1-10 塞ぎ込むトーレ
宰相とララが会話をした翌日、トーレが滞在している部屋に使用人が入ってくる。皆はもう朝食を食べ終え、働き始める時間だった。
「トーレ、ハンナです。入ります」
もちろんここにはノックという習慣は無いし、返事がなくとも入室する。
そこは通常、王族や特命部の者が短期で泊まるような部屋だった。特段きらびやかというわけではなくどちらかといえば質素で控えめな空間だが、壁や床の防音がしっかり目に設計され、室温や湿度が快適に調整されている。なにより各部屋にはアイスタニアが誇れる水回りが設置されていた。他国にはない設備だ。
そんな特別室のトーレは部屋に運んでもらった食事も食べず、起きてさえいなかった。ここ数日自暴自棄となり、すっかり昼夜逆転の生活を送っていたのをこの客室担当ハンナはしっかり把握していた。
アイスタニアでは大多数の濃茶の髪をしたこの女性は、意を決して大きな声を出す。
「トーレ!」
ベッドの男は声に反応しほんの少し動く。そしてじわじわと身体の向きを変える。
「トーレ」
二回目の声は少し抑えられていたが寝起きの耳にはっきり届いたようだった。眩しそうにゆっくり目を開ける美青年は、力無く額に手を当てた。
使用人が呼び捨てで自分を呼んでいる──二十年間貴族として生きてきたトーレは力なく現実を受け入れ始めていた。
身体を起こし小さく息を吐く。片手で前髪をかきあげ、おでこを出したところで、扉とベッドの中間に立って様子を伺っていた使用人は口を開いた。
「おはよう。今日のトーレは隣の建物で何か用事があるそうよ」
「罪人として収監か?⋯⋯奴隷として売られるのか?」
トーレは女性をじっと見る。
彼にはじっと見つめる癖があった。人の目を見て喋るのは全く不思議なことではないが、話が終わっても瞳をそらさない。
もともとトーレは美しい二十歳の青年だ こんな美青年に見つめられたらどの女性も顔が赤くなるだろう。しかしこの一歳年上のハンナは動揺することはなく、そして強かった。
「何を言っているの、昨日の夕食時に行動制限が解除されたのを本当に分かっている? もう庭に出ていいし、護衛隊の訓練にだって混ざっていいって伝えたのに。それにここは王や王子の住む本邸よ。建物の端で広くもない部屋だけど、特別待遇されているのをわかっていないみたいね。そもそもあなたは罪なんて犯してないでしょう?」
しっかりとトーレの無実を口に出す。それでもその言葉では、投げやりな無気力男を救うことはできないようだった。
「もうお家取り潰しが決まったのか?」
「爵位なんて元々ないでしょうに。大使の仕事が終われば貴族の服も脱ぐことになるんだから」
「⋯⋯何を言っている?」
寝耳にがばっと鉄砲水を受けたような顔をしている。ここ数日の中で一番の表情の変化だ。
トーレは爵位が継げないことを知らなかった。
「え⋯⋯」
ハンナは彼が知らなかったことに驚いた。
自分の故郷のことをここまで知らないトーレを少し不憫に思ったハンナは、王国民なら誰でも知っていることをトーレに優しく話す。
「アイスタニア王国は身分制度をほぼ廃止しているの。爵位は外国相手の仕事をしているときだけの措置で、期間限定の名誉貴族ということになるの。他国では貴族でないと見下されれば、同等な会話さえさせてもらえないでしょう?。だから大使を務めていたトーレのお父さんもアイスタニアに戻れば普通の身分に戻るはずよ。ずっとハクラスカに住んでいたから知らなかったのね⋯⋯」
「いや⋯⋯そういえば父親に一度言われたことがあった。七年は前だと思うが⋯⋯あの時は父が会食後で酔っていて、珍しく上機嫌だったからよく覚えている。酒ゆえの冗談と思っていたが、しばらく記憶に引っかかっていた。そうか、本当だったのか⋯⋯」
彼はこれまでの人生のほとんどをハクラスカ帝国で過ごしてきた。帝国文化に染まり、外国から見るとアイスタニア王国の型破りな仕組みに対応できなくてもおかしくはない。でもトーレの家族は全てアイスタニアのために仕事をしてきた。ハンナは少し丁寧な口調に変わる。
「でも大使に選ばれたほどの父君なら、こちらに戻っても重要なお役目をいただけるんじゃないかしら」
ベッドの上で考え込むトーレは、はだけ気味のシャツをまだ直さない。一瞬よそ見をしたが、またハンナをがっつり視線でロックオンする。
