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ユーゴ  作者: 蒼井 雨
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10/12

夜の街で

 駅まで走った僕は息を切らせながら地下への階段を下りた。大勢の人で溢れかえる改札前の広場を走り抜けて、途中で何人かの人にぶつかり謝りながらユーゴのバイト先があるはずの駅へ向かう電車に飛び乗った。各駅停車でふた駅。わずか十分間の乗車時間は恐ろしい程に長く、僕は残業帰りのサラリーマン達にもまれながら電車の窓の外に広がる地下の闇に浮かぶ自分の顔をただひたすらに凝視していた。黒地にくっきりと浮かぶ顔は周りの憔悴しきった社会人よりも若く、幼稚ささえ感じられた。僕は僕が居場所を奪ってしまったユーゴのことを考えた。ユーゴの顔は僕よりもはるかに大人びたつくりをしていたと思った。

 長い十分間に僕は同じ車両に押し込まれた疲れた人達の顔を眺めた。僕は夕方以降の電車に乗ることが苦手だ。狭い空間に乗り合わせた多くの人達の顔に浮かぶ疲弊にあてられてしまう。

前に一度、僕はユーゴと二人で電車に乗って帰ったことがある。定員人数をひどく上回ったJRに乗って都心まで帰ってきた僕たちは南へ下る最寄り駅への地下鉄に乗り換えた。地下鉄はJRほど混雑してはいなかったが、つり革に捕まっている人や座っている人のほぼ全員が疲れた顔をしていた。のんびりと電車に乗った僕たちは競いあうように席を取り合う人達に少し驚き、乗り込んだドアにもたれていた。ユーゴは暗闇の中僅かに見える枕木を楽しそうに眺めていたように思う。何でこんなにみんな疲れているんだろう、どうしようもない虚しさに襲われた僕は言った。まだ、月曜日だ。毎日こんな疲弊して。どうしてこんなに疲弊しなくちゃいけないんだろう。何もない窓の外を楽しんでいたユーゴは僕の小さな呟きに似た声に僕の方を向いた。そして、柔らかい表情で目を細めて言った。来栖、想像してみろよ。彼らにはあたたかな家が待っているんだぜ。手作りの夕食を作って待ってくれている奥さんが、一日の出来事を報告したいと思いながらも睡魔に勝てなかった可愛らしい子供たちが。深夜に励ましあえる電話越しの友人の声が、大事な恋人が待っているんだぜ。想像してみろよ、あたたかさに迎えられてほころぶ彼らの顔の柔らかさを。

 ひっそりと言って僕の顔をほころばせたユーゴに、僕はあの時、全くお前の思考回路は幸せだよなと憎まれ口を叩いた。同じ地下鉄の窓を眺めながら僕はユーゴに思う。あの時だってお前は何を思っていたんだ?ユーゴにあたたかな家はなかったんだろう…?

 改札をでて階段を駆け上がった先のスクランブルは若者たちで溢れかえっていた。息が白くなるほど寒い夜更けにも関わらず露出した格好ではしゃいでいる人達に僕はけおされた。華やかな格好の女達とそれに絡んで大きな笑い声を上げている男達の雑踏をくぐるようにして抜けて、車道すれすれに立ったとき僕はユーゴのバイト先がこの街のどこにあるのか知らないことに気づいた。

信号が青に変わり僕の後ろにいた人の群れが一斉に歩き始めたので、僕は律にメールでユーゴのバイト先を聞きながら波におされるようにしてスクランブルを渡った。律から返事が返ってきた時にはコートを着てくることを忘れた僕の体はかなり冷え切っていて、振動して返信を知らせる液晶画面が悴んだ手から落ちそうになった。レンタルビデオ屋の円柱型のビルの壁のガラスには何かを待っている人たちが、けれど何を待っているのかわからない若者が大勢寄りかかり僕と並んでいた。珍しく顔文字も絵文字もない簡潔な律の返事には短い店名と住所が記されていて、住所から僕はその店がセンター街を一本入った通りにあることを調べだした。

 店は駅からすぐの場所にあったにも関わらず、返事を待っていたせいと僕が少し道に迷ったせいで僕が店の前についた時にはだいぶ遅い時間帯になっていた。閉店時間を三十分ばかりすぎた店のシャッターはもう閉まっていて僕は妙に静まり返った路地裏で裏口を探した。すぐに見つかった裏口だと思われる金属製の重いドアは洒落た正面とは裏腹に無駄がなく事務的だった。

