ユーゴ
僕はユーゴと並んで一人で歩いてきた道を戻り、始発の電車に乗って四人で住んでいるマンションの最寄り駅まで帰った。始発電車の車内はがらがらに空いていて、僕は乗り合わせたほんのひと握りの人達を見て、この人達にとってこの電車は帰りなのか行きなのだろうかと考えた。この人達にとって今は夜なのだろうか、それとも朝なのだろうか。
僕とユーゴは一言も話さずにマンションまで歩いた。マンションの扉の前で大きすぎるバックを漁るユーゴを見かねて僕が鍵穴に鍵を差し込んだ。マンションはただひたすらに静寂を保っていたが、ところどころ人が動いている気配がした。
黙ったままユーゴはブーツを脱いで玄関を上がっていった。僕は灰色の四角いタイルの並んでいる三和土を眺めた。律のヒールの高い黒いパンプスと美宇の茶色く内側にファーのついたブーツの間に、ユーゴのブーツはパズルの欠けていたピースのようにはまった。ユーゴはドアを開け放したまま自分の部屋に入る。僕は吸いよせられるように後を追いかけた。
部屋の正面の窓の下のベッド、ぎっしりと詰められた本棚と大量のDVDの並ぶシェルフ。本棚の上にぽつんと置かれたクリーム色の地球儀。ユーゴの部屋はひどく簡素で仮住まいの宿みたいによそよそしかった。ユーゴは電気もつけずにバックを床に投げてベッドに勢いよく倒れ込んだ。下敷きになった毛布を鬱陶しそうに横に押しやる。
「眠くねぇの?」
部屋に立ったままの僕にユーゴが訊く。
「何か冴えてきちゃった」
僕は言った。そう、とユーゴは言う。寝転がったまま怠惰そうに窓の外に目をむける。ユーゴが帰ってくるまで誰も入らなかったこの部屋の窓のカーテンは開けっ放しだった。窓の外は薄く白んできていた。薄暗い静謐な部屋にぶーん、と新聞配達のバイクの音が響いた。
「なぁ、来栖」
ユーゴが口を開いた。
「俺たちの父親のことを聞きたいか?俺もそんなに知っているわけじゃないんだけどさ」
僕は神妙な面持ちで頷く。
「来栖、俺は俺達の父親のことをひどく憎んでいたよ」
静かな声が落とされる。ちらり、と僕の方を見てユーゴはまた目をそらす。
「女と酒とギャンブルをこよなく愛した男だった。客観的に見てもどうしようもない奴だったと思う。奴は基本的に家にいなかったし…小さい頃にほんのわずかな時間、一緒にいた時でさえ奴は俺に構うことはなかったよ。そもそも奴は子どもに全く興味がなかったんだろうな」
無表情で淡々とユーゴは言う。ユーゴが何を見ているのかが僕にはわからない。
「話しをしたことは少しあったけれど、あれは会話じゃない。言葉なんかじゃなくて…そう、奴の口からでるものはただの道具だったな。だから俺は奴が嫌いだった。隣の家の道路でサッカーボールを蹴り合っている親子がひどく不思議でしかたがなかった」
僕が信じていたもの。ユーゴの声を聞きながら僕は母さんの泣きそうな声を思い出した。
「しかも奴のせいで俺の母親がどんどん狂っていくんだ。泣いて叫んで、小さかった俺を叩いて殴って」
俺の顔は父親似らしいんだ、とユーゴはぎこちなく笑った。
「まだその頃はよかったのかもしれないね。俺が十四歳の時、彼女は俺を残して自分の人生を決めたんだから」
ユーゴは自分の左手で首をそっと噛みつくように掴んだ。影のさしている肌の上をそっと滑らせ、突き出た喉仏の上の膚をつまんで、離す。
「俺は奴を相当憎んだよ。彼女が俺を叩こうが引きずろうが、食事を与えなかろうが、そんなこと気にしなかった。俺には彼女しかいなかったんだから。…彼女を、慕っていたんだから」
小さく溜息がこぼれる。それが誰がこぼしたものなのかは曖昧だった。
「奴が蒸発したのは幸いだったね。あの頃の俺は毎朝自分の顔を見ることが嫌いだったし…もしあの時に奴とあっていたら俺は奴を手にかけてしまっていたかもしれない」
僕は静かにユーゴが転がるベッドの端に腰掛けた。僕の体重に合わせてマットレスが沈む。
「彼女がいなくなってから親戚の間を俺は転々としていた。奴の方の血筋に行くなんてもってのほかだったし、彼女の親族は彼女が猛反対を押し切って結婚したこともあって、それ見たことかっていう表情をしていた。醜聞っていうのは恐ろしくてさ、何故か学校にまで話は広がっていて…俺の居場所は近所の図書館くらいにしかなかった。そこで、俺は、これと出会ったよ」
ユーゴは枕元に置いてある分厚い本に手を伸ばした。ユーゴは僕の方にその本を放る。僕は毛布に沈んだクリーム色の表紙をした分厚い文庫本を手に取る。
「レ・ミゼラブル…? ヴィクトル・ユーゴー?」
僕は日に焼けて色の濃くなった本の文字を読み上げる。
「お前のユーゴってもしかしてこのユーゴーからきているの?祐豪じゃなくて」
驚いて訊く僕にユーゴはしっかりと頷いた。ユーゴは手を伸ばして僕から本を取り上げた。ゆっくりと愛おしげに古びた表紙を撫でる。
「両方だよ。俺は自分の名前が大嫌いだった。この名前だけは奴がつけたんだと、昔母親が嬉しそうに言っていた。憎んでいる奴がつけた名前だということだって嫌でたまらなかったし、こんな面倒な名前、嫌いだった。でも、」
本を横においてユーゴは僕を真っ直ぐに見つめる。茶色い、切れ長の目がしっかりと僕を見据えた。
「ヴィクトル・ユーゴーの文字を見て、彼の書いた文章を読んで俺はひどく救われた。それで俺は奴を許したよ。認めた。奴は文学なんて全く興味のない男だったからヴィクトルのことを考えてつけたなんて絶対に、ありえない。でも俺は奴にとても、とても感謝したよ。俺を救ってくれた本を書いたヴィクトルとたまたま似たような名前をつけていたという偶然。この必然的な偶然に、ひたすら感謝した」
窓の外はもうすっかり明るくなってきていた。朝の光が部屋を白く染める。
「レ・ミゼラブルって『哀れな人々』って意味なんだってな」
何も言わずに聞く僕に優しく微笑んでユーゴは目を閉じる。毛布とシーツが絡んでいるベッドの上を光が差しこんだ。ゆっくりとユーゴは口を開く。
「あいつにだって、どうしようもない奴になるまでに悩んで葛藤して大泣きしたことがあっただろう。顔くらいしか取り柄のない、女と酒とギャンブルが好きなどうしようもない哀れな奴。そんな彼に魅せられてしまった哀れな女。哀れな、愛おしい人達」
柔らかいユーゴの顔に僕は途方に暮れてしまうくらいにせつなくなった。
「ユーゴ、本当にごめん。やつあたりなんてして…何も知らなかったくせに、僕は」
ユーゴは首を振る。
「来栖、俺は怒っていないよ。言わなかった、言えなかった俺もいけない。俺はむしろ実の弟と会えて、血の繋がった人と一緒に暮らせて嬉しかった」
掴みどころのなかったはずのユーゴの声はひどくまっすぐだった。本当に嬉しそうなユーゴの笑顔につられて僕の口元も綻んだ。