「父は病気が見つかったから帰国した。アイスタニアで余生を過ごすと言っていた。俺も頑張ってハクラスカの騎士団にいたがもう全部終わりだ⋯⋯」
目の前の男性は絶望の淵の住人になっている。ハンナはまだ彼を救い出すことはできなかった。
◇ ◇ ◇
トーレは食べ終えた食器を調理場に運んできた。
調理場には後片付けをする者のほかに、料理を運び終えた使用人が勢揃いしていた。
「トーレ! 運ばなくていいのに」
ハンナが叫びながら扉のところまでやってくる。
「トーレ?」
「あれがトーレか」
皆が虚ろな美青年トーレのほうを向き、動かしていた手を少し止め、ざわざわ話し始める。
だがやはり呼び捨てだ。トーレは甘んじて受け入れるが、まだやさぐれ感は残っている。兄が襲ったことがここにも知れ渡っているのだろう。しかし、トーレを睨んだり軽蔑するような顔をするものは誰一人いなかった。皆に物珍しい顔を向けられてはいるが、逃げなくても良さそうでトーレは少し安心した。
「肉の入っていない、豆とトマトの煮込みが美味しかった」
「よかったわ、アイスタニアの代表料理よ」
ハンナは両手を差し出して彼の食器を受け取った。ずっと部屋にこもっていたトーレがやっと出てきたので、ハンナはもう少し引き伸ばしたかった。気分転換になればいい。
「じゃあ⋯⋯ううん、こっち、どこでもいいから座って。私たちも休憩だからコーヒーを出すわ」
この広い調理場の半分はテーブルで占められている。配膳前の大量の食事を置くためのものだが、今日は本邸で会食の予定は入っていないので皆の休憩場となっていた。
配膳が終わった使用人たちは半数が休憩に入り、トーレが椅子を引いたテーブルには女性ばかりが急いで集まってきた。ほとんどが独身女性で、髪をさっと整えたり胸を張ると美青年に大きな笑顔を向けた。
「もう行動制限が解かれたが、ここのことがよくわからない。誰かに案内してもらえると助かるんだが」
「私が案内するわよ!」
隣のテーブルから食い気味に反応し、さっと立ち上がったのはハンナと同じく客室担当をしているエミリーだった。女性使用人の中で一番背が高く、スカートは少々短いためすらりとした足がより長く見える。茶色の髪を後ろの高い位置に一つに纏め、最低限の化粧でもはっきりとした顔立ちをしている。ハンナより二つ下で彼女も元気な声を出すタイプだ。
隣のテーブルから近寄ると、トーレへ手を差し出す。
「これは握手というものか?」
そう言いながらトーレは立ち上がるが、なぜだか険しい顔になっている。
「そうよ握手。私はエミリー、よろしくね。ハクラスカではしない?」
「一度もしたことがない。握手は警戒する国なんだ。引っ張られて攻撃を受けるのではないかと身構えてしまう」
エミリーはどこかの国の文化と勘違いしてしまったらしい。トーレが手を差し出す前に、さっと握手の手を引っ込める。
「そう、アイスタニアでも握手はあまりしないわ。ここではハグなの」
そう言って少しスカートの短い客室担当はトーレを抱きしめた。それもぎゅうっと強めに。本来王族以外のハグは強くもないし長くもない。ほんのちょっと触れ合うほどだ。
だがこのエミリーの必要以上に熱量の高いハグは、トーレを完全に勘違いさせた。そう、あの日の宰相サルヴァドールも強い抱擁だった。
トーレは祖国の文化に驚かないよう、しっかりエミリーの身体に手を回す。そしてぎゅうっと強く抱きしめ返す。これがトーレの、今後のハグレギュレーションとなる。
「⋯⋯よろしく頼む、エミリー」
「はぁん⋯⋯」
男性の声が耳元で響くとエミリーは身体中の力が抜け、何かが強く湧き上がる感覚がした。背の高さを気にしている自分が抱きついても、トーレが大きく感じるのが心から嬉しかった。調理場の空気はざわめき、同年代の女性は皆「やられた!」という顔になっている。
長いハグが解かれ、トーレはまだ黙ってじっと彼女を見続けている。
「えっ、何?」
見つめられているエミリーは動揺し顔が赤くなっている。自分から強く抱きしめたくせに打たれ弱かった。
「見ているだけだが⋯⋯」
呆れたハンナが横から声をかける。
「トーレ、もしララ様に偶然でも会うことがあれば、しっかり挨拶してね。ララ様、助けてくれたトーレにお礼を言いたいっておっしゃってたそうよ」
隣のテーブルの男性使用人からも驚きの声がもれ、本格的に部屋はざわざわとにぎやかになる。
