29.不穏な空気
「心矢。この問題わかる?」
連休明けの木曜日。席に座っている小春は今日も大勢の女子に囲まれ、勉強を教えていた。このクラスでは見慣れた光景に、しかし俺はどこか違和感を覚えた。
あれ? 今、小春のこと呼び捨てにしなかった? あのポニーテールの……長澤さんか。
長澤さん──長澤真澄が中心になっている一部の女子グループは、小春がいない時にはクラス内で堂々と小春の陰口を言っている。けれど小春に対しては猫を被って接していて、前までは「心矢さん」とさん付けで呼んでいたはずだ。
「うん。その問題はねー、二種類の解き方があって──」
「なら前置きはいいから楽な方を教えて」
小春の説明を遮って、長澤さんが棘のある言葉を投げつける。小春は「えっ?」と顔を上げて長澤さんを見ると、すぐに作り笑いを浮かべた。
「そ、そぉ? じゃあこの二つの公式を組み合わせて式変形──」
「ああわかったわかった。もういいわ」
「えっ? ……う、うん。長澤さんの役に立てたならよかったよー」
「じゃ、もう行くわ。……若菜、ねね、ジュース買いに行こ」
「オッケー」
「ハハッ! 真澄ヤバー」
長澤さんの態度が連休前に比べて急変したことに面食らった小春を残し、長澤さんは友達と一緒に教室を出ていった。
すると小春の周りにいた女子の内の何人かが、クラスカーストが高い長澤さんに続いて教室を出ていく。教室に残った女子は戸惑った様子で小春と長澤さんを見比べ、自分の席へと戻っていった。
これ、何が起きてるの? ……小春は、大丈夫なの?
一人残され、わけがわからないといった様子で固まっている小春を見て、俺は教室の異様な空気に吐き気を覚えた。
***
その後、四時間目にあった家庭科の裁縫でも似たようなことが起こった。
長澤さんと、彼女と仲のいい安藤若菜、塚田ねねが、教科書を見ればわかるようなことをわざわざ小春に聞いた。
「心矢。これどうなってるの?」
「それはね、ボタンにこの順番に針を通して──」
「あー、聞くだけじゃわかんないって。ちょっとやってみてよ」
長澤さんが聞いてきたのは、エプロンのボタンの縫い方。すでにその作業を終えていた小春に対し、自分のエプロンを差し出し、一つをやって見せるよう言う。
そんなことを三人が交互に行い、彼女たちは作業の半分近くを小春に押し付けていた。そのせいで小春は自分の分が終わらず、昼休みまで残って作業していた。
「小春。手伝うよ?」
「ううん。大丈夫。すぐ終わるよー」
被服室に人がいなくなってから小春に声をかけたけれど、小春は俺の手伝いを笑って断った。だがこのときの小春の笑顔は、普段の影一つない太陽のような笑顔ではなく、疲れの滲んだものだった。
小春……そんな風に笑わないで、俺に甘えてよ……。
***
「あんた、小春のこと気付いてるわよね?」
教室に戻り席に着くと、栞が机にドンっと手をつき睨んできた。
「うん。長澤さんたちのことでしょ?」
「そ。……で、あんたはどうすんのよ?」
もちろん助けたい。けど──。
「小春本人がそれでいいって言うなら、俺には何もできないよ」
「はぁ? あんた何言ってんの! 小春が長澤たちに使い潰されてもいいっての!?」
声を荒げた栞は俺の胸ぐらを掴み、鼻先が触れるほど顔を近づけてくる。対して俺は、栞から目を逸らした。
「……小春はたぶん、今の状況を受け入れてるんだよ」
「そんなわけ──」
「あるよ」
俺は栞の目を見て栞の言葉を遮る。すると栞は何かを察してくれたのか、俺の胸ぐらから手を離した。
「小春は前に、頼れる人になりたいって言ってたんだよね。でもたぶん小春は、頼れる人になりたいっていうより、誰かの役に立って自分には価値があるって証明したいんだと思う」
それならば、長澤さんたちに利用されているこの状況も、小春のやりたいこと自体は満たしている。
「それで? まさか今の状況で小春が頼れる人になれてるから助けなくていい、なんて言わないわよね?」
栞の問いに、俺は淡々と答える。
「うん。そうだよ」
「ふざけんな!」
ドンっと両手で机を叩き、俺を睨みつける栞。クラスメイトの視線が俺たちに集まる中、俺は栞の目を真っ直ぐに見返した。
「小春は、みんなに頼られるためにずっと努力してるんだよ? 朝が苦手なのに毎朝頑張って起きてランニングして、夜は毎日三時間勉強してるんだよ? 俺たちが勝手なことして、小春の努力を無駄にしていいはずがないでしょ?」
「そうかもしんないけど──」
「それにたぶん、小春が頼れる人でいようとするのは、お父さんに心配かけたくないからなんじゃないかな」
小春は、お父さんに男で一つで育ててもらって、そのせいでお父さんには苦労をかけてしまったと言っていた。お父さんには、ようやく見つかったお義母さんと幸せになってほしいとも。
だから小春は昔から、自分のことでお父さんに心配をかけたくないと思っていたんじゃないかな。
「だから、俺たちが騒いで大事になって親に連絡が行く事態になったらきっと、小春は困ると思うんだよね」
「……っ。それマジ?」
俺が頷いて見せると、栞は腹立たしげに頭をかいた。
「……話はわかったわ。……けど陸、結局あんたはそれでいいん?」
「よくない! ……でも、小春から助けてって言ってくれない限り俺たちには何もできないでしょ」
だからせめて、家に帰ったら小春を全力で甘やかそう。今の俺にできるのはそれだけだから。
***
「小春」
夕食を終えた後、俺は声のトーンを低くして小春の名前を呼んだ。
「んー? なにー?」
歯を磨いている小春が、首から上だけで振り向く。部屋着の薄ピンク色のパーカーを着た小春は口の横に歯磨き粉を付けていて、まるで昼間の出来事が夢だったかのように普段通りで、かわいい。
でも、あれは夢じゃないんだよね……。
「小春。悩みがあったら俺に行ってね? 力になるから」
「え? 急にどうしたの?」
「……あ、ううん。なんでもないよ」
「そぉ?」
小春がコテンと小首を傾げると、湿っぽさの残った髪が揺れ、シャンプーのいい匂いが漂ってくる。そして小春は数秒の間、俺を不思議そうに見つめたかと思うと、ニヤァっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあさじゃあさ。わたし、今日一日頑張ったご褒美に、陸にギュッてしてほしいなぁ……なんちゃ──ってえぇっ!?」
俺は迷うことなく小春を抱きしめた。小春の体は細くて柔らかくて儚げで、微かに震えていた。
やっぱり小春、強がってるだけだよね……長澤さんたちにあんな当たり方されたんだから。
「ちょっ……えぇっ!? 陸ほんとにどうしたの!?」
俺の心配をよそに顔を真っ赤にしてあわあわする小春。俺は返事の代わりに、小春を抱きしめる力を強めた。
「小春。なんでも相談していいからね? 疲れたら俺に甘えていいから」
本当に、俺が小春にできることはないのかな……小春の気持ちを大事にしつつ、長澤さんたちをどうにかできないの?
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