「お前、今日も帰んないの」

 ドアを遠慮がちに開けた先に聞こえた声に僕は手を止めた。低い真剣な男の声は少し困ったように笑って続いた。

「まだ同居人と喧嘩してんの。なんならうち泊まるか?」

 僕は半開きになったドアを悴んだ手で掴みながら立っていた。僕の前の暗い廊下の右側には少し開いた木製のドアがあって光がこぼれていた。

「喧嘩…じゃないんですよ、きっと」

 ユーゴの声がぽつんと落とされる。

「それに先輩は彼女さんと同棲しているんでしょ、こんな時間に押しかけなんて…いいっすよ」

 深夜の廊下を伝うユーゴの声の響きにいたたまれなくなって僕は木製のドアに駆け寄った。居場所を奪われることの痛さは、誰よりも知っているつもりだった。明るい従業員室と思われるその部屋は外と変わらないくらいに寒く、床に腰をつけずに座っているユーゴとその側に立っていた知らない男が一斉に顔を上げて乱入者である僕をまじまじと見つめた。驚いた二人はしばらく黙った後、見知らぬ男が口を開いた。

「あれ、件の同居人さん?」

 やけに背の高い、生やした髭をきざに整えた男が言った。僕は頷く。

「あ、同居人って男なのかよ。勝手に女と揉めたのかと思っていたんだけど」

 僕とユーゴの暗い表情を吹き飛ばすように男は笑う。

「よかったじゃん、お迎えお迎え。お前、裏口の鍵は持っているよな?」

 白々しく明るい、静かな室内で男の笑顔だけが浮いていた。男はユーゴが頷いたのを確認すると、お疲れ様と言ってひらひらと手を振って帰っていった。廊下の先の重い扉が閉じて、がっしゃんという音が響く。僕はコートを着てこなかったことを今更後悔して、腕を摩りながら顔を上げないユーゴを見つめた。狭い従業員室はごちゃごちゃとしていて固そうなロッカーが幾つか並んでいた。つきあたりの保管庫にはケチャップやマスタードといった調味料の瓶やパスタなどの乾燥食品と一緒に未開封の酒瓶がたくさん並べられていた。部屋の中央にある脚つきの灰皿の水にはついさっきまで吸われていたと思われる煙草の吸殻が浮かんでいて、部屋の空気も心なしかけぶっているように思えた。

 言いたいことは山ほどあるのに、聞きたいことも無数にあるのに、言葉にすることができずに僕は静かな部屋でぱちぱちと馬鹿みたいに瞬きだけを繰り返した。

「お前はさ、どうして家を出てきたの」

 沈黙の中、ぽつんとユーゴが言った。唐突に落とされた言葉は、僕の混沌とした頭の中をまっさらにした。靴底だけを薄汚れた床につけてしゃがみこんだまま、ユーゴは顔を上げない。

「母さんが、再婚したんだよ。急に。それに納得しなかった僕は家をでてきた」

 僕は問われるまま素直に答える。やっぱり、とユーゴが呟いた。

「やっぱり?」

「地元の近いお前が家をでるなんて何かあると思ってたんだ。お前の母親はひどくお前を大事にしていたようだったし。お前も母親を大事に思っているんだろうと思っていたから」

「ユーゴは母さんとあったことあるの?」

 僕は茶色いつむじをぼうっと眺めた。大きな鏡の横の、タイムカードと一緒に並べられている時計の長い針が頂点をすぎてカチッと硬質な音がした。

「ない。ないけど俺が住むとこなくてふらふらしている時に、大人たちの間で話が上がっていたのさ。そういうの、好きだろ?世間話が大好きなおっさんおばさんは」

 ゴシップ、と歌っているみたいに妙に間延びした口調でユーゴは言って首を傾げる。

「再婚がそんなに嫌だったのか?お前の母親がそれでようやく幸せになれるんなら」

 僕は少し黙った。頭の中で考えた幾つかのことを反芻して、ゆっくりと口を開く。

「母さんが幸せになれるのならいいのかもしれない。でも、裏切られたと思ったんだよ。手酷い裏切りだって」

 ユーゴの茶色い目と視線があった。何かに憑かれたように言葉を紡ぎながら、僕の一部は妙に冷静に深夜のバーの従業員室で僕は何を言っているんだろうと考えていた。

「ずっと二人だったんだよ。支えあってきた。僕はそのために多くのことを我慢したしー諦めながらも、普通の円満な温かいものに包まれてきた子達に焦がれていた」

 日に焼けた肌をした小学生の女の子だった律はランドセルを背負ったまま、毎日僕の家のインターホンを鳴らしに来ていた。くーるす、あーそぼ? 僕は玄関からインターホン越しに毎日断った。他の子と遊んで。僕はやらなきゃいけないことがあるの。

