第38話
エメラルドグリーンのポーチをゆっくりと開いた玻璃は、中から電子タバコのケースをそっと取り出した。
慣れた手つきでスティックを装着し、自然な流れで口元へ運ぶ。その動作には、日々の習慣が刻み込まれている。
玻璃は盛谷のことを思い出していた。
盛谷は苦手な男だった。玻璃が既婚者で子どもがいると告げても、一顧だにせずセクハラじみた言動を繰り返してきた。
用もないのに保健室に居座り、こちらが興味を示さないことを無視して自分の乗り回す車の自慢話を繰り広げる。その自己中心的な態度に辟易していた。
過剰なまでに自身の男性性を誇示する姿は、滑稽なほどだった。
最悪なことに、朝から酒の匂いを漂わせていることもあった。玻璃は、そんな彼の存在に常に緊張感を強いられていた。
盛谷が転移を自覚したのは、わずか数日前のことだ。玻璃はその日、職員室で彼が取り乱す様子を偶然目にした。
いつもの尊大な態度はどこへやら、彼の顔から血の気が引き、目の焦点が合わなくなっていく様子は、まるで映画のワンシーンのように記憶に残っている。
突然立ち上がり「これは違う、違うんだ」と繰り返す姿は異様だった。
職員室の席の配置が変わったこと、同僚の顔は知っているのに名前が思い出せないこと、そして何より、自分が担当していたはずの科目の知識が頭から抜け落ちていることに、彼は取り乱していた。
震える手で額を押さえ、座り込んでしまった彼を、同僚たちがストレスによる一時的な錯乱と判断する中、玻璃だけは彼の瞳に映る混乱が何を意味するのか理解していた。
彼の自信満々な態度の裏にあった脆さが一気に表面化し、二つの世界の記憶の狭間で足場を失った彼の姿は、哀れささえ感じさせるものだった。
「壊れるの早過ぎやろ」
玻璃は煙を吐きながら、冷ややかに呟いた。
そして、少し皮肉めいた口調で付け加える。
「大人は頼りないなあ」
すると、背後から予測していなかった声が聞こえた。
「校内は禁煙ですよ」
振り返った玻璃の視界に、匣庭高校の喜多垣夜澄校長の凜とした姿が飛び込んできた。その目には毅然とした厳しさが光る一方で、微かな笑みを含んだ口元からは、意外な柔軟さも感じられる。
「私は許可をいただいてるはずですが」
玻璃は電子タバコをゆっくりと下ろしながら、冷静に、しかし僅かに挑戦的なニュアンスを込めて応じた。
「実だったら、好きなだけ食べていいんですよ」
喜多垣校長が微笑みながらそう告げると、差し出された手のひらの上に、不自然なほど赤く輝く実が姿を現した。
そのあまりに鮮やかな色彩は人工的で、まるで危険を知らせる警告灯のようだった。
玻璃は、その実を冷ややかな目で見つめた。
「実に見せかけた変な薬なんていらないんですよ」
玻璃が、拒絶の意思を込めて言う。
「赤い実って……名前すらついていないじゃないですか。少なくとも仮称くらいは付けるべきでは?」
喜多垣校長は柔らかな微笑を浮かべながら答えた。
「そのうち使わなくなるものですからね。おぼろげであった方がいいんです」
「私、怪しい合法ドラッグはやらないんですよ。一応、看護師さんの資格持ってるんで」
玻璃は突き放すように言った。「看護師さん」と、まるで他人事のことのように語る自分に、玻璃は自嘲の笑みを浮かべた。
両方の世界で生きた記憶を持ちながらも、前の世界でのアイデンティティがより優勢であるからこそ、現在の職業や立場を、距離を置いて見つめることができていた。
「それならまず禁煙なさいよ」
喜多垣校長が呆れたように言う。
しかし、すぐに口調を変えて続けた。
「まあいいわ。曽我井先生、校長室までついて来てください」
時間の流れは依然として止まったままだった。喜多垣校長は玻璃に背を向けると、凍結した世界を抜けるように校舎の中へと歩み入った。
「やれやれ」
玻璃は小さく舌打ちをしながら、「まだ三パフしか吸ってへんのに」と、不満げな表情で電子タバコをケースに収めた。
☆★☆★☆
「みのり園へ通じる道が、ある程度復旧したの。完全に通行可能になる前に、曽我井先生には視察に向かってもらいます」
有無を言わさぬ物言いに、玻璃はぎょっとした。
みのり園という謎の施設の存在は、玻璃も気になってはいた。箸荷が探している渚沙さん、それに瀬加や童子山が探している村雲さんは、共にみのり園にいる可能性がある。
みのり園にアクセスするための道路は、管理者・九の気まぐれによって寸断されたらしい。
しかし、まだ完全に修復されていない道を行けというのは、つまり何らかのリスクを背負わせるということではないか。
「一、二年生合同オリエンテーション合宿の後、すぐにみのり園に行ってもらいますので、そのつもりでお願いします。よろしくね」
「いや、めちゃくちゃやん! よろしくね、ちゃうわ!」




