乱声・八拍──烈婦(壱)
敏平は伊豆の配所に到着し、そこでの生活を始めていた。
都のことはしばしば思い出す。最も頻繁に思うは讃岐。そして、祖母かもしれない。
敏平にとって、親はやはり讃岐だった。実の親より育ての親なのか。讃岐が実母でないとわかっても、やはりずっと彼女を母と慕っていたし、韶徳三位殿が実父なのだという実感は湧いてこなかった。三位殿こそが実の親だと言われても、いまひとつぴんとこなかった。
だが、祖母の典侍殿に会った時の感覚は違ったのだ。あの感覚は、血縁者にしか感じないもの。何故かわかる。この人が自分の血に繋がる人だと。その表現し難い不思議な感覚こそ、血の絆だ。
敏平は初めて血縁者に逢って、その絆を知った。祖母に逢って、そして初めて、祖母が産んで、敏平を生んだ人を知りたいと思ったのだった。祖母の子とは、自分の父とは、いったいどんな人だったのだろうかと。
大津で一晩祖母と夜を明かした、あの日のことを思い出す。
朝になり、いよいよ別れの刻となった時のことを。
敏平は祖母のために別れの一曲を弾じようと思ったのだった。琴の名器は皆没収されて、宮中の御物となってしまったが、大事な秋声だけは、呉楚派伝来の品でもなければ南唐派のものでもないので、奪われることもなかった。彼はこれを身より離さず、共に下向していた。彼がこの秋声でもって祖母のために弾かんと、錦の袋からそれを出すと、祖母は驚きの声を上げたのだった。
「秋声っ!」
身を乗り出し、両手で琴に触れた。
「秋声、秋声ですね、これは」
「はい。左様でございますよ」
「ああ、こなたが持っていたのですか」
祖母は懐かしそうに目を細め、そこに涙をいっぱい溜めたのだった。
敏平は訝しく思った。
秋声は、敏平が師の清花の姫君より伝えられた名器だった。生前、姫君も大切にしていたものだが、それを祖母が見て、何故?
「これは漢琴で、とても古いの。徽は蓬莱山の玉をはめ込んでいるとかいう伝説もあるのですよ。漢の泰山の仙人が、蓬莱に渡ってこれを作り、弾いていると、俄に五色の雲たなびき、天人が降ってきて南風歌を唄い、舞ったのだとか」
「よくご存知ですね。その言い伝えは私もよく聞き知っておりますが」
「ええ。勿論よく知っている。強欲の五条刀自、こなたには恩のある人でしたね、でも、強欲は事実よ、悪口してごめんなさいね、その刀自に頼んで手に入れてもらったものなの。宋の商人もひどく強欲で、こんな伝説をふっかけられて、宋人と刀自と、二重に値をつり上げるものだから、とても高価で。それでも音色が素晴らしくて、どうしても手に入れたいというので、昔、四条高倉に邸があったのだけれど、これと交換したの。邸一つと交換して手に入れた一張の琴なのよ。いくら名器とはいえ、ひどい欲張りでしょう、刀自は。それでもこの琴を買うのだと言ってきかぬ我が子にも呆れましたが」
「では、これは父君がお買い求めになったものなので?」
「ええ、そうですよ。これをこなたはどこで手に入れたのです?」
「亡き師の君から渡されたのです。ああ、そういえば姫君は、私に秋声を下さると仰有った時、四辻内大臣殿の琴の天才の甥のことを忘れるなと、仰せになりました。殺される直前まで『広陵散』を弾いていらしたその甥のことを、忘れてはならぬと仰有って、秋声を下さったのでした」
遠い昔の記憶。そして、秋声が父の愛器であった事実。敏平は、これを清花の姫君が入手したわけや、秘蔵していた時、彼に伝えた時の心境を知りたいと思った。
だが、それ以上に、かつて父が日々慈しんでいた愛器と知ると、知らぬ父のぬくもりを感じて、指先がじんと熱くなった。そして、何故かよく知っている楽器が、懐かしくも思えたのだった。
「祖母君。『烏夜啼』を弾きます。聴いて下さいますか?」
「おお、『烏夜啼』はこなたの父がわけても好きだった曲。是非聴かせて下さい」
こうして『烏夜啼』を弾じて、祖母とは別れたのだった。
その後、讃岐とも別れ、ついに伊豆で配所生活が始まったのだ。
配所では、こうして二人をよく思い出すが、また都を恋しくも思うが、伊豆の生活は思った程苦痛ではない。
