18.寝坊と、弁当の取り違え
「ここの化学式は──」
月曜日の四時間目。俺はぼんやりと黒板を眺めながら、朝のことを思い出す。
***
「もう七時っ!? ごめーん! 寝坊した」
小春は珍しくアラームが鳴っても起きず、俺が小春の当番を変わって朝食と弁当を作ろうかと思っていた時、小春が飛び起きた。
珍しい……小春、疲れてるのかな……。
昨日の夜、小春が恋心に気付いて興奮したせいで一睡もできなかったことを知らない俺は、そんな勘違いをした。
「小春。今日の料理当番変わる?」
「ううん大丈夫。わたしの寝坊で陸に迷惑かけるわけにはいかないよ!」
「そう? ならせめて少し手伝おうか? 時間ギリギリでしょ?」
身支度をしてご飯を作って朝ごはんを食べることを考えると、かなりギリギリだ。けれど小春は、ドタバタと着替えをかき集めながら首を横に振る。
「ううん大丈夫っ! この心矢小春、絶対に間に合わせてみせますっ!」
そう言って、時間がないのにくだけた敬礼をしてみせる小春。寝癖で跳ねまくった髪のせいで全然締まらないけれど、それがまたおかしくて。
「フフッ……わかった。じゃあ頑張ってね。小春」
「うんっ!」
***
結局家を出たのは遅刻寸前の時間で、学校まで一緒に走ったの、楽しかったなぁ……。
基本的に日曜日以外毎朝走っている小春はやっぱり足が速くて、ついていくのが大変だった。
けど、小春が時々振り返って「頑張って陸。あと少しだよっ!」って声をかけてくれたのは嬉しかったなぁ……。
そんなことを考えていると、チャイムが鳴った。
「はい。今日はここまで。しっかり復習しておくように」
四時間目の授業が終わり、昼休み。俺は手を洗ってから席に戻り、弁当箱の包みを開ける。
「……えっ?」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。見間違いかと思って目を閉じ、もう一度弁当箱を見てみる。けれど俺の目に映ったのは間違いなく、薄ピンク色をした小春の弁当箱だった。
これ……ヤバい……。
俺はすぐさま弁当箱を包み直し小春に視線を向ける。幸いなことに、大勢の女子たちに囲まれた小春はまだ弁当箱を開けていなかった。
俺はどこかで一人で食べれば大丈夫だけど……小春が男物の弁当箱を持って来たってなったらまずいよね……。
そうなったらまず間違いなく学校中の噂になる。小春は時々、冗談めかして自分のことを「学校一の美少女」なんて言っているが、小春は実際、「風北高校一の美少女」と呼ばれているのだ。
最悪の場合、小春が問い詰められて俺と同棲していることを話してしまうかもしれない。そうなれば俺は学校中の男子から恨まれる。それになにより、年頃の異性が親の許可なく同棲していると先生たちに知られるといろいろまずい。
「じゃあそろそろお弁当食べよっか」
あ……! ヤバい……!
小春が弁当箱のを取り出し、包の結び目に手をかける。俺は慌ててライムを送った。
『待って!』
「ん?」
小春はライムに気付き、弁当箱の包から手を離す。
よかったぁ……間に合った。
俺は安堵のため息を吐き、ライムを打つ。
『弁当箱取り違えたみたいだから、みんなの前で開けない方がいいかも』
ライムを見た小春は目を見開き、慌てて弁当箱を隠すように手を乗せた。
「心矢さん?」
小春の取り巻きの女子が、長々とライムを見ていた小春を不審がる。
小春、これ大丈夫……?
