1-17 患者搬送からの遊学招待
ヘンリクスが会場を去るとララは具合の悪いふりを止めた。
すぐ横で膝を床につけてしゃがみ、心配そうに見守るホール係の女性へララは伝える。
「アリスありがとう、大丈夫よ」
目の前はサルヴァドールが立って塞いでいるためララは座ったまま振り返り、王に柔らかい花びらのような顔を見せると、ベンジャミンは口角を少し動かして反応した。
反対側の斜め後ろの護衛隊長は床に落ちたグラスにハンカチをそっと被せ、周りの使用人に触らぬよう小声で伝えている。ララのすぐ横まで来ると、「行くぞ」と抱きかかえた。
ホール係の女性が椅子車を持ってくると言うが、隊長はララの顔が大使たちに見えないよう、鍛えられた自分の身体にしっかりと固定して隠し、すぐに会場を去ることを選ぶ。
「皆さんごめんなさい、また会いましょう」
早足の隊長に廊下へ連れ出されたララは、会場に一言だけ残すことができた。
解毒が強化されている身体といっても、ララは口に含んでしまった。護衛隊長のノリスタンは部屋を出るとさらに早足となった。
ノリスタンは見た目が三十二歳ほどの王の血族だ。八日前の襲撃時もノリスタンは倒れたララを抱いて医療班の元まで運んだ。
日々ララと共に護衛隊の訓練をしているノリスタンは、彼女の身体の作りに大きな興味を持っている。ノリスタン自身も隊長の地位にいるだけあって、隊の中では飛び抜けて身体の動きが良い。
しかしララは女性とは言えども初代アイスタニア王ジーンや当代の王ベンジャミンと並ぶ身体だ。毎日のように訓練で会う間柄では王族ハグをする機会がなく、自然に触れられる機会はこのようなときだけ。
あの三階の宰相の部屋までジャンプするララの身の軽さとバネは、長年トレーニングした自分と並ぶほどだ。しなやかな身体からはパワーと持久力も出る。最高に効率的で無駄のない筋肉と骨が今、ノリスタンの腕の中にある。
ノリスタンからは女の身体ではなく特別な筋骨格系への興味で見られていることは全てお見通しのララは、抱かれたままぐっ、ぐっ、とニートゥチェストを始めた。
「ノリスタン、私は大丈夫よ、歩けるわ」
「医療班の元へ運ばれた事実を作るだけだ、このままでいい。ところで何故膝を胸に引き寄せる運動をしているんだ?」
「サービスよ。ノリスタンが私の身体のことを知りたそうな気がして」
「持ちにくいのだが⋯⋯」
「⋯⋯ごめんなさい」
ララはすぐに下腹部のトレーニングを止めた。
先に特命部のロドニーが容疑者を連れて退出したため、補強の人員がこちらに向かう音が廊下を伝ってくる。
ララのグラスに男が毒を入れることを阻止しなかった護衛隊長は、やってきた特命部三名、護衛隊員三名にこれからの動きを伝え、ララと研究棟へ向かった。
ララが座っていた椅子はホール係のアリスに端へ片付けられた。
お披露目会場はざわつき始めようとしたところで、部屋の奥で傍観していた王が歩き出したためすぐに静けさを取り戻す。
王は何事もなかったかのように玉座に戻った。しかしララのグラスにヘンリクスが〝何か〟を入れたこと、その〝何か〟の成分が自分のほうへわずかに流れてきたこと、そしてララが〝何か〟を口から吐き出したことは把握していた。
「予定よりララの時間が短く終わってしまい申し訳ないことをした。また近いうちに姫が姿を見せる場を設定するから安心してほしい。というか少しばかりお願いしたいことがあるんだ」
各国の学者たちは互いの顔を見合う。
「みなさんの国では兵士の訓練や行進を他国に見せることは聞いている。その優れた訓練をララにも見せたくてね、お願いできるだろうか。お返しと言ってはなんだが⋯⋯」
ララの「出来る」ところを各国にあまり見せたくなかったのは確かだ。ただこれでは収まりがつかないことは分かっている。ララは主役ではなく、登場人物の一人にまで降ろしたい。そんな計算を王はしていた。
「あなた方の国では王族や貴族の子息が見聞を広めるために、他国へ旅に行くそうだね。どうかな、我が王国へ遊学に来てみては。せっかくだ、姫と話の合う齢の、未来ある王族の子息などがいいんじゃないかな」
各国の要人たちはついにこの時が来たと、胸に熱いものが湧いてくるのを感じた。
アイスタニア王国は二百年鎖国状態だ。やっとここ三十年で大使のみ入国できるようになり、とうとう今、プリンスにも声が掛けられた。しかもつい先日はお嫁にはやらない意向を示していたのに、ララ姫の相手となることを含んだ物言いだ。
自国にルナ姫かララ姫のどちらかを迎え入れることができれば、アイスタニア王特製であり門外不出の流れるおまるや、箱車が手に入るかもしれない。先ほどの水発生器とやらもそうだ。
グランタス帝国の大使エイモンが三歩前に乗り出してくる。
「フレメルデン大陸ではグランドツアーと称して王侯貴族の子息が各国を回っております。王族だけではなく貴族の子息もいかがでしょうか」
大使というものは、門戸を少し開けたらすぐに足を差し込み両腕でこじ開けてくる。交渉の匂いがしてきたので事務的なことは宰相のサルヴァドールが答えた。
「皇子のご都合が合わなければ個別にご相談ください」
「ふん、急に軍事と皇子か。きな臭い動きになってきたじゃないか」
「再開して三十年経った交流に敬意を示しただけだ。友好関係を築こうじゃないか」
またハクラスカ帝国の大使ヨシフが難癖をつけてきたが、王はまともに相手にはしなかった。
心配になったサーラン王国のルクンはすぐさま、アイスタニアの王にお礼を言う。やっと搾り取った輝かしい王の提案が台無しになるようなことはあってはならない。
「ベンジャミン陛下、感謝いたします。本国によい知らせを送ることができます」
特別なワイングラスを持ちながら、とてもよい表情をしている。ルクンはグラスに最後の一口を残していた。
「サーラン王への贈り物に、そのグラスをいくつか用意しよう。あなたの分もね」
ベンジャミンはサーラン王国大使にやさしい声を掛ける。
あの椅子はいい働きをしてくれた。褒美をやらねばいけない。そして──。
「遊学の細かいことはこの後サルヴァドールと詰めてくれ。ララ姫お披露目会はここでお開きにするが⋯⋯」
ベンジャミンはあからさまに不機嫌な顔へ急変し、王は右手のグラスに入っている色のない透明な液体を回して揺らす。
口調が変わった。
「でーもー」
「で、でーもー⋯⋯?」
ニルラの研究者ガスパルは縮こまり、震えた小声で復唱する。アイスタニアの王が睨み据える先は自分たちだった。
始まってから今まで失礼なことはしていない筈だ。計算の質問をしたときにララ姫のことを「軍事に使える」と興奮してつい口に出してしまったことが王の逆鱗に触れてまったのだろうか。
隣に立つ大使のゲラシウスは身体に刻まれた記憶──アイスタニア王による重い脅しの感覚を思い出し、固唾を飲んだ。サーラン王国大使には各国の面前でグラスを贈ったのに、この差は何なのか。北のハクラスカ帝国のほうが私たちよりずっと耳障りな声を上げ続けているというのに。
静まった会場に、グラスを回すのをやめたベンジャミンの声が響く。
「ニルラ共和国の諸君はここに居残りだ」