静かなところで、配所といっても一軒の邸。そう広くはないが、快適である。庭も整えられているし、下女も幾人もいて、全く不自由ない。監視の者はいるが、自由に出歩くこともできるし、土地の人々とも交流できる。都からの差し入れも全て許されたし、こちらから都へ文を出すことも自由にできた。
だから、実はとても快適だった。都にいた頃より、じっくり琴と向き合える。
敏平はただ父の形見の秋声と向き合い、語り合い、父を思い、その芸術を目指して日々精進していた。今まで生きてきて、今程琴を弾いていることはなかった。
また、彼は秋声のことが知りたくて、都の前権大納言頼周卿に文を書き、清花の姫君がどうして秋声を持っていたのか尋ねた。それに対して前権大納言殿は正直に、姫君が威神と三位殿の秋声を交換した由を書いて送ってきた。そして、威神は三位殿最期の曲・『広陵散』を弾じた折の琴であること、その死後、長国の手により姫君のもとに返されたことが書かれてあった。
敏平は長国から三位殿最期の様子を直接聞いていたが、長国の帰京後も度々文通する仲となっていた。で、威神を姫君に返してくれた礼を述べる文を書いたのだった。
敏平はこのように、数々の人々と文通していた。だから、配所暮らしは寂しくなかった。
ただ、初めの頃は日をおかず届いていた深草の君の文が、この頃届かなくなってしまったのは悲しい。
離れているのが辛いとか。文をしたためるだけで会えぬのが余計苦しいというのだ。
祖母の典侍殿も病にかかったというし。
全く寂しくないわけでもなかった。
またある時、都の友の師経から、真実を知った旨の文が届いた。
「気にしないで下さい。自分は少しも辛くはない」
そう綴られていた。
師経はわざわざ讃岐の国に下向し、その実母と晴れて母子の名乗りを果たしたという。全てが吹っ切れて、帰京後は有時の子として兵衛の君の弟として、生きる覚悟ができた。師道朝臣家の若水と夫婦になって、今はとても幸せだともいう。
その師経からの文の後間もなく、讃岐から出家したという消息がきた。
こうして様々な人と文通し、そうでない時は土地の人々と交流し、監視役とさえ酒を酌み交わす。琴に励み、古楽書を読み、それを整理もした。今までは楽器に向かうばかりであったが、初めて真剣に机に向かっている。また、古譜も分析、研究し、その編纂に努めている。
このように、配所でも有意義な生活を送っていた。
ところで、上洛した信時朝臣の次男・信俊(千手丸)と娘の調姫君は、前大相国俊久公の庇護の下、山桜の邸に暮らしていたけれども、その前大相国には家宣卿という子息があった。
この家宣には話があって、未だ妻帯していなかった。
それというのは──
彼には、元服したら婿となるべき相手が決まっていた。親の決めた相手であるし、会ったこともない女君ではあったが、許嫁である以上、いずれは夫婦になるのである。夫婦は仲睦まじい方がよいに決まっている。それで、結婚前から家宣は女君と文を交わしていた。
文というものは、相手の人柄、ものの考え方、感じ方等を知ることができる。相手の姿形以外の全てを知り得る手段だ。
家宣は女君の姿こそ知らなかったが、文によってその人柄に触れ、彼女とならば、必ずうまくやっていけると信じた。
彼はまだ見ぬ彼女に恋をした。
ところが。彼が元服し、いよいよ結婚という時になって、女君は疱瘡を病んでしまった。辛うじて彼女は命は助かったのだったが……
痘痕面になってしまったのだった。
家宣は構わなかったのだが、彼女は大変気にして、婚約を破棄したいと言ってきた。家宣はそれでも夫婦になりたいと願った。それで、そのまま結婚は予定通り進められたのだった。
しかし、女君は気鬱して日に日に衰弱していった。会った時、どんなに醜いと思われることだろう。そう思うと、結婚の日が恐ろしくてならなかったのだ。
彼女は結局、気鬱が原因で、結婚直前に病没してしまった。せっかく疱瘡から生還したというのに。
そのようなことがあって、家宣は未だ妻帯していなかった。父の前大相国は心配して、色々縁談を持ってくるが、家宣はそれらを皆拒んだ。
それでも、許嫁の女君が亡くなってから数年経った頃には、あちこちに通う女はできたのではある。しかし、それらの中から正式な妻を定めることもなく、今後も正妻を持つつもりはなかった。