「しょうがない、二人きりで生きていこうって思っていたのに急に連れてきたんだ。取引先で知り合ったの。何とかさんよ。やぁ、君が翔くんだね? 宜しくなんてさ。よろしくするかよって」

 僕の声は濡れていた。ユーゴは黙ったまま床のかごに置いてあった業務用の大量のおしぼりの入った袋を引き裂いて、そのうちの一つを僕に差し出した。

「もし、ユーゴが僕だったら。彼とよろしくした? はい、こんにちは。これから母さんをお願いしますね。なんて言ってさ、にっこり笑ってみせた?」

 閉店後の真夜中の店で成人した男が二人でしゃがみこんでいる姿はきっと笑っちゃうくらいにおかしいはずだ、と僕は思った。ユーゴは首を振る。

「もし、とか。何とかだったらとかそんなことはわからない。でも今お前は悲しいんだろ?お前の母さんは幸せじゃないんだろ?だったらそれは…きっと違う選択をしなくちゃいけないんだろう」

 遠くを見ながらユーゴは言う。

「ユーゴは悲しくないの」

 僕は訊く。

「出て行けなんて言ってごめん。やつあたりだった。僕のせいでひどく悲しかっただろ…ごめん」

 うん、とユーゴは頷いた。

「律も美宇もユーゴが帰ってこなくて部屋にこもっているし、美宇なんかぼろぼろ泣いてるんだ。ほんとにごめん。本当に僕が自分勝手なだけだった。勝手に思い違いして、ひとりで怒って追い出して」

 僕はユーゴの顔を真っ直ぐに見つめる。鏡に映った自分の顔はいびつだった。

「ごめん…お願いだ、帰ってきて…」

 僕の情けない声は白々しく眩しい蛍光灯の下に、開け放した冷たく真っ暗な廊下に響いた。頷いたユーゴは疲れた顔をしていた。



 大泣きした後のような、妙な爽快感と少しの罪悪感の入り混じる倦怠感が過ぎ去ると思い出したかのように寒気を感じた。

「お前、上着持ってきてねぇの」

 身を震わす僕にユーゴは驚いたように言った。急いできたから、という僕は言う。僕がこの部屋に来てからかなりの時間が過ぎたようで煙草の匂いのしていた部屋の空気は、嘘のように澄み切っていた。

「これ、さっきのおっさんのだけど使っていいから」

 すん、と鼻を鳴らした僕にユーゴはカーキのジャンパーを投げつけた。ごわごわとしたジャンパーは丈が多少長すぎるものの、温かかった。

「おっさんってさっきの人僕達とそんな年変わらないだろ」

 僕は言う。ユーゴは目を丸くした。

「何言っているんだよ、来栖。俺たちだっておっさんだぜ?もう十分な大人だ。働いて食っていける年齢だ」

 大人、か。僕はユーゴの言葉を反芻する。大人、だ。

今更になって部屋の奥の窓が開いていることに気がついた僕はユーゴに文句を言う。

「何でこの寒い中窓が開いているんだよ」

「その窓壊れて閉まんねぇの」

 ユーゴの言うとおり、どんなに力を込めて動かしてもアルミサッシの窓は動かなかった。埃の溜まった窓枠は歪んでいた。冬の夜の景色に僕の息が白く形作られる。外の路地はまだ暗いけれども、来たときよりも少し明るくなっているように感じられた。けばけばしいくらいに華やかだった夜の街は衣装替えでもしたかのように静まり返っていて、夜遊びをしていた若者たちの影さえ見当たらない。もうすぐ明るくなるのであろう世界はひたすらに清浄だった。

「帰ろう」

 僕はユーゴに背中を向けて外を見たまま言った。

「あと三十分で始発が出るぜ」

 僕はカーキのジャンパーの前を引き寄せて廊下に出たユーゴの方へ行く。僕を先に外に出して、ユーゴは慣れた手つきで金属製の重たいドアの鍵を閉める。清らかに冷えた、冬の夜の終わりの空気を僕は深く吸った。そして思う。

 大人、だ。


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