健室へ向かい、最初の授業が終わるまでベッドで時間を過ごすパターンが増えていた。
転移のダメージで心が疲弊していることは明白で、玻璃も教室への出席を無理強いしないようにしている。何より学校に足を運んでくれることを評価しているし、概ね二時間目からは自主的に教室へ戻っている。
「あっちでは夜の仕事しかしたことなかってん。それが保健室の先生、しかも担任まで受け持ってるんやで。びっくりやと思わへん?」
「てか、生徒にそんな話する!?」
ここ最近になって、新田との心理的距離が少し縮まっていた。彼はもはや玻璃に対して敬語を使わず、呼び名も「曽我井先生」から「玻璃先生」へと変化した。
とりわけ転移者との間に信頼の絆を築くことを最優先していた玻璃にとって、この微妙な変化は確かな前進に思えた。
玻璃もまた新田や、自分が顧問を務めるオルタナティ部の部員に対しては、くだけた話し方を心掛けている。
「ええねんええねん。転移者に隠し事すんのは違うと思ってるからね」
本来、玻璃は教師と生徒が友人のような関係を築く必要はないと考えていた。そうした距離感の生徒がいても構わないが、必ずしもカジュアルな関わり方が理想とは限らない。
しかし玻璃はこの世界で大人の転移者という稀有な立場にある。混乱する若い高校生の転移者たちにとって、豊かな経験を持ち、気さくに話を聞いてくれる姉のような存在になろうと決めたのだ。
だから玻璃は前の世界での自分の背景を秘密にしていない。三人の子を持つ母親なことも、最初の子は彼女自身がまだあどけなさの残る年齢で出産したことなども、新田には既に打ち明けていた。保健室を訪れる他の転移者たちに対しても、同じようにオープンな態度を貫いている。
それでももちろん、玻璃にも軽々しく口外できない秘密は存在する。
だが彼女の多彩な人生経験から語られる些細なエピソードですら、不安定な高校生たちにとっては心を開くきっかけになり得る。玻璃が厳格に守り通しているただ一つの信条は、嘘をつかないという誠実さだけだった。
「この前、沙綾ちゃんから電話がかかってきたで」
依然としてスマホを覗き込んだまま、姿勢も変えない新田に向かって、玻璃は中学時代の同級生である彼の姉の名前を出した。
新田がわずかに身動きし、顔を持ち上げて玻璃の方へ向ける。
「物朗に無理をさせないようくれぐれもよろしくって。新田は沙綾ちゃんに愛されてるなぁ」
「当たり前でしょ。俺も沙綾さんを愛してるし」
新田は少し拗ねたような表情を見せながら答えた。
〔この子、そんなことを恥ずかしげもなく言うんや〕
玻璃は思わず目を見開いた。
人を見極める目には自信があると思っていたが、新田がこんな言葉を躊躇なく口にするとは予想外だった。
彼はいつも瀬加や童子山といった女子生徒に囲まれ、微妙な距離感を保ちながら接する、独特の雰囲気の持ち主だと捉えていた。それなのに自分の姉に対して、ここまで素直に愛情を表現するとは。
——最初の授業の終わりを告げるチャイムが響き、廊下が一気に騒がしくなった。
新田はベッドから身を起こし、スマホをズボンのポケットに滑り込ませると、大きく息を吐いて「じゃ、玻璃先生、行ってくる」と告げた。
玻璃は温かい笑顔を向け「頑張っといで」と送り出した。
二時間目の授業開始のチャイムが鳴り、再び静寂に包まれた保健室で一人になった玻璃は、机上の散らばった書類を手に取り、きちんと揃えるためにトントンと軽く叩く。
屋上で一息つきたい——そんな気持ちが湧き上がってきた。
ロッカーのドアを開け、エメラルドグリーンの小さなポーチを手に持つ。
不意に、扉が大きな音を立てて勢いよく引かれ、玻璃は反射的に体を強張らせた。