今は十八歳。実に麗しい君である。
ある日のこと、家宣卿は父・前大相国に件の山桜の邸に来るよう言われた。何しろ、都でも有名な花の名所である。
「せっかくの花の季節に、かの邸の花を見ないでくさくさしているは、実につまらないことだ。たまには花を眺めて春のそよぎを楽しめ」
家宣は花をぼんやり眺めるのは好きだった。
春霞の中を歩くと、彼のような人間でも、漫ろな心にはなる。その自分の心が好きだった。
家宣は父君に言われた通り、山桜の邸を訪れた。
この日は、父君・前大相国も来ていた。そして、のんびり花の歌を詠んだり、姫御前尼と楽合わせをしたりして過ごしていた。
昼から酒を飲み、家宣が到着した時には少々酔ったとて、昼寝を楽しんでいる最中ということだった。
家宣は一人で庭を歩くことにした。ゆっくりと。
件の山桜の木はまことに見事だが、他にも沢山桜の木が植えられている。その中を歩く。風が吹くとやや肌寒いが、それもまた気持ち良く感じられる。花の群の中にいると、どんなことでも美しく見えるから不思議だ。
また一陣の風が吹いた。少し強いその風は、家宣の乱れ髪一筋を吹き飛ばして、彼の瞼を覆う。家宣はその髪を右手で払いのけた。
その時だった。そこの桜の垂れ下がった枝から、花の精霊が現れたのは。
初々しい。細長の、まだ童女の姿をした精である。
間もなく妙齢を迎えようという、少女から大人に変わろうというその微妙な時期。桜の精はそんな姿だった。
精は家宣に気付かず、何かしきりに拾い集めている。
よく見ると、色とりどりの料紙である。あちこち地に散らばっている。それを一枚一枚丁寧に拾い上げていた。
彼はその姿に見とれた。この世のものではないのだろう。こんなに美しいものがあるのかと思った。
それにしても、随分向こうまで料紙は飛ばされている。先程の風の仕業に違いないが、少女はとても大変そうだ。
家宣は自分の近くに飛んできた紙を数枚拾った。そして、何気なく見てみると、それは父・前大相国の手跡である。和歌が書き散らしてある。何れも花の歌だ。さっき詠んでいたものだろうか。
ふと、精霊の少女が彼に気付いた。家宣の姿にびくりとしている。
家宣は拾った料紙を手渡そうと、彼女に歩み寄ったが、彼女は反射的に二歩ほど後退った。おどおどしている。怯えているのか。しかし、瞳は真っ直ぐ家宣の面を見上げている。
家宣は吸い込まれるように、少女を見つめ。
「……こなたは、花の精か……」
問うでもなく、ぼんやりと言った。
少女は何も答えない。ただ家宣を見つめている。
家宣はもう一歩近寄り、拾った料紙を差し出した。そして、もう一度、
「こなたは桜の花なのか?」
と、問うた。
あまりに真剣な表情。それがおかしかったのか、少女はちょっと表情を崩して微かに笑顔になった。
「……いいえ、人間でございます……」
そう答えながら、白い手を差し出し、料紙を受け取る。
「人間?」
訝る家宣。少女は先程よりもさらに笑顔になった。それがまことに桜の花一輪のように、可憐で愛らしい。
「では、こなた、名は?」
そう家宣が問うた時、不意に彼方で、
「姫君?」
と、呼ぶ声がした。
何度か聞こえ、次第に近づいてくる。
「姫君?どこの姫君だ?」
家宣が問う。しかし、少女は、
「あっ、行かなくては」
と、さっと身を翻すと、一陣の風に一瞬家宣が目を閉じた間に、桜の中に消えてしまった。
そんな庭の様子をさし窺っている目があった。寝殿の戸の陰から。
前大相国である。彼はおかしそうに、けれど嬉しそうに顔をにやつかせていた。
何とも微笑ましい光景ではないか。
やがて、先程の細長の姫君が前大相国のもとにやって来て、
「大殿、拾って参りました」
と、料紙を手渡した。
「おお、すまなかったね。こなたを女房みたいに使って。ありがとう」
「いえ。私は女房として召し使って頂くべき身分でございますから」
「いやいや。こなたは今は我が妹の娘」
前大相国はそう言った。
姫御前尼の養女たる調姫君に、わざわざこんなことをさせたのは、前大相国の作戦であった。家宣に彼女を見せるため。
うまく行ったようだった。




