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30.悪化

 十月に入り、二期制である風北高校は後期に入った。学期が変わり、ホームルームで行われた委員会決めで、小春は前期に引き続き委員長となった。


 その翌週、長澤さんたちの悪意はよりあからさまになる。


「心矢。私今日陸上部あるんだよねー。だからこれ、職員室に届けといてくれない?」


 そう言って長澤さんは、本来教科係が集めて先生に届けるはずの、クラス全員──四十人分の物理のワークを小春の机に置いた。


「おっけー。じゃあ運んでくるねー」


「じゃ、私たちは部活行くからあとよろしく」


「うん。長澤さんたちも部活頑張ってね」


 同じような会話を耳にするのは、もう三度目だった。それなのに小春は文句を一言も言わずにワークを運ぶ。


 そんな小春の小さな背中を見ていると抱きしめてあげたくなって──でも学校でそんなことをするわけにはいかなくて。俺は奥歯を噛みしめ教室を後にした。


 玄関に行くと、部活に向かったはずの長澤さんたちが制服姿で靴を履き替える姿が見えた。


「いやー心矢はなんでもやってくれるから楽だよねー! 私たち今日部活なんてないのにっ!」


「アハハッ! 真澄ひどーい!」


「いやいやいやいや、若菜も昨日やったでしょ」


「ハハッ! 心矢をこき使うと胸がスッとするわー。これで高野内くんが心矢からあたしに乗り換えてくれたら最高だわー」


 ……なにそれ。やっぱりあの三人は小春に面倒な仕事を押し付けてただけってこと?


 下駄箱の陰から会話を聞いていた俺は、荒ぶった感情のままに抗議しようとして──思いとどまる。


 ダメだよ俺。今俺が怒鳴っても何にもならないし、むしろ小春への当たりが強くなるかもしれない。


 俺は拳を握り締め、グッと怒りを堪えた。


「あ! そういえば私、明日の一時間目で使う実験器具も運ぶように頼まれてたんだった。どうしよっかな」


「それも心矢に押し付けちゃえばいいんじゃない?」


「だよねー。じゃあ早速ライムで……送信っと」


 ゲラゲラと笑いながら小春に仕事を押し付ける三人。俺はこれ以上怒りを抑えられそうになかったから、もう帰ろうと自分の下駄箱の前に行った。


「ってか先生。今回の実験器具多いから友達に手伝ってもらえって言ってなかった?」


 えっ? なにそれ……。


 俺は下駄箱に伸ばした手を止めた。


「あー……まあいいんじゃない? 一人でも往復すれば何とかなるでしょ」


 手伝おう。手伝うくらいなら小春にも迷惑はかからないよね?


 俺はゲラゲラと笑う三人に軽蔑の眼差しを向けてから、階段を駆け上がった。


***


 長澤さんは物理の教科係だ。実験器具というのは物理準備室にある物だろう。小春がワークを運んで職員室に行っていたのなら、ちょうど今頃物理準備室に着く頃だ。


 俺は物理準備室の前に来ると、扉のガラスになっている部分から中を覗く。


 大丈夫そう……小春しかいないね。


 他のクラスメイトがいないことを確認し、俺は扉を開けた。


「えっ!? 陸!? どうしてここに?」


「長澤さんたちが小春に仕事を押し付けたって話してるのを聞いて、手伝おうと思ったんだ」


「あー、そういうことかー。でもいいよ。わたしが任された仕事だし、陸は先に帰って大丈夫だよ?」


 小春はバツが悪そうに苦笑いを浮かべ、平然を装って声のトーンを明るく保っている。けれど俺にはわかる。小春はやせ我慢をしているだけで、本当は辛いってことが。


「ううん。俺が小春を手伝いたいんだよ。それとも俺が手伝うのは迷惑かな?」


「そんなことはないけど……」


「じゃあ手伝うよ」


「そこまで言うなら、お願いしよっかな」


 顔を俯かせ、小さくそう呟いた小春の口元は、幸せを噛みしめるように柔らかく微笑んでいた。


 それから俺と小春は、二階の物理準備室と四階の教室を二往復して実験器具を運び終えた。


「ありがとう陸! おかげでだいぶ早く終わったよー」


 実験器具を教卓の横に置き、小春はふぅ、と一息吐いた。それから彼女は、窓から差し込む夕日に照らされ笑った。


「ねぇ陸。折角だし一緒に帰らないっ?」


「うん」


 俺は即答し、小春に微笑み返した。


***


 帰り道。俺は思い切って小春に、長澤さんたちのことを話した。今日は部活がないのに小春に仕事を押し付け、陰で笑っていたことを。


「小春がみんなの役に立ちたいって思ってることは知ってるけど、嫌なことは嫌だって断ってもいいんだよ?」


 けれど、小春は俺の話を聞いてなお首を横に振った。


「ううん。わたしはそれでもいいんだよ。みんながわたしを頼ってくれるならそれでいいの」


「それは──」


 それは頼られてるんじゃなくて利用されてるだけ。そう言おうとしたけれど、困ったように笑う小春を見て、俺は口をつぐんだ。


 小春も、利用されてるだけだってわかってそうだね……じゃあつまり、わかった上で頼みごとを引き受けてるってこと?


「……どうして小春は、そこまでして誰かに頼られたいって思うの?」


「わたしはお父さんに心配かけたくないの。わたしが頼りになれば、お父さんも安心して仕事に行けるって思ってたし、今なら安心してお義母さんと過ごせるかなぁって」


 やっぱりそうなんだ……小春は、今までずっと男で一人で育ててくれたお父さんにこれ以上迷惑かけたくないんだね。


「それにね。わたし不安なんだよね」


「不安?」


「うん。不安」


 俺が聞き返しても、小春はそれ以上話そうとはしなかった。見ると、小春の手はかすかに震えていて──俺は迷わず小春の手を握った。


「へっ!? 陸?」


「小春が話したくないならこれ以上は聞かないよ。でも、誰かに頼りたくなったら俺に言ってね。力になるから」


「う、うん……」


 俺は、おそらく夕日のせいで赤くなった小春の横顔を見て考える。


 やっぱり本人が納得してるなら、小春が助けてって言ってくれるまでは俺に何も言う権利はないよね……。でも、それならせめて少しでも小春がリフレッシュできるように、俺ができることをして小春を見守ってあげよう。


「そうだ小春。今日の夜ご飯は小春の好きな麻婆豆腐にするよ」


「えっ? いや、そんなに気を遣わなくても大丈夫だよ? 陸って麻婆豆腐好きじゃないじゃん」


「ううん。小春こそ遠慮しなくていいよ。俺が小春のために何かしてあげたいって思ってるだけだから」


「そうなんだ……じゃあお言葉に甘えさせてもらおっかなー」


 満更でもなさそうにそう言って、小春は軽く肩をぶつけてきた。


 そうやっていつも通り明るく振る舞う小春を見て思う。


 最近の小春の笑顔にはうっすらと疲れが滲んでいること、それにいつもより声に元気がないことに、小春自身は気付いているのだろうか。


 どっちにしろ俺がやることは変わらないか。……あと俺にできることは……あ、そうだ。


「ねぇ小春。今から息抜きに出かけない?」


 そう言って俺は、小春に微笑みかけた。

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