「私は王族に銃を向けた罪人の弟だ。撃たれるのを防ぐこともできなかった」
トーレは椅子を戻し、ハンナに礼をいう。
「コーヒーをありがとう」
部屋を出ていくトーレにエミリーが急いでついて行く。彼女は振り向いて、みんなに向かってグッと握った拳を見せ、うなずいて出ていった。
ハンナはトーレのコーヒーを横目に呟く。
「もう。一口も飲んでいないのに⋯⋯」
隣に座っていた先輩の女性が、ハンナの背中をぽんと叩く。
「アイスタニアの文化に慣れれば、あそこまで気にすることはなくなるわ。小さな時からハクラスカ帝国にいたんだもの、仕方がないわよ」
先輩のシンシアは、本邸で働く使用人の中では指導をする立場にいる三十歳半ばの女性だ。いつも気品のある笑顔で皆を見てくれている。
「みんなも気兼ねせず、彼をアイスタニアに染めるのよ! 彼の故郷なんだから」
「はーい!」
食事休憩している女性たちは楽しい仕事が増えたような、生き生きとした顔持ちで返事をした。
そこに特命部の服を着て、メガネのような曲がる板を目元につけた二十歳ほどの男性が調理場の勝手口から現れる。
「トーレがここにいると聞いたんだが」
きょろきょろと見回し、トーレを探す。
「ロドニー」
シンシアは立ち上がり、訪ねてきた特命部と共に調理場を横切って廊下へ出ていった。女性たちはそれを見送りつつ、憂いの美青年の話に戻る。
「トーレ、ララ様を助けたんだからやっぱり特命部に所属したりするのかしら」
「素敵よねー、私も特命部の人と結婚したいわ」
女性使用人たちの声が自然に大きくなってくる。
「おいおい、特命部だと国中あちこち行かされて、一緒に住めないぞ」
調理場の男性も話に加わってきた。こういうときはしっかり自己アピールする国民性だ。そのせいか平均初婚年齢が低い。
「俺と同じ時を過ごしたいと思ったら、ぜひ声を掛けてくれ!」
「俺は未来の妻と話し合って、勤務地を選ぶぞ!」
「あはは」
女性たちは彼らに笑顔を返す。護衛隊の仕事もしていそうな立派な身体つきの男性使用人たちが、女性の飲み終えたコーヒーカップを受け取りながら流しのほうへ移動していった。
少々うざったくても潔さを評価する女性たちだ、ちやほやされると素直に嬉しい。皆、今日のコーヒーは美味しく味わえただろう。トーレがこの場にいい刺激を与えてくれた。
エミリーが案内した先は芝生だった。ガゼボにララがいれば自然に合わせたかったが、ソファにはだれも座っていなかった。数日ぶりに外の光を浴びたトーレは目を細めながら、護衛隊が芝生の向こうの訓練場に移動する姿を追っていた。
「宰相の指示待ちなら、護衛隊の練習に混ぜてもらったら?」
「⋯⋯いやいい」
本当は護衛隊の練習は気になっていた。五日前トーレがララを迎えに上がったとき、護衛隊の練習を見学したが心底驚いた。
ハクラスカ帝国にいるときは大陸で一番剣の強い国だから、アイスタニアに帰国すれば自分が剣の指導することがあるかもしれないなどと予定のように考えていた。実際はアイスタニアに剣技は無く、馬も使わない、体技が中心だった。
帝国では鎧の下は筋肉と脂肪でがっちりとした体型の者ばかりで、その中に混ざると自分は細身なほうだった。しかしここアイスタニアには引き締まった身体としなやかな強さを持ち合わせている者ばかりだということが一目でわかる。
それほど力が入っていなさそうな動きなのに、身体の軸はしっかりしているようで軽々と相手を崩したり倒したり、芯を食ったキックをしていた。腕のほうもパンチではない動きも多くあり、相手のほうは攻撃を避けるというより、受けて流すような練習だ。
そしてあの日のララは隊員たちの後ろについてにこやかに、そして軽やかに長い時間走っていた。
「俺はハクラスカの一兵卒だ。ここじゃ何の役にも立たない」
「じゃあパレスの使用人たちの仕事を手伝って。アイスタニア王国のこと、本邸やパレスの町のこと、いろいろ知れると思うわ。さっきみんなの雰囲気が良かったのは感じとれたでしょう? 昨日もハンナと喋ってたんだから。トーレを部屋にこもらせちゃいけないって」
トーレはエミリーをじっと見る。
「無理矢理にでも護衛隊の練習に連れていこうとしないんだな」
「やりたくなったらやればいいじゃない。今はアイスタニアのことなら何でも触れてもらいたいわ」
エミリーは目を逸らさず、受けて立つようにトーレを見つめ返した。




