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乱声・七拍──因果(捌)

 上野の国。牧邸。


 その奥に、一組の男女が戯れ遊ぶ、酒池肉林の楽園がある。


「平五」


 女は男の肩に寄りかかり、随分横柄な態度である。そして、手の杯を少し動かして、注げと顎でそれを指した。


「はい」


 男──平五は逆らわず、慇懃な態度で従った。


 二人とも随分衣も乱れて、酔いもひどい。


 そこへ、侍女の吉祥が窘めにやってきた。


「おっ、来たな。うるさい奴」


「これがあのかつての希姫君と同じお人とは……」


 吉祥はため息をついた。


「亡き妹が弾いておったな。阮籍の『酒狂』。六十日間ずっと二日酔いだったという己の姿を曲にしたものだそうな。まさに、今の我の姿。『酒狂』を体現しておろう?」


 希姫君はさも愉快と笑った。


 吉祥は何も答えない。


「怖い顔よのう。そうやっていつまでも孤閨を守っておるから、そんな厳めしい顔になるのだ。いい加減、男を知り、楽しめ。何なら、おもとも交ざるか?三人ならば、なお愉快」


「いい加減になさいませ。お体に障りますよ」


「うるさいなあ。やっと我が身に訪れた春なるぞ。酒と堕落と平五は欠かせぬ宝。のう、平五?おことは我が夫よの?」


 平五は媚びるような眼差しを向けた。しかし、どこか悲しい色も紛れている。


「よいではないか。どうせ希姫君はとうの昔に死んだ人間。隠居の経実もそろそろ病で死んだことにでもしようよ。なれば、もう私は何をしようが自由だ。吉祥ももっと楽しめ。そうやって男を遠ざけているのは、つまらないだろう。のう、平五?」


 吉祥は呆れ顔。しかし、希姫君の長年の苦労と苦悩を知る彼女には、主の今の退廃的快楽を非難すべきかわからない。


 確かに今は隠居の身。時実がしっかり関東をまとめているし、希姫君には、残りの人生を楽しく過ごして欲しい。


 しかし、だからといって、こんなに堕落しなくともよいのではないか?昼間から平五と……。これでは体を害す。長年、男として生き、男を知らずにいた反動なのだろうか。ただ一度、大乘教理によって、女の悦楽を知って。それから、その味が病みつきになったか。一度でも男を知った女体は、そうなるのか?一度も知らぬ女の体には、到底理解し得ない。


「……ま。ほどほどになさいませ」


 吉祥はそれ以上言いようがなく、それだけ言うと、薬湯を置いて出て行った。


「やれやれ。平五、薬湯でも飲むか?」


 希姫君は精力萎え気味な平五に、薬湯を差し出した。しかし、平五はその薬湯の椀を押しいただいたまま、飲もうとしない。


「如何した?」


「……いえ。……姫は、それがしに先程夫と仰せ下さいました」


「実質的には、そうなろう?」


「それは有り難き仰せ。されど、御身の心には、それがしはおりませぬ……姫のまことの御心は……今も教理に……」


 平五はただの情欲を満たす玩具に過ぎない。そう平五は思っているのだ。


「馬鹿だな、おことは」


 姫は笑った。


「それがしの考えが馬鹿げたことであるなら、どんなに幸せなことか。もう、このようなことはおやめ下さい。心もないのに、このようなことを続けて、御身を穢されますな。それがしは、今日限り……」


「で?私から離れて、他の女のものになるというのか?」


「とんでもない!それがしは、姫しか……!金輪際、女は……」


「やはり、馬鹿だな。おことは自分の子が欲しくはないのか?子孫を残さぬのか?」


 急に怒ったような目になった。何か思い出したか。


 酔っているためか、とりとめもない。


「人間は生物だ。生物の生涯の中の最も大事なる仕事は何か?そは、子孫を残すことだわ。畜生どもを見てみろ。いや、花でさえ、草でさえそうなのだ。それなのに、人間でありながら子を残せぬとは。雑草以下ではないか。男が女を拒み、女が男を拒むは、己が生物であることを己で否定しているのだ。ふんっ、そうよ。女は畠なのよ」


「……は」


「私が教理をこそ誠の夫と見ているだと?まさか!私が可愛く思うは、おことよ」


 そう、その眼こそが、教理への愛憎よと平五は思った。しかし、彼は何も答えなかった。


 奥がこのような淫靡な極楽であるのに対し、表の時実は勤勉そのものだった。


 希姫君のせいで、上野殿を乗っ取る形になってしまったというのに、希姫君はいい気なものである。時実は法化党だけを纏められれば、それでよかったのに。どさくさに上野殿に収まってしまった。