「……え? ……あっ、みんなごめん! 急用ができちゃって。ほんとごめん!」
そう言って小春は手を合わせると、弁当箱を持って教室の外に去っていった。
よかったぁ……周りの人にバレないかハラハラしたなぁ……。
それからすぐに、俺のスマホが震える。
『二階東側の小教室で待ってるよっ!』
そんなメッセージと、両手両足を広げて立ちふさがる猫のスタンプが送られてきた。俺は『わかった。すぐ行くね』と返信し、席を立ちあがった。
***
「おまたせ。小春」
「ううん。こっちこそ助かったよー。わたし、もう少しでみんなの前でお弁当開けるところだった」
通常教室の半分ほどしかない広さの小教室で、俺と小春は合流した。この教室は二階の奥にあり、滅多に人がやってこないから、誰かに見られる心配はないだろう。
「はい。これ」
俺は弁当を小春に差し出す。けれど小春は受け取ろうとしなかった。小春は両手を後ろで組み、胸元のリボンを揺らし一歩近づいてくる。
「ねぇ陸。折角だしここで一緒にお弁当食べない?」
友達をいたずらに誘う子どものようにニヤリと笑う小春につられて、俺も口元が緩んだ。
「そうだね。一緒に食べようか」
「やったぁ! ありがとう陸!」
俺の返事を聞いた途端、小春はパッと花が咲くように満面の笑みを浮かべ、セミショートの髪をサラサラと揺らした。
なんか、いいなぁこれ。
風呂に入った時よりも小春の笑顔を見ている時の方が、体の芯からポカポカと温まる。小春の何気ない笑顔を見ているとすごく和む。
「ん? 陸、どうしたの? 座らないの?」
「ううん。なんでもないよ」
いつの間にか近くの席に座っていた小春に言われて、俺は小春の隣の席に腰を下ろす。すると小春は何も言わずに机をくっつけてきた。
「じゃあ、食べよっか」
「うん」
弁当箱を開けると、すぐにハンバーグの香ばしい匂いが鼻腔を突いた。弁当箱の中には、米と枝豆とタコさんウインナー、それに小春手作りのハンバーグと玉子焼きが入っている。
「小春。よくあんなに短い時間でタコさんウインナー切れたね。すごいよ」
「えへへっ……! わたしそういう細かい切り方には慣れてるからねー。それより食べて食べてー」
「うん。じゃあ、いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
俺はまず、ハンバーグをかじった。昨日の夜も食べたけど、やっぱりソースと隠し味のケチャップの味が染み込んでいておいしい。味が濃い分、ご飯とよく合う。
次に俺は、玉子焼きを頬張った。瑞々しくて、それでいてしょうゆのしょっぱさが絶妙に残っている。
「小春は本当に玉子焼きの味付け上手だね。俺が作ったら、瑞々しさで味がしなくなるんだよなぁ……」
「陸は薄味だもんねー。だけどわたし、陸の味付けも結構好きだよ?」
「そう……ありがとうね小春。でも次玉子焼き作る時はもう少し濃い味付けにしてみるよ」
「おー! じゃあ明日のお弁当、楽しみにしてるねっ?」
「うん。頑張るよ」
それなら失敗してもいいように、明日はいつもより早く起きようかな。
小春から期待されることが嬉しくて、つい肩に力が入ってしまう。けれど今は一旦落ち着いて、目の前のご馳走を味わおう。
折角小春が作ってくれたんだから、味わわないと損だよね。
そう思ってハンバーグを口に入れ、小春を見る。すると小春は小さな口で玉子焼きをかじっていた。その様子はなんというか、小動物が餌を食べている時みたいな微笑ましさがあるから不思議だ。
結局ハンバーグを味わうのも忘れて小春の横顔に見入っていると、小春の口元がきらりと光った。
あれは……ご飯粒か。
「フフッ……小春、ご飯粒ついてるよ」
「はえっ……!? どっ、どこどこっ!?」
「もう取ったよ?」
慌てて箸を置き、口元を手で探ろうとする小春。そんな彼女に俺は、指で摘まんだご飯粒を見せた。
そして俺がご飯粒を食べると、小春は頬を赤らめて「むぅ……」と唸った。
「陸はまた平然と……」
「ん? 何か言った?」
「なんでもないでーす!」
投げやりにそう言うと、小春はプイッとそっぽを向いてしまった。
……なんだったんだろう?
表面上は同じ反応でも、小春が纏う雰囲気はいつもの冗談めかした明るいものとは違っていて、俺は首を傾げた。
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