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乱声・七拍──因果(漆)

 翌日、敏平はついに旅立った。


 姫君の身心に強い刻印を残したまま。


 洛外追放になった讃岐も、今日ともに発つ。


 洛内に居住することは許されないものの、京中の人々と親しく交流することは構わない。また、日常の生活にも、一切規制はない。ただ洛中に住んではいけないというだけであって、その他は自由だ。大殿は、鳥羽の別邸の脇に住まいを設えてやろうとしたが、讃岐はそれを断った。今日、大殿一家に暇を告げ、彼女はそのまま生国の讃岐へ帰る予定である。


 敏平を伊豆へと護送する領送使は、自らその役を願い出た右馬権頭長国であった。


 長国は、敏平の父・三位殿を安房に流す折の領送使に同行していた。


 前の時憲の乱では、官軍として戦功を立てたが、心の中では三位殿の無実を信じ、時憲の忠義をゆかしくも思っていたのである。


 今、その三位殿の子が伊豆に流されようとしている。長国は三位殿への思いから、敏平を守り、今度こそ無事に伊豆まで送り届けたいと思ったのだった。


 そういう長国であるから、敏平が六条前太政大臣家の人々と、綿々と名残惜しみ続けているのを許して、いつまでも黙って待ってやった。


 途中まで見送りたいという讃岐の願いも聞き入れ、


「三河でも駿河でも、お気の済むまでついていらっしゃい」


と言ってやったのだった。


 長い別れの後、後ろ髪をひかれながら、なお西の対を見つめつつ、ようやく敏平は邸を発った。


 八葉の車窓から、六条西洞院の邸が見えなくなるまで、いつまでも見つめ続けた。西の対の奥で、走り出して後を追いたいのを必死に堪えながら泣き伏しているであろう姫君へ、思いを馳せながら。


 二度と戻れないかもしれない都。いつか必ず戻ると誓ったが、何の保証もない。


「姫君。あなたにいつまで孤閨を強いらなければならないのだろう。いや、永遠にかもしれない。ああ、何と心ない契りを結ばせたものだろう。永遠にあの人に一人寝を強いるなど……!」


 待たせる方は他に気もゆくが、待つ方はただひたすらその思いだけである。待つ方がずっとつらい。


 自分の思いばかりで姫君を思いやれなかった、昨夜の自分を悔いた。


 そうして懺悔の潮に呑み込まれた時である。車が急に停った。


 もう洛外には出ただろう。何事であろうか。何か不都合なことでも生じたのか。


 敏平はしばらくそのまま放置されていた。


 大分経ってから、ようやく右馬権頭長国自身が静かに進んで来て、


「敏平の君、ちょっとお降り下さい」


と言った。


 後ろに尼そぎの老女を一人連れている。老女といっても、犯し難い品位と清浄さに全身つつまれている。一目で気高い印象を受ける。何者かと思わず目を見張るほどの老女だ。


 敏平、訝りつつも、言われた通りに車から出た。そして、正面から老女を見つめた後、すぐ頭を下げた。だが、次に顔を上げてみると……


 凛と張りつめた老女の面が、一瞬にして泣き顔に変じていた。老女はよよと泣き始めた。


 長国、老女の背をやさしく撫でつつ、敏平へ注意した。


「こちらは宇治から出てきて、御身のお通りを待っていらした御方。もとは典侍でいらせられた御方です。故風香中納言殿の北ノ方、韶徳三位殿の御母君にいらせられます」


「えっ、では……?」


 祖母か、実の?


 大納言典侍殿。紛れもなく敏平の祖母である。


 典侍殿は喜びと悲しみの混じった涙顔をじっと敏平に向けた。涙に咽び、言葉もない。ただ六歳の時に別れた孫の、すっかり大人になった顔を見つめるばかりだ。涙ではっきり見えないのを、口惜しく思う。


「お、祖母(おおば)君。祖母君っ」


 彼は胸を突かれた。何とも言えないこの衝動。


 これが、これが血族だ。肉親とはこれだと身体が言っている。彼が初めて逢った肉親だ。そう、祖母だ。


「祖母君!」


 彼はいきなり老女の身を抱きしめた。


「おお」


 老女は若い孫の腕力に驚いてか、思わず声を上げていた。


「青海波の君よ!」


 彼の顎の下の典侍殿の声は、慈愛にあふれるやさしいものだった。


「あたたかい。あたたかいです、祖母君」


 彼は涙を流していた。


 典侍殿は孫の胸に泣く。


「よく、よく生きていてくれました。私はこなたが殺されてしまったものとばかり思っていた。一度は絶望して死のうとしたこともあったなれど、さような過ちを犯さなくてよかった。大きゅうなって。ああ、本当に立派になって。長年、宇治でひっそり暮らしていたけれど、こなたが生きていることを知って、どうしても会いたくなったのです。会えてよかった。ああ、まことに」


 包まれている胸や腕の大きさは、感慨深い。それから、顔を上げ、敏平の顔を穴のあくほどまじまじと見つめる。


 頻りに頷きながら、典侍殿。


「ええ、やはり確かに我が青海波の君。幼い頃の面影がちゃんと残っている。瞳の色も昔と少しも変わらぬ」


 感動的な孫との再会を果たした典侍殿だったが、ふとすぐ側に、市女笠の女が一人立っていることに気づいた。


「私を育てて下さった、讃岐の君ですよ。今でも我が母と思っております」


 敏平がそう言って紹介した。


「おお、こなたが」


と、典侍殿は涙をもう一つ零した。


「よく我が孫を育ててくれました。思えば、死んだ筈の孫がこんなに立派に成長して、今日まで生きてこられたのは、ひとえにこなたのおかげです」


 そう言って礼をした。


 勿体無いと讃岐は恐縮して、典侍殿の頭よりも身を低くして言った。


「これはただ、亡き清花の姫君のご尽力故のことです」


 典侍殿、それには肯く。


「ええ、まことに。清花の姫君が我が孫を助けて下さった。そして、琴の灌頂まで授けて下さった。孫が生きてこられたのは姫君のお優しいお力故のこと。感謝してもしきれるものではありませぬ。かの人の菩提を弔い、讃岐の君の後生を祈りましょう」


 その時、領送使長国が、


「さ、そろそろ出発しませんと」


と促した。


 名残は尽きない。だが、いつまでもこうしてはいられまい。


 しかし。会えたと思ったら、すぐに別れだなぞと、あまりに無情過ぎる。


 長国、こう言った。


「本日は大津で一泊します。大上も宜しければご一緒に」


「えっ?」


 敏平と典侍殿が同時に叫んだ。


 長国は黙って二度頷いた。


 それで、典侍殿は大津まで同行し、一晩孫と語り明かしたのであった。


 この世では会えないと思っていた孫に会え、典侍殿は生涯に思い残すことはなかった。


 宇治に戻ると、清花の姫君への心からの感謝から、その供養を行い、毎日朝夕、その姫君の菩提を弔った。そして、孫の一日も早い帰京を祈りながら、一年後に静かに没するのである。

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