 東国全土を治めるのは至難の技だ。今のところ、各地の豪族、武士達はおとなしいが、いつ戦を仕掛けられるかわからない。


 都の伯父の刑部卿上野殿は、時実を黙認しているようだが、それとて今後どうなるかわからない。これから続々、時憲の乱鎮圧にかり出されていた兵どもが帰ってくる。上野殿の臣下が引き連れて。その時は、今の平和を保てるかどうか。時実の未来は暗い。前途多難に思われた。


 ところで、時実の弟と妹は今、上野にいなかった。下総の桜町館にもいない。


 実は二人は上洛していたのであった。戦後、前太政大臣俊久公に呼び出されて。


 前大相国(俊久公)は、信時朝臣をそれはそれは気の毒に、哀れに思っていた。だから、その遺児達を引き取って養おうと思ったのだ。


 時実は他家に養子に出ていたし、東国の要として、関東を離れるわけにはいかない。だから、前大相国は、やむなく時実の弟と妹のみを都に呼び寄せたのであった。


 千手丸は繊細な顔立ちの少年。姫君は愛らしく、信時に少し似ていた。


 前大相国は二人を見て涙した。


「こんなにも愛らしいよい子達を遺して……。信時朝臣もどんなにか心残りだろう……」


 前大相国、千手丸を自分のもとで元服させることにした。


 姫君は母の形見の法化の琴を持っていた。姫君も琴は嗜む。


 この姫君は、十二律の絶対音高を感覚として正確に持ち合わせているという、特異な能力の持ち主だった。しかもそれぞれの音を色で頭に描くことができる。


 十二律は月に当てはめられることがあるが、その月ごとの雰囲気を、音の色彩で捉え、判別できるというのである。


 さすがは伊賀守為長の血筋か。その楽理の才能は千手丸に、音楽的能力は姫君によって受け継がれているようだ。


 姫君はその能力から、調(つき)姫君と呼ばれるようになった。


 千手丸と調姫君が都に来て間もなくのこと。前大相国は二人に何か望みはないかと問うた。


「何でもよいぞ。遠慮はいらん。こなた等の父への褒美なのだ。先の戦では、父の功績が最も高い。生きていたら、特別に三位になっていたかもしれぬ。その父のかわりに、こなた等に授けるのだ。遠慮するな。どんな難しい望みでも叶えてやる」


 そう言われて、兄妹は遠慮なく所望した。昔、幼い頃の母が住んでいた山桜の邸を。代々の先祖が住み、見事な桜が自慢だった邸。


 祖父の羽林の常陸下向によって、亡き烏丸殿に奪われた、幼い日の母の家。母と伯父と伯母の棣顎の兄妹が、いつか必ず取り返そう、必ず帰るのだと誓った邸である。法化党が常陸に土着して武士となったのは、この邸への執着故。


 烏丸殿に奪われたその邸は、今はその姫君・姫御前尼に受け継がれている。つまり、前大相国の妹君の住まいだ。


 前大相国は二人の願いを聞いて、


「わかった」


と答えた。


 そして、姫御前尼に言って、二人に邸を与えてもよいか確認した。


 姫御前尼は、かつては信時朝臣を野蛮だと眉をしかめ、その妻にという話を父・烏丸殿からされた時は散々怒ったが、今になってみれば、信時をとても哀れに思う。独り身を貫き通し、尼になって、心も円くなったのだろう。


「宜しいですよ。私はどこぞの尼寺へ入りましょう」


と、快諾した。


 しかし、千手丸と調姫君はそのことを知って、


「やはりご辞退致します」


と言った。


「何故?」


「今、住んでいる方がいるのに、その方を追い出してまで賜りたくはございません」


「まだ子供なのに。さすがは信時朝臣の子だ」


 前大相国は感嘆して、どうしても山桜の邸を兄妹に与えたいと思った。


 で、千手丸は、


「同居をお許し下さるならば、賜りましょう」


と、返事した。


 姫御前尼にはそのまま山桜の邸に住んでいてもらい、そこに千手丸達も同居するというのである。


 前大相国には異議などない。


「こなた等がそれでよいのならば」


と、承知した。


 姫御前尼は兄妹の気遣いに感謝して、


「調姫君を私の子にして、私の亡き後、邸を相続させましょう」


と約束した。


 こうして、千手丸と調姫君は山桜の邸を手に入れて、そこに住まうことになった。祖父・羽林殿の願いは三代にして、ようやく叶ったのであった。


 さらに、調姫君は姫御前尼の養女となり、千手丸は前大相国俊久公の手で元服。名を信俊と改めた。


 信俊、調姫君の兄妹は、その春、邸の山桜の巨木の前で法化の琴を弾いた。下総桜町館のものよりもはるかに立派な、見事な山桜の前で。その花びらの吹雪を浴びながら。

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